7章 リベリオ精神病院 後編
僕がお母さんを救わなければならない理由が、僕の中にそっと根を下ろしていた。
誰にも理解されないお母さん。
静かに閉ざされた病院の部屋の中で、いつも遠い目をして、何か異世界の物語を話してくれるお母さん。
彼女の瞳には、僕の知らない世界が映っていた。
でも、どれほど不思議な話をしても、僕にはわかる。
それは、彼女だけの逃げ場なんだと。
母さんが僕に語りかける。
そのひとつひとつの言葉は、ここにいない人のささやきのようで、僕の胸の奥に深く刺さってくる。
「こ……この魔王城はアリスを幽閉し続けているの……ホーンオブリベリオンの平和の為に。で……でも……そ、それは魔王の妄想なの。あ、アリスを幽閉……したら世界……世界が崩壊、してしまうわ。だ、だから……黒の勇者は、あ、アリスを助け……為に……」
面会室の無機質な空気が、僕たちを隔てる壁のように感じられた。
お母さんがここに閉じ込められている限り、その言葉はいつまでも届かないままだ。
「桜木有栖さんは当分退院することはできません」
主治医の無表情な顔が、ただそれだけを告げる。
淡々と、無慈悲に。
冷たく、響く。
「何故ですか?」
僕の問いは、ただの音として虚空に吸い込まれ、意味をなさないものとなった。
「それが社会の為だからです。優くんにはまだ分からなくていい」
分からなくていい。
そう言われるたび、僕の心の中に暗い影が差し込む。
分からないままでいろ、無知のままでいろと、大人たちは僕に押しつける。
その「社会」のために、母さんはここに閉じ込められたままだという事実だけが、僕にとっての唯一の答えだった。
「よくわかりませんが、お母さんを退院させる気がないという事はわかりました」
僕の小さな声は、誰にも届かず、またその小さな部屋の中で消え去っていった。
それでも、僕には母さんを救い出すために、できることがあるはずだと思った。
だから、僕はインターネットに身を潜め、情報を集め、手段を探し続けた。
この病院の何かがおかしいことを、証明するために。
お母さんがここにいる理由が、おかしいのだということを、誰かに理解させるために。
お母さん以外の患者たちにも、僕は少しずつ手を伸ばしてみた。
性同一性障害で入院している咲さんには、彼女の恋人が別の女性といる姿を見たと、嘘を囁いてみた。
彼女の青白い顔がさらに蒼白に変わるのを見て、何かが僕の中でほころび始めるのが分かった。
薬物依存症の西田さんには、彼がかつて渇望していたものを、何気なく差し入れてみた。
彼の瞳が細まり、虚ろにゆがむのを見て、僕は心が静かにざわめくのを感じた。
認知症の鬼瓦さんには、体が無理をすることを知りながら、青い薬を渡してみた。
彼がそれを飲み、胸を押さえて苦しむ姿を遠くから見ていると、不思議と心のどこかに安堵が広がっていくのを感じた。
お母さんを救い出すために、僕はここで何かをしなくてはならない。
僕だけが、お母さんを救い出せるのだ。
けれど、警察が病院で起こる不審な出来事に気づき、疑いの目を向け始めたとき、僕の心の奥にひそむ小さな恐れが形を成してしまった。
何かが壊れ、音を立てて崩れ始めた。
僕がこの世の中から消えれば、きっと誰も僕を責めることはできないだろうと思った。
病院のおかしな点も表沙汰になる。
そうだ。
僕が病院の面会の帰りにでも死ねば、数々の不審な事件を起こしている病院は責任を問われるだろう。
お母さんは病院から解放されるかもしれない。
だから僕は、ある日、面会の帰り。
静かにトラックの前に立った。
冷たい風が僕の髪をかすめ、最後の瞬間に母さんの笑顔が浮かんで見えた。
僕をいつも優しく抱きしめてくれたお母さん、その記憶だけが僕の心の支えだった。