99(鎮魂)
礼拝堂を包んでいた黒煙のような瘴気が、ゆっくりと――だが確実に、消えゆこうとしていた。空気の重さが徐々に和らぎ、重く沈んでいた天蓋のような気配が、まるで陽の光に追われる影のように退いていく。
重苦しい静寂の中、誰ともなく空を仰ぎ見た。瘴気の霧が晴れゆくにつれて、天頂から射し込んできたのは、雲間を割って降りそそぐ真昼の陽光。
その光は、ひどく眩しく、そして――暖かかった。
「……終わったのか」
そう呟いた兵の言葉が、誰かの嗚咽とともに空へ溶けていった。
悪魔祓いは成った。
人の領域を侵したゼレファス、その源たる穢れは、ベルド神官長とその祈り、そして彼に託された仲間たちの手によって打ち祓われたのである。
しかしその代償は、あまりにも大きかった。
***
後日、暫定的に構成された評議会にて、王位継承の是非が問われた。
人々の目が自然とレオンへと向けられる。
王都奪還に参戦し、多くの命を救ったその男は、確かに“英雄”であった。
しかしレオンは、ひとつ、首を振った。
「……私は、王の器ではありません。この命は、傷ついた者のために使いたいのです。どうか、民の声を真に聞ける者に――王の座を」
その視線の先にいたのは、静かに黙して立つ、かつての王子――シグルドであった。
この戦いのなかで冷静に、勇敢に先陣を切り、そして人の命を重んじた正統な後継者。その姿に、多くの者が「王の器」を見出していた。
評議会は、満場一致でシグルドの即位を支持した。
***
そして、王権の中枢にあり、イシュメルと癒着していた旧王政の構造は――シグルド王の手によって、解体されることとなる。
腐敗と利権の網は断ち切られ、法と制度は、“民の手”へと徐々に委ねられてゆく。
国を覆っていた“見えざる瘴気”が、ようやく祓われていく。
この国は今、新たな治世の第一歩を踏み出したのだった。
***
陽光が王城に降り注ぐ朝、亡骸の収容と顕彰が始まった。
礼拝堂の前、整然と並べられた棺の中には、ザモルト、イレガン、クラウス、ダグラス、そして多くの兵士たちの遺体が横たわっていた。彼らの顔は、どれも穏やかだった。死をもって国を救った――それが彼らの、最後の矜持だった。
棺の前に立ったシグルドは、頭を垂れ、ひとつひとつの名前を読み上げた。
兵たちのうめきや祈りの声が、礼拝堂に染み渡る。
その傍らで、バロムに支えられたエメルは涙に濡れた頬を拭うことすら忘れ、ひたすら祈りを捧げていた。
リオスは、治療班の南拠点にて安静にしていた。右腕を失いながらも、命を繋ぎ止めたのは奇跡に等しかった。アルセリオの手厚い処置と、リシェラの尽力、そしてなにより、リオス自身の気力が彼を生かしていた。
「まだ……死ねない。俺には、誓いがあるんだ……」
彼が静かにそう呟いたとき、リシェラは微笑んで応えた。
「ええ、きっと叶いまよ」
***
一方、王都では新体制の布陣が着々と進められていた。
シグルドは、旧王政の腐敗を断ち切るべく、まずマウリクスの罪を明らかにすることを命じた。
ネミナの誘拐、監禁、処刑の計画。そして、幽閉。
さらには、影でアルデマン卿の失脚を企んでいたこと、シグルドとの密約の裏、独断でレオンの暗殺を画策――それらの数々の罪状が白日のもとに晒された。
マウリクスは投獄された。法の裁きが下されるまで、王家の名のもとに囚われの身となる。
***
新たな政権のもと、要職も刷新された。
財務卿にはヴァルド・レヒトンが任命された。
彼はシグルド王の信任を受けながらも、自らの行動を悔い、民のために働くことを誓った。
宰相には、ゼレファス討伐戦の際、軍を派遣し支援してくれた賢侯――フェルスタット辺境伯が就いた。政治と軍事の両面に通じ、王政の中立性を支える象徴として期待された。
王国騎士団の統制権は――王たるシグルド自らが担うこととなった。
王都の安定を支える大義として、その責任を引き受けたのである。
もっとも、権力が過度に一箇所へと集まることを避けるため、軍政そのものは王権のもとに置かれた評議会によって統制される仕組みとなっていた。
指揮権・人事・財政はそれぞれ別の評議官に分掌され、王はその全体を束ねる象徴にして、必要時には裁定者として機能するに過ぎない――それが新たな軍制のかたちであった。
また、ベルド神官長亡き後、討伐戦の生き残りであり、最も高い聖句階位と人望を持った神官――
リュカ・セファスが、新たな神官長に任命された。
彼は、かつてベルドの側近として祈りを支え、何より「信じる」という力の本質を知る男だった。
「神は、祈る者にではなく、信じた者に応え給う」
そう語るその眼差しは、かつてベルドが遺した静かな覚悟と、どこか似ていた。
***
そして――
レオンは、今なお南の拠点で負傷兵たちの治療に身を捧げていた。
英雄と讃えられながらも、彼自身は名誉に背を向け、血に濡れた手で命を救い続けていた。
「もう、失わせはしない」
そう語るその背に、人々はかつての王としてではなく“命を紡ぐ者”としての敬意を抱いた。
ゲルハルトは、シグルド王の側近として民兵再編や国防体制の見直しにあたった。
戦いの中で受けた傷を隠すように、静かに働き続けたその姿に、誰もが畏敬の念を抱いた。
バロムとエメルは、王都の民の弔いと、彼らが遺した記録の保存に尽力した。
バロムの筆は、失われた者たちの存在を歴史に刻み、エメルの祈りは、誰よりもその魂に寄り添った。
***
そして、数か月が経過していた
セリーヌはレクトミルにより体調を維持し、薬草園から王城へと住まいを戻していた。王妃の傍らには常にリシェラが控え、彼女は母として、シグルド王を陰より見守っている。
戦いを生き延びた英雄たち――レオン、バロム、ゲルハルト、そして治療を終えたリオスは、帝国へ向かうこととなり、旅立ちの手引きは、シグルド王が自ら行った。
「彼らの歩む道に、障壁があってはならぬ」と。
ネミナの身は、現在帝国のセシリア家の庇護下にあり、出産に備えて静かに暮らしている。
彼女の傍には、かつての同志たちが再び集うことになる――それは、約束された再会であり、希望であった。
***
瓦礫の中から立ち上がる王都には、復興の鐘の音が響いていた。
瘴気が祓われたその空には、青が戻り、人々の心にもまた、日常の色が差し込み始めていた。
かつて、この地に立っていた数多の者たちの名を、誰ひとり忘れてはならない。
それが、この国に生きる者の、たった一つの義務だった。
そして――
新たな治世が、静かに幕を開けた。