8章 ユーフロシーニャ
──2年前 某国──
私はユーフロシーニャ。
いつしか荒れ果てた戦火の中で息をすることしかできなくなっていた。
家族の笑顔は、もうどこにもない。
パパも、ママも、そして大好きだったお兄ちゃんも、すべて戦争という名の暴力に奪われてしまった。
私には、触れられる温もりも、愛を囁きかける声も残っていない。
ただ、一人の戦災孤児として、空っぽの世界に立ち尽くすだけ――。
そして、ある日、日本からやってきた女性が私の「ママ」になった。
人道支援団体『窓辺の天使』、櫻木有栖。
養子縁組。
それは不思議な響きだった。
血のつながりのない「家族」でもそのママは、私に向かって「ユー」と呼びかけ、いつも優しい笑顔で微笑んでくれた。
この世界がどれほど残酷でも、彼女の優しさは私を包み、私の心にぽっかりと空いた穴を少しずつ埋めていった。
◆・◆・◆
日本に渡り、ママは私に新しい世界を教えてくれた。
言葉、文化、食べ物、着る物、そして、インターネットやパソコンの使い方まで。
初めて知る豊かさの中で、私は毎日が新鮮で、未来に少しずつ色がついていくような感覚に包まれた。
ああ、こんな幸せがあるのなら、どうか、どうかずっと続いてほしい。
私はそう、神様に祈ったのだった。
けれど、やがてママに新しい命が宿ったとき、私の祈りは変わった。
ママのお腹の中に弟ができたと知り、私は一層の喜びに打たれた。
「優」という名を与えるつもりだと笑うママに、私は願った。
「どうか早く、弟に会わせてください」と。
その願いが叶うことが、私の幸せの頂点になると信じていた。
だけど――。
その願いは、残酷な形で現実となった。
弟は、私の祈りに応えたかのように、ずっと早く、この世に生まれてしまった。
でも、その命は、幼すぎて、この世の風を感じることもできずに消えていった。
私は、願ってしまった。
あまりにも早く、弟に会いたいと。
その祈りが、弟を死に追いやったのだと感じた。
◆・◆・◆
それからの毎日は、光を失っていった。
私をかつて無視していたパパは、私を見るたびに怒りをぶつけ、手を振り上げるようになった。
優しかったママも、私を見る目がどこか遠くを彷徨い、まるで異世界に迷い込んだように意味のわからない言葉を口にするようになった。
最初は、私が天使で、パパが魔王だった。
でも、そうじゃないと教えようとすると。
ママの中から完全に『私とパパの存在は消えた』
ママが間違えていたとしても、『本当』を言ってしまうと、それだけでママの世界から消されてしまう。
だから。私はママの嘘を、嘘のまま、受け入れた。
「僕は、この世界の最後の天使アリスの加護を受けた黒の勇者カインドです。僕は、トラックに轢かれてこの異世界に転生しました。待っていてください、アリス。僕が必ず、君をこの闇から救い出してみせる」
彼女の目の中で、私は「魔物と戦う勇者」であり、弟の姿をした亡霊のようだった。
そして、ついには、ママは病院に、私は施設に送り込まれ、また家族という温もりから引き離されてしまった。
それでも私は、毎日、ママに会いに行った。
ママはもう私をユーフロシーニャとして見てはくれなかったけれど、それでも私は、かすかな希望を抱いていた。
インターネットで、ママの病を癒す方法を探し、少しでも彼女が元の優しい笑顔を取り戻してくれることを祈り続けた。
◆・◆・◆
そして、いつかその望みを誰かに話してみたくて、ユーチューブで、お酒を飲みながら悩みに答える一人の相談者に出会った。
カメラ越しに語りかけるその人に向かって、私は言葉を紡いだ。
『黄金の勇者様。僕はこの世界の最後の天使アリスの加護を得た黒の勇者です』
私の紡ぐ言葉が、水色のメッセージになって届く。
『魔王城に幽閉された天使アリスを救い出すにはどうしたらいいですか』
「なんだろう……こういうのなろう系っていうんすか? めちゃくちゃよくできた設定っすね」
『設定ではないです。現実の話です』
言葉を続ける。
『僕は異世界の魔王城に幽閉された天使アリスをこの世界に連れ戻したいんです』
お願いします。
『どうか知恵を貸してください』
ママと私のおかしな世界を、初めて理解してくれる人。
黄金の勇者様。
どうか。お願いします。
「へえ、異世界転生ものなのに、異世界の問題じゃなくて、現実世界の方の問題解決しちゃうんだおもしれー。なんか僕、こういうのって割と嫌いじゃないんすよね。面白そうなんでもう少し話聞こうかなーって思います、はい。」
『ありがとう。黄金の勇者様。異世界転生する前の僕は戦災孤児でした。そして────』
◆・◆・◆
「なんだろう、この人の話、最後まで聞こうと思ったのっていくつか理由があって。このスパチャの通貨って今、戦争をしている某国の通貨なんで、この人の話って割と信憑性があると思うんすよ」
ママのカードから使ったフリヴニャのことを言っていた。
「世界では4億人以上の子どもが紛争地域で暮らしているとか、世界の子どもの6人に1人が、紛争下で生活しているみたいなことって、僕、前にも言ったことあると思うですけど。国連の22条だったかな? ああ、21条。こどもが自分の国で適切な方法で監護を受けれない場合って、国際的な養子縁組が認められてて、日本ではそんなには大きくニュースに取り上げられていないんで、皆さん知らないと思うんすけど、こういう話って割と世界では普通にあるんすよね」
ママがいた人道支援団体『窓辺の天使』は、そういったことを日常的にしていたって言ってた。
ママが帰ってきたら、私もそこで、ママと一緒に働きたい。
「この人のお母さんになった人って、割ととても真面目で行動力もあって、人間として立派な人で、すげーなって思うんですけど、自分のこどもを流産したら、そりゃめちゃくちゃショックじゃないすか。なんだろうな……そんな完璧な人ほど、考えすぎて思い詰めてしまうんで、こういう病気にもなりやすいのではないかなと僕は思うのですよ」
知らない人の、ママの悪口のメッセージ。
「ええと、ポジティブ人間さん。『うつ病とか甘えだろ。そんな心の弱い女が国際養子縁組とかマジで草』……いかにも夏休みって感じでいいっすね。1200円あざーす」
知らない人は、知らない人の悪口にお金を使っていた。
そんな余裕があるほど、幸せそうな人。
「なんだろうな、まず、うつ病と統合失調症って実は全然違う病気すよ? 症状も、原因も、治療法もめちゃくちゃ異なります。どう説明したらいいかな。たとえば、うつ病って気分の落ち込みとか、興味や意欲の低下とか、眠れねー食欲わかねーとかが特徴的なんですが。原因としては、実は判明してて。ストレスとか生活環境とか脳内の神経伝達物質のバランス異常などが挙げられるんすよ。うつ病の治療では抗うつ薬や心理療法が一般的すね」
黄金の勇者様は、そんな人にも親切に教えてあげている。
「統合失調症は、現時点では原因が完全には解明されていないものなのですよ。脳の情報伝達システムに関係するのではなかろうかと考えられていて、この病気って、幻覚とか幻聴とか、妄想とか、思考の混乱とか、あと感情の平板化などが特徴的みたいっすね。この病気の治療には抗精神病薬やリハビリテーションが用いられるんで、治療のアプローチも全然違います」
異世界の正体は、統合失調症。
「この人のお母さんについてなんですが、話を聞く限り、異世界とか言って現実認識が歪み、幻覚や妄想がみられるような症状があるということなんで確かに統合失調症やそれに類似した病気の可能性も考えられそうなんですが、僕は、医者じゃないんで。わかりません」
ママがこの病気のせいで帰って来れないとしても。
黄金の勇者様も、ママを連れ戻す方法が分からないってことだろうか。
それとも……。
「なんだろうな。こうした精神疾患って、周囲の理解を得るのが難しいことが多くて、偏見もつきまといがちなのですよ。でも、これらの病気って、別に心が弱いから起きるって事でもなくて。たとえば、誰でも心のキャパシティを超える出来事に遭遇すれば、防衛本能として、精神のバランスを崩すことはあり得るじゃないすか」
でも、まだ説明は続いてる。
「例えば、ポジティブ人間さんが、俺、学校でめちゃくちゃ嫌な事あってもポジティブだから、病んだりしないぜ! めちゃくちゃメンタル強いぜ! いえーい! ってやってても強盗が突然押しかけてきて、目の前で家族や友人がめった刺しにされたりしたら、ポジティブ人間さんだってめちゃくちゃショックなんで、トラウマになってもおかしくないじゃないすか」
また他の人のメッセージ。
「ええと、ポジティブ人間さん。『俺はメンタル強いから、そのくらいなんともない草』……追加のスパチャ、あざーす」
黄金の勇者様は、目をパチパチしながら、お礼を言った。
「それはなんだろうな。ポジティブ人間さんが幸せな人で、今までそういう体験したことがないからじゃないすか? どんなに普段めちゃくちゃメンタルが強い人でも、めっちゃくちゃ極限のストレスを受ければ、精神的なトラウマを抱える可能性ってあると思うすけどね」
戦争から私を助け出してくれたママはそんな弱い人じゃない。
でも、そんなママだって、悲しいことも辛いことも、あると思う。
「精神疾患の発症って、その人の置かれた環境や価値観や、受けるストレスの種類とか大きさとか、いろいろな要因が複雑に絡み合うんで単に心が弱いかどうかだけで全てを推し量れないのではないのかなって僕は思うのですよ」
そこまで言うと、黄金の勇者様は、お酒を少し飲んで……
「黒の勇者カインドさんでしたっけ?」
突然、名前を呼ばれて、ハッとした。
「あなたが神様に弟さんと早く合わせてくださいって願ったから弟さんを殺してしまったって話あったじゃないすか」
私の罪の話だった。
「なんだろうな、流産の定義って、妊娠22週未満でおなかの中の赤ちゃんが正常に妊娠を継続できなくて、出てきてしまって亡くなるってケースがほとんどでその流産って妊娠の10~20%くらいの確率で割と自然に起こってしまうものなのですよ」
黄金の勇者様は、赤ちゃんの流産の説明をする。
そうじゃない、違うの。
「原因っていろいろあるんですが、神様にお願いして早く生まれ過ぎてしまったとか聞いたことがないっすね」
弟は、私が神様にお願いしたせいで……。
「神様を否定している訳じゃないんすけど、地球上の歴史において、めちゃくちゃたくさんの人間の出生を見てきたら、神様も妊娠22週未満で生まれて来たら普通に流産で死ぬって分かるじゃないすか」
黄金の勇者様は、神様の立場で説明していた。
「神様もそこまで頭は悪くないはずなんで、そんなお願いを聞いて、てへ、早く生まれさせたら死んじゃった、とかしないと思うんすよ」
神様だってそんなのわかるから、私が間違ったお願いをしても、神様は間違わない……。
だから……。
「黒の勇者カインドさんの願いとか関係なく、弟さんって流産してたんじゃないすかね。黒の勇者カインドさんは自分を責める必要はないんじゃないかなあ、って思います」
いつの間にか流れてくる涙を拭いながら、その続きを聞く。
「黒の勇者カインドさんってお母さんの妄想を忠実に設定にしていると思うんですけど、最後の天使を幽閉している魔王と戦う4人の勇者って、ホーンオブリベリオンってRPGの話そのまんまっすよね。このお母さんってめちゃくちゃこのゲームが好きですよね。僕もこのゲーム、めちゃくちゃやりこみました」
黄金の勇者様は、ママの世界を知っていた。
「黒の勇者カインドさんが、めちゃくちゃ頭いいなって思ったのが、ホーンオブリベリオンって4人の勇者のお話なんですけど、5人目の隠しキャラに黄金の勇者っているんすよ。この黄金の勇者ってあらゆる異世界の干渉を無効化して、幽閉されたアリスを助けて現実世界に連れ戻すってトゥルーエンドがあるんですけど、黒の勇者カインドさんって僕を一貫して黄金の勇者様って呼んでるんすよね」
ああ、やっぱりこの人が。
「こういうの『なりきり』って言うんですか? ここまで設定をブレずに徹底していると、なんか僕が黄金の勇者みたいに錯覚してくるじゃないすか。これって割と大事なんですよ。このなりきりって、1対1の対話じゃなくて、場の世界の設定と構築なんで。合わせる為には、こっちもそのなりきりの設定で徹底しないといけないすよね」
この人が、本物の黄金の勇者様だったんだ。
「例えば、小学生男子たちが『くらえ!ビーム!』とか『バリアー!防いでるもんねー!』とか、なりきりで怪獣バトルやってて、そこに突然、有識者の大人とかいうおっさんがやってきたとするじゃないすか。『それは違うんじゃないですか。ビームっというのは光線です。光線は着弾に時間もかかりません。ビームの宣言の後にバリアと宣言しているのでそのビームって当たっています、キリッ』とか言ってもめちゃくちゃ怖いだけじゃないすか」
とても難しそうな話をしているようで、私にもわかるように説明する。
「正しいかどうかって割とどうでも良いことで。なりきりの中になりきりしてないただのマウント野郎が来たらめちゃくちゃ怖いだけなんで、その怪獣バトルの世界から『なんだこのおっさん。こわっ。どっかいこーぜ』って存在ごと排除されます」
そう。
ママにもそれが起こったの。
私とパパは、ママの世界から消されてしまった。
「黒の勇者カインドさんのお母さんも、これと一緒で、最初の天使と魔王は『異世界の設定が全然わかってない全然なりきりできてないやつ』なんで、この異世界に邪魔だよね? この世界にいない方が良くね? この世界から排除しようぜ、って、キャスティングが剥奪されて。そうは言っても、天使と魔王って、ヒロインとラスボスみたいなポジションなので、めちゃくちゃ重要なキャラでもあるんで、演者のいなくなった配役はきっとNPCみたいな扱いになっててじゃあ、そのNPCたちって誰がロールしているのかっていうと、パソコンゲームならシステムが全部やってるじゃないすか。異世界なら、この世界を知り尽くしている世界の創造主のゲームマスターがやってるんすよ」
そう。ママの世界の創造主は……
女神 вишневое деревоは……ママだから。
「なんだろう……黒の勇者カインドさんって最初の失敗でここまで気づけちゃってるんだろうな。めちゃくちゃ頭いいなって思いました」
楽しそうに、頭を揺さぶりながら、
「ってことで。ちょっと天使を助けて、この世界を救っちゃおうかなって思います」
画面の向こうの黄金の勇者様は、優しく笑った。
◆・◆・◆
『Евфросинья』
夢と現実の狭間、非現実的な世界、
Между мечтой и реальностью, мир такой сюрреалистический,
灼熱の空の下、名前を隠して失った。
Под горящими небесами я потерял свое имя, сокрытое.
異国の風が今まで知らなかった物語をささやきます、
Чужой ветер шепчет истории, которых я никогда не знал,
誰かの腕の中に、私は自分のものと呼べる場所を見つけました。
В чьих-то объятиях я нашел место, которое могу назвать своим.
小さな喜び、絡み合った手の温もり、
Маленькие радости, тепло рук сплетенных,
それでも、未定義の未来を想像すると涙があふれてきます。
И все же слезы продолжают падать, когда я представляю будущее неопределенным.
ホーンオブリベリオン 運命は鋼が刻む、
Рог восстания, судьба высечена сталью,
沈黙の中に埋もれていた天使たちの響きが、明らかになった。
Эхо ангелов, затерянных в тишине, нераскрытых.
君を遠くへ連れて行った世界を追いかけるよ
Я буду преследовать мир, который увел тебя далеко,
今私の影にいる英雄が立ち上がって鎖を断ち切るだろう。
Герой в моей тени теперь поднимется и разорвет цепь.
儚い命が咲き始める 優しい笑顔が眩しくて
Хрупкая жизнь начинает расцветать, твоя нежная улыбка такая яркая,
新しい絆が私を包み込み、温もりと黄金の光に包まれます。
Новые узы обнимают меня, окутывая теплом и золотым светом.
それでも運命はページに紅い傷跡を描き、
Но судьба рисует на странице багровые шрамы,
叫び声が終わりのない怒りに溶ける静かな夜。
Тихие ночи, где крики растворяются в бесконечной ярости.
私が愛した世界は曲がり、ねじれ、見えなくなっていき、
Мир, который я любил, изгибается, скрывается из поля зрения,
瞳に映る、剣と魔法の眩しい光。
В твоих глазах отражается меч и ослепительный свет магии.
ホーンオブリベリオン 闇が大地を染める、
Рог Восстания, тьма пятнает землю,
運命が私の手をすり抜け、色は黒に消えていきます。
Цвета становятся черными, когда судьба ускользает из моих рук.
メロディーは砕かれ、引き裂かれ、取り残され、
Мелодии разбиты, разорваны и оставлены позади,
今私の黒の勇者が立ち上がって空を燃やすだろう。
Герой в моей тени теперь поднимется и озарит небо.
呪われた影が支配する要塞の中で、
В крепости, где правят проклятые тени,
中に閉じ込められた天使、その鎖を断ち切ることはできるだろうか?
Ангел, запертый внутри. Могу ли я разорвать цепь?
もし私があなたを救えるなら、家に戻ってきますか?
Если бы я мог спасти тебя, ты бы вернулся домой?
炎と氷の刃を手に、たった一人で運命を切り開く。
Я держу клинок огня и льда, чтобы в одиночку вершить свою судьбу.
あなたのために、私のために――ユーフロシーニャ。
Для тебя, для меня — Ефросинья.
さようなら、愛する人、また会う日まで、
Прощай, любимая, до новых встреч,
異世界の夜を越えて、
За ночью миров неведомых,
痛みを乗り越えて歩き続けるよ
Я буду продолжать идти сквозь боль,
私たちがいつも知っている黄金の光に向かって。
К свету золота, который мы всегда знали.