のどかな昼過ぎ
あれは、まだ私が管薬――管理薬剤師になったばかりの頃のことだ。
昼飯から戻ると、窓口に卸さんがいた。
卸さんが事務の松山さんに何か話をしていた。
私は卸さん後ろをすり抜け、カウンターに入る。
「先生」
背後から卸さんの声がした。
誰かよんでるよー。
そんなことを思いながら、私はカウンターのレジ袋の残量をチェックしていた。
卸さんが「先生、先生」と誰かを呼んでいるようだった。
私は調剤室に入った。
奥の流しで手を洗っていると、事務の久我山さんがやって来た。
「果絵さん、呼んでますよ」
「誰が?」
私はペーパータオルで手を拭きながら尋ねた。
「卸さん」
「ん?」
手指を消毒しながら、久我山さん顔を見る。
「岸野先生って呼んでますよ」
岸野先生……。
どこかで聞いたような名前だ。
ひどく懐かしい響きがする。
久我山さんはため息をついた。
「岸野先生って果絵さんのことですよ」
私は目を見開いて久我山さんを見る。
「アタシのことか!!」
「とうとう自分の名前も忘れちゃったんですか」
久我山さんは憐れむような目で私をみる。
「先生」なんていうからわからないんだよ。
普通に「岸野さん」って呼んでくれたら、一発でわかるのにさ。
それに、「とうとう」ってなんだよ。
久我山さん、私は君の中で一体どういうカテゴリーに分類されているんだい?
思うところはいろいろあったが、私は、とりあえずは卸さんが先決だと判断した。
私は振り向いた。
卸さんは涙目だった。
「あ、すいませーん」
卸さんはパッと顔を輝かせた。
「先生っ。見積もりの件ですが……」
卸さんは営業用スマイルで用件をしゃべっている。
うっひゃぁ。すっごい営業顔だなぁ。
笑顔がホントに張り付いてるよ。
っうか、こめかみがピクピクしてるの隠せてないよ。
腹ん中煮えくりかえってるんだろうな。
小娘の分際で俺を無視しやがって、とか思ってるんだろうなぁ。
そんな小娘に腹の中読まれちゃってるってどうよ。
かなり恨まれただろうなぁ。
この人かなり神経質で八つ当たりされるって、卸の配送の八巻さんが嫌ってたもんなぁ。
もしかしたら、八巻さんが被害を受けるかもなぁ。
ごめんよ、八巻さん。これも業務だと思って諦めてくれたまえ。
私はそんなことを考えながら、卸さんの話しに適当に相槌を打つ。
いいんよ。
どうせ大した内容じゃないから、真面目に聞かなくてもノープロブレム。
いらん前置きが長かったりするから、聞いちゃいられねーのよ。
「で、見積もりはゴールデンウイーク明けっつうことですね」
「はい。本当にすみません」
すまなさそうな表情を作ってペコペコお辞儀する卸さん。
こちとら、2年に一度のお約束な儀式にウンザリなんですがねぇ。
「わかってるんで、大丈夫ですよ」
仕方ないので、私も営業用スマイルでにっこり。
「すみませんほんとに……」
卸さんはまたもやペコペコ。
「いえいえ。大丈夫ですよ」
ニコッ。
「毎回、ほんとに……」
ペコペコ。
無限ループかョ。
こいつ、めんどくさいなぁ。
私はペコペコする卸さんの目を盗んで視線を泳がせる。
久我山さんと目があった。
私はヘルプミーと目で合図する。
久我山さんは、どうしようかなという風に首をかしげる。
この女、こないだプリンをおごってやったのに、おぼえてやがれ。
私はジト目で久我山さんを睨んだ。
「果絵ちゃん。ハンコくーださい」
松山さんが私の背中にドンと体当たりしてきた。
松山さん、貴女は私の女神さまです。
「はいよー。そんじゃ、そういうことで」
私は大喜びで卸さんにバイバイすると、松山さんの書類に捺印しようとした。
「ねぇ。ユキちゃんかわいい?」
松山さんが耳元で囁く。
私はギクリと動きを止めた。
はじまりの悪寒。
「はい。かわいい。かわいいなー。もーサイコーにかわいいよ」
仕方ないので、私は棒読みで答えながら捺印をする。
「なら、チューして」
松山さんがタコみたいに口をとがらせて迫ってくる。
でた。
松山さん、仕事モードのときは頼りになる、いわゆる、出来る女。
が、暇なときは男女関係なくキスを迫ってくる、とても危険な女。
油断すると、忘年会の久我山さんのように唇を奪われる。
私は慌てて松山さんの肩を抑えた。
「ま、待った。久我山さんがチューして欲しそうに見てるよ」
上半身をのけ反らせながら、必死に抵抗する。
「ほんと? 」
キラーンと目を輝かせた松山さんが振り返る。
久我山さんはこちらを凝視したままだ。
どうやら、松山さんと久我山さんの目がバッチリあったようだった。
一瞬の沈黙。
「久我山すわぁぁん」
松山さんが久我山さんに飛びつき羽交い絞めにする。
「ぎやっ」
久我山さんが人外の声を発した。
「チュー」
松山さんの口が伸びる。
「やめ、やめてぇぇ」
久我山さんは必死にもがきながら抵抗する。
「うはは。久我山さんよかったねぇ」
私はニコニコしながら手を振ると、発注を開始した。
二人はもみ合っていたが、すぐに患者さんが来たので、久我山さんはなんとか逃げることができたようだった。
その後、しばらくして松山さんも久我山さんも寿退社した。
あのふたり、元気にしてるかなぁ~。