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【プロローグ】

――静かな夜と、まだ動き出さない朝の間に


 


 午前四時三十分。

 目覚まし時計は鳴らさない。アラームはスマートウォッチのバイブ設定にしてある。妻と娘を起こしたくなかった。


 柿谷誠司かきたに せいじは、重たい体をベッドから引き剥がすようにして起き上がった。全身が鉛のようだった。寝返りすら記憶にないほど、深く、けれど短い眠りだったのだろう。


 昨日――いや、正確には“今日”になるのかもしれない――帰宅したのは二十三時を過ぎていた。会社の車を社用駐車場に戻し、自分の車に乗り換えてからの帰宅。家の玄関を開けたとき、リビングの明かりはすでに落ちていて、家の中は静まり返っていた。


 テーブルの上には、保温された夕食の皿と、妻からのメモが置かれていた。


『今日もお疲れさま。明日は早いんだよね? お弁当、冷蔵庫に入れてあるから持ってってね。無理しすぎないで。』


 短い、けれど温かい言葉だった。


 柿谷は目をこすりながら、そっと寝室のドアを開けた。まだ眠っている家族の寝息が、ほんのかすかに聞こえてくる。


 娘――真美は、布団を蹴飛ばしながら、気持ちよさそうに眠っていた。毛布を掛け直してやると、小さな手がふわりと自分の手を握った気がして、思わず苦笑する。


「……まみ、ごめんな。今日も顔見られそうにない」


 そっと手を離し、寝室を後にする。リビングに戻って弁当を鞄に入れ、着替えを済ませ、作業服のファスナーを上げる。そのとき、ふと目に入ったのは冷蔵庫に貼られた絵だった。


 保育園の行事で描いた“パパの似顔絵”。ぎこちない線で描かれた笑顔の中年男は、妙に頬が赤かった。


「……似てるんだか似てないんだか」


 けれど、柿谷にとっては、何よりの栄養剤だった。


 


 今日の現場は遠い。車で片道二時間。施工会社が押し込んできた工期に合わせて、現場立会いは朝七時開始。となれば、六時前には到着しておきたい。現場の確認、準備、職人たちへの説明、責任者との顔合わせ――全部、営業の仕事だ。


 いや、実際には“全部押しつけられてる”だけかもしれない。


 営業、施工管理、図面の読み合わせ、見積書、打ち合わせ、クレーム処理。

 そういう雑務を全部引き受けて、柿谷は「現場が止まらないように」動き続けていた。


 


 車のエンジンをかけると、FMラジオからは朝のニュースが流れていた。

 「今年の新卒平均給与は、過去最高の――」と、アナウンサーの明るい声が響く。


 思わず舌打ちした。


「……いいなあ、時代に守られてる奴らは」


 言いたいことなんて山ほどある。

 でも、愚痴ったところで、今日の現場が楽になるわけでもない。


 信号待ちの間に、昨夜作った工程表をスマホで見直す。メールの未読件数は27件。ほとんどが業者からの問い合わせと、上司からの「進捗どうなってる?」の連打だった。


 ――休みの日に連絡するなって法律、誰か本当に守ってんのか?


 そう思いつつも、すでに体が“対応する”前提で動いていることに、ふと気づいて虚しくなる。


 


 現場に着いたのは予定通り、午前六時前。


 職人たちが次々に集まり、軽い朝礼と作業の確認を済ませ、各自が自分の持ち場へ散っていく。


 柿谷は周囲の状況を確認しながら、ふと空を見上げた。


 冬の空はまだ暗く、遠くで工場の煙突が白い煙を吐いていた。


 


 ――それでも、やるしかない。家族のために、生活のために。


 冷たい風が吹き抜ける中、ヘルメットのあご紐を締め直す。

 まるで、戦場に向かう兵士のような気分だった。


 


 ――だがその日、いつもと同じだったはずの作業は、ほんのわずかな“ミス”で狂ってしまった。


 


 配管の接続部で異音がした。職人たちの声が騒然とする。

 崩れかけた土砂、濁流のように吹き出す水。誰かが「逃げろ!」と叫んだ。


 気づいたときには、柿谷は脚を取られていた。

 反射的に誰かを突き飛ばし、代わりに自分が流された。


 耳鳴り。

 視界がぐるぐると回る。

 息ができない。

 冷たい。重たい。苦しい。


 


 ああ、ここで俺、死ぬんだな――。

 でも、誰かを庇えたなら、まあ……いいか。


 


 ふっと意識が遠のいていった。


 


 


 次に目を覚ましたとき、柿谷は見知らぬ空間にいた。


 


 真っ白な空間。空も大地もなく、ただ光に包まれている。


 目の前に、見たこともない人物が立っていた。


 男女の区別もつかない、神々しいほど整った顔立ち。

 白いローブをまとい、静かに柿谷を見つめている。


 


「目覚めましたね、柿谷誠司さん」


「……ここ、どこだ? まさか、病院……じゃねぇよな」


 


「いいえ。あなたはもう、命を落としています。

ここは、死後の狭間。私は、神のひとりです」


 


 神? 夢でも見てるのか?


 


「あなたの人生は……私から見ても、あまりにも、報われなさすぎた」


「朝早くから働き、家族の時間も削って、責任を押しつけられて。

それでも耐えて、踏ん張って、生きてきた。

……なのに、その結末があれだなんて。私は、許せません」


 


 どこか本気で怒っているような、神の声。

 不思議と嘘ではないと感じられた。


 


「ですから私は、あなたにもう一度、別の世界で“まともな人生”を歩んでほしいのです」


 


「……異世界転生ってやつかよ。俺、ゲームもラノベもあんま詳しくねぇけど……」


 


「何もチート能力を与えるわけではありません。

ただ、あなたがこれまで積み上げてきた知識と努力が、“役に立つ世界”へ送るだけです」


 


「……それがある意味、一番ありがてぇな。俺は、俺のやり方しか知らねぇから」


 


 神は微笑んだ。


 


「どうか、次の人生で――あなた自身の“価値”を見つけてください」


 


 


 光が、柿谷の全身を包み込む。


 世界が、ゆっくりと歪んでいく。


 


 ――長い、長い社畜人生だった。

 だが、もし次の世界で、自分の知識と経験が誰かの役に立つのなら。


 


「……この仕事、俺がこなしてみせる」


 


 それが、彼の再出発の第一歩だった。


 


(プロローグ・了)

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