九話
翌日は朝からの雨だった。窓が水滴によって濡れ、それ越しに見る空には灰色の雲が一面に広がっていた。天気が不安定なのは実に四月、ひいては春の空らしい。
朝六時半すぎ、朝飯を作ってソファに座り、飯を食いながらニュースのチェック。いつもの日課をこなしていると、これまたいつものように廊下の方から物音がした。洗顔や歯磨き等をしたのだろう。しばらくして、
「……おはようございます」
「おはよう。ご飯できてるよ」
「ありがとうございます」
少し寝癖がついた髪を気にしながら、茜音はリビングにやってきた。時計は七時過ぎを指している。朝に弱い彼女にしては早い。
今日の朝食はご飯味噌汁卵焼きと至ってオーソドックスなものにした。茜音はキッチンの方へ行って、朝食を二回に分けて取ってきて、僕と同じようにソファに座った。
「いただきます」
合掌して呟いてから眼前の食材に手をつけ始めた。こういうところに茜音の育ちの良さが出ている。スマホを片手に飯を食う僕とは大違いである。
「……今日から授業ですね」
茜音が口に運びつつ切り出した。僕は口内のものを飲み込んで返答する。
「ね。早速数学があるのが僕としては気がかりだよ」
「昨日沢山教えたじゃないですか」
彼女はそう言って味噌汁を啜った。
「その節はありがとうなんだけど、でもやっぱ不安なんだよねー」
「柳沢くんにも不安なことなんてあるんですね」
「僕をなんだと思ってるのさ」
僕は思わず笑う。茜音は時々僕のことを全知全能の存在かなにかだと勘違いするきらいがある。
味噌汁を一口飲む。少ししょっぱいような気がした。次作る時には味噌の量をもうちょい減らそう。
「あー、そうだ」
そこで僕は言おうと思っていたことを思い出した。
「今日の登校についてなんだけど」
「?」
茜音は食べる手を止め、視線を机上から僕へと向ける。相変わらず目を合わせるのは恥ずかしいようで、視線は合っていない。
「一緒に登校するのを控えたいと思ってるんだけど、どう?」
「え……」
茜音は驚いたような顔で、それでいて悲しげな声を出した。意外だった。そんなに悲しまれるとは。
僕の発言の理由についてだが、もし毎日毎日登下校を共にしているのを誰かに見られると、大変なことになりかねないという懸念があるからである。もし勘繰られて僕らの同棲がバレたら僕の社会的人権が遥か彼方へとおさらばです。
そんなわけでその回数を減らそうと提案をしてみたわけだが、どうにも感触が良くない。
「なんで……ですか?」
茜音が震えるような声で問うてきた。僕は慌てて、納得してもらえるように理由を言う。
「毎日一緒に登下校してると、誰かに目撃されて同棲のことがバレかねないから……かな」
「ということは、偶にはいいんですね?」
「う、うん」
「であれば大丈夫です」
一転、喜びの色を帯びた声色で茜音は了承した。僕は気圧されたまま、食い終わった食器を片付け始めた。そんなに驚かれるとは思わなかった。
×
少し早いが、家を出ることにした。現在7時45分学校には8時20分につけばいいので、学校についてから暇を持て余すが、致し方ない。
「んじゃ、そういうことで先に出るから、鍵だけよろしくね」
「はーい」
玄関で言うと、洗面所から茜音の声が返ってきた。その余韻が廊下に反響する。
傘を持ってドアを開けると、少しばかり湿気を孕んだ空気が体にまとわりついた。雨の日は嫌いだ。どことなく気分が塞ぎ気味になってしまうから。
×
まだ通い慣れない教室の蛍光灯は既に灯っていた。ドアを開けると、灯りをつけたであろう一人の生徒がこちらに振り返った。
「おはよう」
「!……おはよう……ございます」
挨拶をすると、彼は伏目がちに返してくれた。確か名前は堂山聖といったはず。物静かで大人しい感じの人だ。
思い返してみればその性格からなのか、昨日誰かと話しているのを見た記憶がない。どういう人物か気になったので、僕は荷物を自席に置いて、話しかけることにした。始業まで暇だし。
「ちょっといいかな、堂山くんだよね?」
「えっ、あ、はい、そうです」
「柳沢です、初めまして。少しお話しがしたいなーって思ってさ」
「え、あ、え、僕と……ですか? 人違いじゃないですか?」
彼は自分を指差しながら訝しげに聞いてきた。僕は頷いて、彼の隣の席に座った。
「いやー人違いじゃないよ。友達増やしたくてさ」
「や、柳沢さんは十分居るじゃないですか……僕と違って」
なんだか茜音みたいなことを言い出した。よく考えればこの二人は少し似ているかもしれない。
堂山くんは髪の長い子だ。どこぞの神楽矢くんのそれとは違い、前髪が伸びており、後ろ髪はそこそこ。
「いやーいないよ。それに、やっぱクラスの人たちとは仲良くしたいじゃん」
「……ぼ、僕もそう思ってました。でも昨日……いざ誰かに話しかけようとすると緊張しちゃって」
「あーわかる。初対面の人に話しかけるの本当に緊張するよね」
「や、柳沢さんもするんですか?」
「するよ! 現に今心臓バクバクだし」
僕が胸の辺りを押さえて言うと、堂山くんは笑った。
「あ、あと僕のことはやーさんって呼んでいいよ。みんなそう呼んでるから」
「……なんだか不穏な響きですね、やーさん」
「僕もそう思う」
重ねて堂山くんは笑った。話してみると、彼がよく笑う人であることに気がついた。
その後話を展開していくと、彼がゲーム好きであることが発覚した。しかも僕や坂寺くんがやっているFPSゲームと同じものを遊んでいた。一緒に遊ぼうと約束をして、そのためにメイビーを交換した。
「ついでにクラスチャットにも追加しとくね」
「ク、クラスチャット……僕からすれば無縁の存在だったクラスチャット……」
「んな大げさな」
彼はスマホを神聖なもののように見つめて言った。僕は思わずツッコミを入れた。
そこでガラリと、僕が開けたきり閉じられたままでいた引き戸が開く音がした。
「お? やーさんじゃん。おっす〜」
「薪山さんじゃん。おはよう」
現れたのは薪山静玖さんをはじめとした女子三人だった。他二人は……田宮さんと和川さんだったかな。覚えきれていないからしょうがない。
「柳沢くん、おはよう」
「おはー」
「二人もおはようございますです」
後ろの二人とも挨拶を交わし、僕は堂山くんとの会話に戻ろうとした。
「ねえ、なんの話してたの?」
そこへ薪山さんがやってきて、僕らの会話について訊ねてきた。田宮さんと和川さんは二人で話しているらしかった。
「ゲームの話だよ。それのおかげでもう僕と堂山くんはマブダチになったから」
「マ、マブ!?」
そう言って堂山くんの肩に手を回すと、
「マブダチとかいつの時代だし! ウケる!」
薪山さんは笑い出した。ウケるも大概、五十歩百歩やろがい。
ここまでの会話を見てわかる通り、彼女はいわゆるコミュ力お化けな感じの方だ。髪も派手に金色に染めており、ワイシャツの第一ボタンを開け、腰に羽織らなければならない筈のカーディガンを巻いている。ただ神楽矢種とかいう個性の塊がいるおかげで相対的にまだ常識の範疇である。冷静に考えてあの人おかしいな。
「んで、なんのゲームの話?」
「Respawn To Hellっていうゲームの話。銃撃戦のゲームなんだけど、知ってる?」
「名前だけは聞いたことあるよー。面白いの?」
僕が面白いよと答えようとしたその時、
「お、面白いですよ!」
「!?」
堂山くんが声を上げた。
「まず広大な世界で主に対人戦が繰り広げられて銃で撃ち合って倒しあうんですけど他のFPSゲームと違うのは時々その世界にモンスターが生まれることがあってその時はみんな生き残るためにそれぞれ手と手を取り合ってボスと呼ばれるそのモンスターを討伐する、つまりFPSとRPGが融合したようなゲームで唯一無二の面白さがあるんです。更に……」
「ま、待って堂山くん! おい堂山! やめとけ!」
僕は必死になって高速詠唱を止めた。薪山さんのようないわゆるギャルっぽい女子は、往々にしてオタクを忌避する傾向にある。その片鱗を少しでも見せようものなら、虫ケラを見るような目で見られること請け合い。もしそうなったら堂山くんがドMとかでない限り大変なことになってしまう。
堂山くんは我に返り、目を見開いてようやくことの重大さに気づいたらしかった。二人して恐る恐る薪山さんの方を見ると、
「……堂山くんって、そういうタイプの人だったんだ」
薪山さんは低く、冷たい声音で呟いた。その声の指し示す答えは……。
窓に打ちつける雨音が激しくなった。教室の窓の雫がつーっと垂れて、やがて別の雫と合体した。質量が大きくなって、それに伴って垂れる速度が上がった。
そして、彼女は噤んでいた口を開いた。
「めっちゃいいじゃん! 心の底から好きなものがあるって!」
「え、あ、ありがとう……」
「色々教えてよ! そのゲームについて」
薪山さんに促され、堂山くんはペラペラと語り始めた。僕は彼女の聖人ぶりに感心した。オタクに優しいギャルとか初めて見たぞ。正確にはギャルではないけど。
「ふう、堂山くんがこんなに面白い人だったなんて思わなかったよ〜!」
「僕も……薪山さんのこと、少し誤解してました。僕みたいなタイプのこと、あんまり好きじゃないのかなって」
「え、なんで? まだ話もしてない人のことを嫌いになるわけないじゃん! ウケる!」
「つまり……話したあとなら嫌いになるかもってこと?」
冗談めかしく言うと彼女は、
「ちょ、やーさん鋭っ! でも、滅多に人のことは嫌いにならないよ。どんな人にもその人なりの魅力があるし〜」
軽い調子で言うが、なかなかできる心がけではない。
「おしずーもう話終わった?」
「あーうん! じゃね、二人とも」
「うん」
「おう」
二人のうち、おっとりした声をした方の和川さんが薪山さんを呼んで、彼女は僕らの元から離れていった。
「あ、二人とも次話すときは呼び捨てでいいよ!」
「う、うん」
「わかった」
去り際にその台詞を残して。