9章 黄金の勇者 前編
──保隠市立 リベリオ精神病院──
私は桜木 縣。
かつて、桜木有栖と夫婦だった。
初めての息子を失った当時の私はとても荒れていて、家庭では暴力を振るってしまっていた。
それでも、離婚したとはいえ、彼女は私の心の中に、何かしらの形で居座り続けている。
その姿はかつての明るく穏やかな彼女ではなく、痛ましい記憶に彩られた幻影だ。
彼女は、今では私を主治医と勘違いしている。
その誤解を解こうと思ったことは何度もあるが、まるで異世界に完全に行ってしまっている彼女には現実の声は一切届かない。
今日も彼女の面会に訪れた。
いや、こうしてここにいるのは果たして彼女のためなのか、それとも自分のためなのか。
罪滅ぼしのつもりで通っているが、その行為がどれほど空虚で一方的なものなのか、自覚はしている。
それでも足を運んでしまう。
たとえ彼女の中にもう私の存在がなかったとしても。
「有栖は……今日も異世界の冒険をしているね」
声をかけた私の言葉は、まるで壁に向かって話しているかのように虚しく吸い込まれる。
有栖は私の声に耳を貸さず、彼女の語る物語に没頭している。
「せめて……僕たちの誰か一人でも魔王城に突入できたら……私も同意だ。3人でここを食い止めよう。しかし、誰が魔王城に行く?」
有栖の声が震えるように響く。
彼女の目には、この殺風景な面会室の景色ではなく、彼女自身が紡ぎ出した異世界の壮大な風景が広がっているのだろう。
私の視界には彼女しか映らないというのに、彼女の視界にはもう私の影さえもない。
それが不思議と、切なくも、どこか安堵を覚えさせるのだから厄介だ。
彼女の語りを邪魔するつもりはない。
彼女がその世界に救いを見出しているのなら、私はただここに座って、それを見守るしかできないのだから。
私はこの話を覚えている。
昔、私がとても好きだったRPG、ホーンオブリベリオン。
あまりゲームをやらない有栖にも、よく一緒にやらせたものだ。
そうして私は、誰にも届かない言葉を呟くように、そっとつぶやいた。
「魔王城に突入する勇者というのは……」
「赤の勇者じゃないかな。」
有栖の問いに、私がそう言うと、有栖は即座に答える。
「俺様は、赤の勇者――ブルーム=ジェンダー=サイドリバーだ! 魔王なら俺様がぶっ倒してやる……てめえをぶっ飛ばした後になッ! させるか……マジックデモリッション! 貴様は己が攻撃で自滅するのだ。俺は……負けない。絶対」
彼女は手元の本を振り回しながら叫ぶ。
その本――『嫌な事を打ち消す魔法の言葉』というタイトルの自己啓発書を、まるで巨大な斧のように振りかざしている。
著者は、横川 咲。
内容も私にはどうでもよかった。
ただ、その光景は、彼女のかつての優しさや温もりをどこか嘲笑うかのように滑稽で、そして切なかった。
「赤の勇者は死んだ。ゲームオーバー。魔王城に突入する勇者というのは……」
有栖が場面を巻き戻し、また問う。
「青の勇者じゃないかな。」
私の声に呼応するように、有栖の妄想は次の章へと移る。
「私は、青の勇者……ゴーヴェン=ドラッグ=ウェストフィールド! おまえたち、この先の魔王城に行くのか? 悪いことは言わない、引き返せ。フルフィジカルブースト・リミットブレイク……! 青の勇者。ほんの一瞬でも我を凌駕するその力、なかなかのものであった。も……もっと……もっとだ……足りない……」
今度は別の本――『他人に流されない為の考え方』『3つの潜在能力を100%引き出す方法』という2冊の自己啓発書を、盾のように構えながら彼女は言葉を紡ぐ。
著書は、西田 司。
そのたびに、彼女の目には見えない輝きが灯り、私は彼女の目の前で完全に透明な存在と化す。
「青の勇者は死んだ。ゲームオーバー。魔王城に突入する勇者というのは……」
「白の勇者じゃないかな」
私がそう言うと、有栖の妄想はまた先に進んだ。
「わしは、白の勇者、スティフン=フォゲット=デーモンタイル。消し炭になるがいい……ヘルインフェルノフルバースト……! 人間風情が、我にダメージを与えるとは。見事であった。これで……不審なインシデントは何件目だ? 一体、この病院で何が……」
『少子高齢化時代を切り拓くムーンショット計画』
著者は、鬼瓦 剛。
私が放った問いかけに、有栖の答えは次々と変わる。
赤の勇者、青の勇者、白の勇者――彼女の妄想の中では、それぞれ異なる著者の本が力の源であり、彼女の語る物語の要だ。
彼女にとって、それらの本は現実世界の名残であり、異世界への入り口なのだろう。
「白の勇者は死んだ。ゲームオーバー。魔王城に突入する勇者というのは……」
「黒の勇者じゃないかな。」
私がそう言ったとき、有栖の振る舞いが少し変わった。
「僕はホーンオブリベリオン最後の天使アリスの加護を得た黒の勇者カインド=ヴィジター=チェリーブロッサム。アリスがずっとここにいるというのなら、僕はここでアリスを守ります。こうして、面会の帰り、トラックに轢かれた桜木優は、異世界ホーンオブリベリオンに転生したのだった。そこを退いて。僕は行かなきゃならない。ソードエンチャント……『プラーミャ』『ザマロージ』」
その瞬間、彼女が手にしたのは2冊の母子手帳だった。
それは、亡き息子の『優』と、私が酷く傷つけた連れ子の『ユー』のものだった。
心臓が軋むような音を立てた。
私が、どれほど彼らにひどい仕打ちをしてきたか――それは一生かかっても拭えない罪だと理解している。
だからといって、この場で何かを語る資格などない。
ただ、目の前で母子手帳を『2本の剣』に見立て、妄想の中で戦い続ける彼女を見ていることしかできないのだ。
「黒の勇者は魔王軍に寝返った。ゲームオーバー。魔王城に突入する勇者というのは……」
ゲームのホーンオブリベリオンでは、赤、青、白、黒、4人の勇者が全員進行不能になったのなら……。
「……もういないんじゃないかな」
そう言った瞬間、彼女の動きが一瞬止まった。
「――勇者は誰一人、此処には来ぬよ」
有栖の物語は、空虚な部屋の中で響き続ける。
彼女の中の「魔王城」は、決して到達されることのない地平線の向こうに広がっている。
私はただ、その物語の脇役であることを自覚しながら、その場に立ち尽くしていた。
「あー、これ僕の本っすね」
突然、不意に響いた他人の声がその場を切り裂いた。
有栖が最後に手にした本。
それは『1パーセントの努力』……その著者は……。
「へー、この本の内容がそれぞれの異世界の勇者になっていて、その著者が転生元になる架空の現実の人物になってるんだ、おもしれー」
「勇者たちはきっと来るわ」
「この人、ひとりで全部の役やってる、すげー。めちゃくちゃ器用すね」
「あ、どうも。黄金の勇者っす。ちょっと天使を助けて、この世界を救いにきました」
「ここを訪れる勇者はもういないはず……」
その声は静かで、それまでの物語とは別の感情を帯びていた。
「それってあなたの感想ですよね?」
その声の持ち主が誰なのか、私は振り返らずにはいられなかった。
私は彼と面識はなく、彼のことなど何も知らない。
しかし、多くのメディアで彼の声は聞きなじみがあった