0(序章)
作業台の薬瓶が、乾いた音を立てて倒れた。
「レオン・ノマレス。国法第六条――毒性物質の精製および不正所持の罪により、身柄を拘束する」
突如、調合室の扉が叩き割られるように開かれ、衛兵たちがなだれ込む。
目を見開いたレオンは、まだ手に乾ききらぬ薬剤を握ったまま、言葉を失った。
「待て、それは医療用途だ! 毒ではない、証人も──!」
「黙れ」
腕をねじ上げられ、問答無用で連れ出される。
何が起きたのかもわからぬまま、光は背後に置き去られ、彼は暗がりへと引きずり込まれていった。
裁きの場──というにはあまりに簡素な部屋。
問答形式すらなく、形式的な判決が読み上げられただけだった。
「国家に仇なす毒薬の製造は、命に関わる大罪。お前には真実を吐かせる必要がある。──連行しろ」
レオンは歯を食いしばった。 誰も聞こうとしない。誰も見ようとしない。
自身の過去も功績も、何もかもが無かったかのように扱われていた。
辿り着いたのは拷問室。 冷たい鉄と石が支配する空間には、血の臭いが染みついていた。
そこにいたのは一人の男──看守のハウル。 皮の鞭を手に、悪意だけを笑みに湛えて待っていた。
「随分と“高貴”な手つきだったな薬師様ァ。確かレオンとかいう名前だったな!今日からは、その綺麗な背に“国家の印”を刻んでやるよ」
最初の一撃が、何の予告もなく背中を裂いた。
乾いた音と共に、レオンの息が止まる。
二発、三発。肉が裂け、血が散る。 だがレオンは叫ばなかった。歯を食いしばり、唇を噛み切ってまで声を殺した。
「へぇ……強情なこった。泣きわめくガキよりマシかもな。
でもな──お前みたいな“利口ぶったやつ”が一番ムカつくんだよ」
鞭がしなり、レオンはさらに歯を食いしばる。
「お前の薬を飲んだ子供が、泡吹いて死んだってよ。
その母親は後で首を吊って死んだってさ。最低だな!お前が殺したんだ」
背を貫くような痛みにグッと声が漏れる。
「どうせ、汚ねぇ商人に金握らせて、口封じしてたんだろ?
お前の正義ってのは、安いもんだなぁ」
頭の芯まで痛みが響く。
「なあ、どうして最後に“本当の毒”を混ぜなかったんだ?
どうせ嘘をつくなら、全員殺しちまえばよかったのになぁ」
受けた衝撃に、頸や手足が震え出し、悪寒がした。
「今さら“冤罪”だ? 笑わせるな。
感謝しろよ。俺のお蔭で、この王都が今日も安全でいられるんだからな」
言葉が鋭く突き刺さる。 お前の薬は毒だった。 お前の言葉に騙された。 お前のせいで死人が出た。
全ては作り話。 だがそれが“事実”と判断された今、反論は無意味だった。
最後の一撃が骨に響いた時、レオンの意識は一瞬かすれた。
鉄格子の閉まる音。 身体は冷たい石の上に投げ出されていた。
背には無数の裂傷。 視界は霞み、口の中に広がるのは血の味。 全てが遠く、重く、世界は沈黙に包まれていた。
それでも、ほんの小さな月明かりを見つめながら、レオンは思う。
(……なぜだ)
言葉にできない問いが、喉の奥で泡のように弾けて消えた。
無実は訴えられず、正しさは届かず、ただ痛みだけがそこにある。
虚ろなまなざしが、救いを求めていた。 その夜、レオンの心は絶望に吞まれながら“抗うように求める衝動”に突き動かされていた。
そのとき――
岩壁の裂け目から、一筋の月光が差し込んだ。
『過去を代価に、未来を得るか?』
深い森の霧の中で聞こえるような、低く湿った声。
耳で聞くよりも、心の奥で鳴っているような、そんな錯覚に囚われる。
どこかで聞いたことのあるような、古代語の残響。
静かなる問いであったが、レオンの心は煮え立つ混乱と絶望の中、藁にもすがる想いだった。
胸の内に満たされる戸惑いや焦燥に抗うことはできず、彼はただ黙して頷き、肯定してみせた。
すると、彼の身体から《半透明の石》が現れ、柔らかく浮かび上がって淡く光り始めた。それは手のひらに収まり、湧き水の様な冷たさを感じさせた。
月光の当たる角度によって微かに翠がかったその様子は、まるでトパーズの原石の様に思えた。
次の瞬間、石の内部に微細な紋様が揺らめいていることに気が付いた。
「これは……」
のぞき込むように右眼を近づけると、石の内部がまるでルーペの様に拡大され、奥から層を成すように暗紫色の文字が浮かび上がってくる。
『十の夜を経て北の市場に至れ。赤い外套の少女が、汝を待たん。』
淡く発光する光が瞳を照らし、文字は静かに、だが確かにレオンの意識に染み込んでいった。
心の奥で、何かが脈打つ。まるで、自身がこの石に試されているかのような、そんな感覚。
「十の夜…北の市場…赤い外套の少女」
反芻することで言葉は彼の肉体――魂の深みに溶け込んだ。 脳裏を覆いつくし、絶望していた思考を塗り替える。
それはもはや、希望と呼ぶほかなかった。
それが後に、人々が信じる「啓示」となることなど、この時の彼はまだ知らなかった。