六話
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夢を見ていた。幼い頃、夕暮れの中で茜音と遊んでいるものだった。彼女が先に木に登って、僕はそれに続こうとして。
『やーちゃん! ここまでのぼっておいでよ!』
『む、むりだよー!』
小学校に上がったばかりの頃、茜音は僕よりも活発な子だった。好奇心旺盛で、誰とでも仲良くなるような明るい子だった。運動神経も男子に負けず劣らず。それこそ、僕より先にするすると大樹に登るくらいに。
『ふうー、やっとのぼれた!』
『やーちゃんはよわむしだから、わたしがずっとまもってあげるね!』
『よ、よわむしなんかじゃないもん。あかねがつよむしなだけだもん』
『つよむしって、やーちゃんおっかしー!』
第三者視点で、その様を見守る。実に微笑ましい光景だ。こんなことがあったのかなかったのかは定かではないが、幼い頃の妙にませた僕なら発言しそうである。
『わたし、やーちゃん大好き!いつか結婚しようね、やーちゃん!』
『うん!しよ!ぼくもあかねのこと大好き!』
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「うわああああああ!!!」
そこで僕は飛び起きた。完全に思い出した。今となっては言うのが憚られることを互いに口走ったことを完っ全に思い出した。そんなものはその時に交わされた沢山の口約束の中の一つなので、彼女は恐らく忘却している事だろうが……。
生々しい夢として今一度それを思い出すと、どうにも意識してしまう。僕は頭をふって時計を見た。6時12分。普段起きる時間より18分早い。
マットレスを折りたたんで掛け布団を畳んでその上に置き、いつものように朝食の準備をしようと、自室のドアを開けた。
×
本日は南雲高等学校の入学式がある日である。8時半までに学校に着いておく必要があるので、家を出るまでにさまざまな準備をしておかなければ。
歯を磨いて洗顔し、眠気を水と一緒に排水溝に流した。鏡の中にはやや茶色がかった黒髪をした少年がいる。至って平凡な見た目だ。
まだ茜音は眠っているようだったので、とりあえず自分用の朝食のみを作る事にした。
パンをトースターにいれ、タイマーを4分でセット。フライパンに油を軽く引いて熱し、ベーコンを二枚並べ、卵を上に載せて火を通したらそれを焼き上がったパンに載せて……あっという間に朝食の出来上がりである。
齧り付くとザク、という心地よい音と共に香ばしい匂いが鼻腔に立ちこめた。そうして食べながらスマホでニュースを流し見していると、そのスマホが震えた。通知を確認する。
【父:今日は入学式だな!父さんも母さんも見に行くから、よろしくな!】
……入学式は大事な式典なので来るのは分かるのだが、昨日とか一昨日とかに言っておいてくれると助かる。分かったとだけ返して、僕はニュースに画面を戻した。
朝食を摂り終え、茜音の分も作ったのち、僕は昨日までに出たゴミを集めることにした。家を出る時についでに出せるからである。今日は月曜日で燃えるゴミの日なので、該当するゴミを専用の袋に入れる。
それを集めたり、少し汚れているところを掃除したりして、終える頃には時計は7時丁度を指していた。僕はそこで一つ、気になることがあった。
「起こした方がいいかなあ……」
今も眠り続ける茜音を起こすべきか否か。8時半集合といえど、時間に余裕を持って行動した方がいいだろうから、少なくともその10分前には着いておきたい。そして準備にどれだけ時間がかかるかわからない。僕は男子なのではっきりとは分からないけど、きっと女の子だと朝の準備にかなり時間を要するはずだ。
ただ、起こすとなると茜音の部屋に入らなければならない。一応、
『ノックさえしてくれれば入っても大丈夫です』
とは言っていたが、それが睡眠時にも適用されるかは分からない。僕は頭を捻らせた。今朝見た夢のせいで邪念が脳内の随所に住み着いていた。
あれやこれやと考えたのち、結局起こす事にした。
×
ノックを三回して、取手に手をかけてドアを開けた。その瞬間僕にとって扇情的といえる香りが僕を襲った。その香りが部屋中に充満しているのだから、軽い拷問にも思えた。女の子ってデフォルトでいい香りがするようにできてんのか?
マットレスの上で茜音は眠っていた。ないはずの母性本能がくすぐられた。空間が静かなせいで寝息がうっすらと聞こえる。
茜音のそばに膝をつく。その寝顔が愛らしくてずっと見ていたかったけど、本来の目的を思い出して彼女の肩をトントンと叩く。
「朝だよ、茜音」
「……んー……あと5分」
「7時だよ、そろそろ起きた方がいいんじゃないかな」
「……んー、んぅ?」
茜音はそこで目を覚まして、僕とバッチリ目を合わせた。
「……っ!」
彼女は数秒ぼーっとしたのち、ようやく状況を理解したらしかった。その瞬間掛け布団で顔の下半分を隠して上目遣いでこちらを見た。
「や、柳沢くん……おはようございます……ね、寝顔……見ましたか?」
茜音は寝起き故なのか、普段より高く少し掠れた声で聞いてきた。
「ああ、うん……ごめん」
「うー……恥ずかしい」
「大丈夫だよ。可愛かったから」
そう言うと彼女は無言のまま、二、三回僕の膝を突いてきた。流石に冗談がすぎたか。でも可愛かったのは事実だしな。
茜音はシャワーを浴びてくると言い残して、着替えを持って部屋を後にした。僕は制服に着替え、茜音の準備が終わるまでゲームでもして待つ事にした。
×
7時45分、風呂場へとつながるドアが開く音がした。僕はゲームを中断し、電源を切ってリビングに向かった。
「おまたせしました」
「……っ!」
そこには制服を着た茜音がいた。端的に言ってすごく可愛い。黒系統の色のチェックのスカートを履いて、白いシャツに赤いネクタイ、その上から灰色のブレザーを羽織っている。本人は少し不安げな表情をしている。
「変なところとか……ないですかね」
「ないよ。むしろすごい似合ってる」
「あ、ありがとうございます……その……柳沢くんもかっこいいです」
「え、あー、ありがとう」
「……?」
僕は思わず顔を逸らした。似合ってる、ではなくかっこいいと言われた事に動揺してしまった。落ち着け僕。彼女は邪念なく誉めてくれただけだ。落ち着くんだ。ニヤつくな僕。
頭をリセットするように咳払いをして、僕は口を開く。
「じゃあ、行こっか」
「はい」
カバンを背負い、出す予定のゴミ袋を持って僕は玄関のドアを開けた。