6章 リベリオ精神病院 前編
その病室に入るたび、私はまるで異国の地に踏み入れたかのような感覚に囚われる。
窓から差し込む冷たい光が、凍てつくような沈黙と共に室内を包み込み、私と彼女の間に越え難い深淵を形作っている。
視線を交わす看護師たちもまた、言葉なく私と同じ無力感を共有していることがわかる。
目の前には、今も天使のような微笑を浮かべる桜木有栖──私の患者がいる。
彼女の唇が、かすかに動く。
その一つ一つの言葉が、現実をゆがめ、彼女自身の創り上げた異世界へと架け橋を作り出している。
そう、彼女は自らを天使だと信じ、息子を黒の勇者だと信じて疑わないのだ。
その妄想の中で、彼女の瞳には今も命が宿っている。
しかし、それが現実にどれほど遠いかを知る私には、ただ無力にそれを見つめることしかできない。
「言っても貴方には分からないでしょう。妄想に浸りこちらに戻って来れない貴方には。それが、私はとても歯がゆい」
私は言葉を選びながら告げた。
だが、彼女の耳に届くことなどないと知っていた。
彼女の耳は、すでに異世界の言葉しか聞き取らないのだ。
「トラック……」
彼女がつぶやいたとき、私は驚いた。
現実の一端がかすかにでも、彼女に触れたのかもしれない。
そんな微かな期待が心の奥底で芽生えた。
「そうですよ、トラック……異世界にはそんなものはありません。でも、ここは現実です。トラックに轢かれて……貴方の息子さんは……」
すると、彼女の目が見開かれ、過去の記憶が光を取り戻したかのように動揺を浮かべた。
「そうよ、トラック! 優はトラックに轢かれたの!」
彼女は叫んだ。
「桜木有栖さん……分かるんですか? 貴方、分かるんですか?」
私は焦りと期待が交錯する中で彼女に問いかけた。
息子の死が、ようやく彼女の心に現実として響いたのかもしれない。
そう、私は希望を抱いていた。
しかし、その希望も束の間、彼女の目は再び異界の色を帯び、そして彼女は、淡々と呟き始めたのだ。
「……トラックに轢かれて。息子は異世界転生したのよ」
私は言葉を失った。
現実が見え始めたかと思われた彼女の意識は、再び彼女の妄想の中に消え去ってしまった。
彼女は自信に満ちた声で続ける。
「異世界転生した優は、黒の勇者となって……魔王城に囚われたホーンオブリベリオンの最後の天使を助け出す為に、他の勇者たちと力を合わせて、魔王軍は天使狩りを……」
彼女はこの場所など見えぬかのように、目を細めて遠くの光景を眺めるような眼差しで語り始めた。
息子が彼女を救うため、異世界で勇者として戦い続けるという、悲壮にして美しい幻想の物語。
その語り口に、私はただ呆然と立ち尽くし、彼女の世界がいかに遠く、手が届かぬ場所にあるかを改めて感じさせられた。
「貴方……何を言って……」
私は、呆然としたままつぶやいた。
彼女は遠く、帰らぬ彼方へと向かって歩みを進めているようだった。
狂気の中をさまようように見えて、彼女にとっては、それが何よりの真実だったのだろう。
「私は、優の仇を討たなければならないの。私を治して世界を滅ぼす魔王を倒さないといけない。異世界のために、そしてこの世界のためにも……勇者を殺した魔王を必ず倒してホーンオブリベリオンの平和が取り戻してきっと私が……」
彼女の低い声が響き渡り、看護師が彼女を止めようとするも、その手を払いのけ、彼女は確信に満ちた言葉を繰り返していた。
息子さんの死で、彼女が改善に向かったのではない。
むしろ、悪化へと向かった。
私にとって、彼女はもはや見えない霧の向こう側にいるのだ。
彼女の眼には私が魔王の影として映り、この病室は魔王城として佇んでいる。
どれほどの言葉も届かず、現実を拒むその決意の強さが、私の心を冷たく締め付けるのだった。
◆・◆・◆
足早に過ぎ去る時がその空間に沈黙を刻みつける中、病院の廊下には重々しい冷気が漂っていた。
無機質な白い壁が、どこか生気を失ったような淡い色をまとい、咲を取り巻く空気はますます重く感じられた。
そこには、絶望と希望の狭間に揺れ動く彼女の心のように、不吉な静寂が支配していた。
「俺は……負けない。絶対」
彼女の言葉は、声に出されたものではなく、心の奥深くで呟かれた囁きだった。
鋭い痛みが意識の中でじくじくと広がり、手首に刻まれた傷跡がその証明として赤々と燃えるように疼いていた。
それは彼女自身への証言であり、闇と光がせめぎ合う場だった。
咲は、長い孤独の夜を繰り返してきた。
いつまでも消えることのない夜、終わらない夢のような戦い――それが、彼女の日常だった。
「なぜ、こんなことをしたんですか……」
看護師の誰かが言葉をこぼしたが、それは無意味な問いだった。
咲の胸には、答えようのない渇望が渦巻き、説明のつかない痛みが鎖のように絡みついていた。
救命処置のために押さえつけられる彼女の身体は、冷えたガーゼの感触に触れられ、少しずつその体温を失っていくかのように感じた。
血はゆっくりと滲み、時間の流れを赤く染めるように、その場を濡らしていった。
主治医の決断は、静寂を切り裂くかのごとく冷厳であった。
彼の瞳の奥には、人を救うことの義務と無力感が交錯し、その冷静な声は病棟全体に響き渡った。
「やむを得ません。横山咲さんを隔離病棟へ──」
その響きは、咲を取り巻く空間をさらに暗くさせ、看護師たちは息を詰めるように動きを止めた。
無言のまま、彼らは彼女を担ぎ、白いシーツの上に無力に横たえられたその姿を見下ろした。
そこには、意識の外縁で揺れる咲の薄れゆく視界と、病院の冷たい天井だけが広がっていた。
現実は崩れ去り、幻想がその隙間を埋め尽くす。
咲は、光の届かない水底に沈むような感覚に包まれながら、その中で求め続けた解放が遠ざかるのを感じた。
それは一瞬の安堵であり、永遠に届かぬ祈りでもあった。
◆・◆・◆
西田司は、ただ深い闇の谷底に放り出され、底の見えない深淵をただ落ち続けているかのようだった。
かつて彼が持っていたはずの自我や記憶、そして何よりも、かすかな希望の光までもが、今や薬物の霧に溶かされ、どこにも見当たらない。
彼の瞳は虚ろに焦点を失い、まるで意識という海の中にさまよう一片の魂のようだった。
どこまでも浮遊し、虚空を見つめ、時折うめくように震えていた。
「も……もっと……もっとだ……足りない……」
その囁きはどこか、底知れぬ渇望と、底の尽きた欲望の果てのように響き、彼の魂がすでに抜け落ち、ただ肉体だけが残されているかのようだった。
彼の手は痩せこけ、骨ばり、乾いた唇からはよだれが微かに垂れ落ちる。
彼の存在は、もはや生きているとは呼べないほどに虚ろで、生の喜びを失った人形のように見えた。
その異様な姿からは、重苦しい空気が漂い、見る者の心に影を落とさずにはいられなかった。
そんな彼を、主治医は静かに、しかし苦渋に満ちた眼差しで見つめていた。
西田を助けたい、その思いだけが彼の胸を焦がしながら、どうすることもできない無力感が、医師としての自分を覆っていく。
西田の瞳が持つ暗い光、失われた希望、そしてその代償の重さがひしひしと伝わり、医師の心は抑えがたい悲嘆に包まれた。
「……隔離病棟に入れるしかないな」
その言葉は、鉛のごとき重みを持ち、静かにその場に響いた。
隔離病棟――それは、この場でできる最後の治療と、彼と周囲を守るための措置に他ならない。
しかし、かつて平穏や未来を夢見ていた西田にとって、その場所はもはや何もかもが終わりを告げる閉ざされた部屋だった。
かつての彼が追い求めたものは、遠く霞み、手を伸ばすことさえ叶わぬ幻のようだった。
医師はその場で目を伏せ、ふと冷ややかな感覚に襲われる。
「しかし、最近不審なインシデントが多過ぎる……」
主治医は小さく呟いた。
「彼は一体、どこであんな大量の薬物を……」
彼の言葉には、底知れぬ不安が混じっていた。
得体の知れない、不気味な感覚――それがじわりじわりと医師の心を蝕んでいく。
◆・◆・◆
薄暗い病院の廊下は、まるで影が行き交う冷たい河のように、静けさと共に何か得体の知れぬ感覚が漂っていた。
その中に佇む一室、その奥深くで、鬼瓦剛という名の老人が静かに横たわっている。
その表情にはかつての自尊や輝きはもうなく、むしろ、曇りガラスのように光を失った瞳がただ虚ろに閉ざされていた。
あの日、あの小さな青い錠剤を飲んだ瞬間、何かが変わったのだろうか。
生に抗い、死に寄り添い、どこかで糸が切れたような安らかさと虚無感が混在する。
――それは、死のようでありながら、未だ生の中で留まり続けている、歪んだ存在のようであった。
その姿が、まるでぼやけていくように、主治医の視界からもゆっくりと薄れていく。
「身寄りのない老人が……精神病院で、こんな薬を……」
その独白は、風に溶けるようにしてかき消されるが、心に引っかかる棘のように残る。
あり得ないはずの薬が、病院のどこからともなく現れる不条理。
現実が少しずつ崩れ、違和感が影のように迫ってくる。
冷たい扉を見つめながら、主治医はその思いが湧き上がるのを抑えることができなかった。
この病院には、いくつもの小さな「偶然」が積み重なり、不審な事件が次々と起こる。
見えない力に支配され、どこか歪んだ運命に囚われているかのように、病院全体が何か不気味な呪いに侵されているような感覚に襲われる。
まるでそこには、患者の命が少しずつ吸い取られていく底知れぬ闇が隠されているかのようだ。
「これで……不審なインシデントは何件目だ? 一体、この病院で何が……」
答えのない問いが、冷え切った空気に溶けて消えていく。
しかし、その問いの残響は消え去ることなく、冷たく、重く、幾重にも折り重なって漂い、主治医の胸の奥で絡まり合っていく。
何が、この病院で起こっているのだろうか。