第0話 あの日々の追憶
苦痛よ、私はついに貴方を尊敬するに至る。貴方は決して私から離れることは無いが故に。
寝室の扉が丁寧に開かれた。
「──エリザよ、ブラッディ・メアリーはお召しにならないのですか?」
嗅ぎなれている日焼けした革の香りがすると同時に、埃のかぶった道具の様な声が辺りに響く。
「これは傑作ですよ。湿度が落ち着いていたのもあってなのか、質の良い物が仕上がりました。...今から”お休みになられる”のでしょう?なにより...」
「”Buon vino fa buon sangue”(良い酒は良い血を作る)」
うなだれるほど聞いたその言葉で、私はおもむろに遮った。
「...その通りにございます。」
「酒は好い、ただ生憎、今はその様な気分ではないのだよ」
「これは...大変失礼致しました。」
床の軋む音が離れてゆく。今宵は、月の見えない暗い夜だった。
「それでは...」
「──まて、やはり頂こう」
閉まりそうな扉の裏、隠れてしまいそうなその背中を、私は呼び止める。
「...畏まりました。只今より用意いたします故、今しばらくお待ちくだされ」
* * *
グラスに注がれるのは、赤よりも紅い液体。かつての王国淑女の名を冠したその酒は、尋常ならざる者にとってのこれ以上ない趣向品である。──さながら、私のような者の為。
「どうされたのです?今晩は元気がないようにお見受けします。私のような老いぼれに出来ることがあるならば何なりと...」
「ならば、貴様も呑みなさい」
「エリザの願いとあらば、喜んでお付き合いいたしましょう。こうして席を共にするのは、久方ぶりでございますな?」
彼と酒を共に飲むのはいつ以来になるのだろうか?
「して、どうされたのです?」
「──招かれざる客は、門を叩きはしなかったのか?」
違う...そのような事を話したいわけでは──
「そのことでございますか。本日は、未だどのような”客”も訪れてはおりませぬ」
少し悲しそうに彼が答える。
「...いや、すまない。少しだけ過去を、思い煩っていたのだよ」
「...」
「あの頃は、賑やかでしたな。私以外にも沢山の者が、貴方様の周りにはいらっしゃいましたから」
──二人だけの邸に、つかぬ間の沈黙が流れた。
エリザベートが先に、この沈黙を打ち破る。
「あの頃、私に付き従ってくれていた者たちは皆、いなくなってしまった」
「...きっと、魔が差したのだろう。そのようなことなどありもしないだろうに...お前も消えてしまうような気がして...」
なぜ今更にそう思ったのかは分からない。積もり積もった寂しさや孤独からくる不安の所為なのだろうか?ただひ今宵はひたすらに、不吉な予感がしてならなかった。
「他に誰もいない今、貴様には館の仕事をすべて受け負わせてしまっている。下らぬ理由で時間をとらせてしまって...すまなかった」
柄にもない、きっと顔にも出てしまっていたのだろう。
「...左様にございますか?おぉそれはそれは...いえ、構いませんよ。私も、久しぶりにエリザと晩酌を共にできて楽しかったですから」
彼は顔の皺をよせて柔らかく笑う。
「...な、何が可笑しい?」
「いえ、何もおかしくなどありませんよ。この老いぼれが、貴方様の励みになれるのならば、私にとってはただそれだけで充分なのです」
「それにエリザよ、私はそう簡単に貴方様の御側を離れたりなどは致しませぬ。それは貴方様自身が、よくご存じでしょう?」
そうだ。彼、コドニは、いかなる時でも私の側を離れたりなどはしなかった。私たちは今、この瞬間まで...
「...ならばよい。私はそろそろ最後の瞑想に取りかかる。貴様も、自身の職務に戻りなさい」
「はい、仰せのままに…」
やせ細ってもなお頼もしいその背中が、見えなくなってしまう前に、私は再び声をかける。
「コドニ...」
「──貴方は、私を気にかけて、ここまで尽くしてくれるのだろう。様子を伺いに来てくれるのだろう...私が...貴方の...」
「...懐かしいですな、その名で呼ばれるのは」
私の言葉を遮るようにそう言って、彼は扉から姿を消した。
あぁ…まただ、また伝えられずに…
しばらくの放心の後に私は、彼のこしらえた落ち着いた意匠の椅子をから立ち上がる。”眠りの前”は瞑想をするのが私の習慣だ。
相応しき者なき玉座の間で、私は瞑想に耽る。今宵浮かび上がったのは、懐かしきあの日々の追憶だった・・・
”ああ、苦痛よ、貴方は私の最愛の人よりなお情け深い。
苦痛よ、私は理解している。
死の床に私がつく日まで、貴方は私の隣にあって、私の心の奥底で、私とともにある事を”
不定期で更新します。
よろしくお願いします。