第6話 先輩ーっ!?
文都が、両手で俺の頬を包む。
「少し熱っぽいような……。頭痛かったりしますか?」
「ん……平気……。でも頭がふわふわして……」
「ふわふわ?」
「あ、あの……俺、何かムズムズする……」
顔に添えられた手に、自分の手を重ねる。
恥ずかしい事を告白したような気持ちになって、顔が益々熱くなった。
ううー……文都の血が吸いたい……!
俺、何で急にこんな……。
「もう……無理……っ」
薄れていく意識の中で、俺を心配する文都の顔に、困惑の色が浮かぶのが、はっきりと分かった。
「……」
「先輩……?」
「文都……俺、血が吸いたい」
「へ……?」
なぜか甘えた口調になってしまう。
体が熱くて、力が入らない。
「文都のじゃないと満足できない。俺にちょうだい。お願い……欲しい……」
「あ……それはもちろん。でも、今ですか? 外ですけど、誰かに見られたりとか……」
俺を見る文都の顔が、赤く染まる。
「待つのやだぁ。今がいい」
「ぐうっ……! かっ、かわいいっ……! で、でも……」
「文都、俺に血を捧げるって言ったのに……。お前の決意って……そんなもん?」
「ウッ……!」
文都の手を取って、口元に寄せる。
「ねえ、いい?」
「わ、分かりました……。俺は、いつでも先輩の……」
自分の頰を思い切り殴る。
「先輩ーっ!?」
俺は、吸血鬼の中でも再生能力が並外れて高い。大抵の傷は瞬時に治るし、傷跡も残らない。だから、殴っても問題ない。
「ハァッ……」
やばい……俺、何しようとしてた?
こんな所で文都の血を……。
血の気が引けるのを感じる。
「先輩!? どうしたんですか!? 急にご自分を殴ったりして……。痛かったですよね!?」
文都が、心配そうな顔で俺を気遣う。
「あ、もう大丈夫だから。ごめん、こんな所で血をねだったりして」
子供みたいに甘えた感じで……。
は……恥ずかしい……!
うう……あんな姿、文都に見せたくなかった。
「引いた?」
恐る恐る聞くと、真顔で返事が返ってくる。
「興奮しました」
え? 興奮?
「ハッ……! じゃなくて! 安心しました!」
え? 安心?
いや、それもおかしいだろ。
「先輩、本当に大丈夫ですか……?」
文都が心配そうに、俺の顔を覗き込む。
「あ……うん。大丈夫みたい……」
まだ、いい匂いがして落ち着かないけど。
本当に何なんだろう。これ……。
「今日も甲斐君と帰るの?」
放課後の委員会活動を終えて、向井と並んで歩く。
「うん。委員会の反省会があるから、先帰ってって言ったんだけど、待っててくれるって」
朝のようになるのは、文都に対してだけみたいだな。今日一日、学校で他の誰と近くにいても、何も変わった事はなかった。
「亜蘭、困ってる事とかない?」
「え? 何で?」
「甲斐君の事で、ちょっと心配だったから」
「……」
あいつの事で?
「何が心配なんだ?」
「実は……」
下駄箱から靴を出し、履き替えた所で、脳を溶かすような甘い匂いが、鼻先をかすめた。
向井の返事を遮るように、匂いの正体が、俺に声をかける。
「先輩!」
もう匂いでどこにいるか分かるな。
「委員会、お疲れ様でした」
「うん。待ってて退屈じゃなかった?」
「大丈夫です。朝、体調悪そうでしたし、心配なので一緒に帰りたくて」
うわ〜俺の事、心配して待っててくれたんだ。
気持ちが抑えきれなくて、文都を抱きしめる。背中に腕を回し、胸に顔を埋めると、甘い匂いが、より一層強く感じた。
「嬉しい」
「先輩……。何でそんなに可愛いんですか……? 今日は、いつもより甘々ふわふわで……」
文都が、やさしく俺の髪を撫でる。
ふわふわ……?
ああ、そういや、また頭がふわふわして……。
「イチャイチャするのは帰ってからにしろ。亜蘭も、甲斐君も、もう少し人目を気にして……」
向井の小言が、距離が遠ざかっていくみたいに、段々と聞こえなくなる。
あれ? 俺、また朝みたいに……。
「……」
「先輩?」
視線を上げた自分が、緊張感のない顔をしているのが分かる。
「やっぱり……欲しい」
「え?」
文都のネクタイに指をかけ、結び目を緩める。
「先輩!?」
ボタンを上から順に外していき、三つ目のボタンに手をかけた所で、文都が俺の手に自分の手を重ねた。
「あの、今じゃないとダメですか?」
「ダメ。今がいーい……」
「ウッ……! か、かわいいっ! で、でも……」
困惑の表情を浮かべる文都。
「嫌?」
文都の首に、指先を這わせる。
「っ……嫌では、ないですけど……」
文都の視線が、向井を気にした。
こんな所で、クラスメイトの前で、血を吸ったりしたらいけないのに。
そんな事どうでもよくなるくらい、文都の血が欲しくて……。
ああ……早く、あの甘い血の味を……。
自分の顔を平手打ちする。
激しい音と一瞬の痛みが、俺の目を覚ました。
普通の人間なら、頰が腫れ、唇から血が滲んで、しばらくの間、痛みを感じていたかもしれない。
「先輩ーっ!?」
「亜蘭!?」
クッソ〜……また意識が遠くなって……。
おかしいな。本当にどうなってるんだ?
文都と近付くと、こうなる気が……。
「先輩!? どうしてまたご自分を叩くんですか!?」
「文都……」
胸元がはだけた文都を見て、爆発したように顔が熱くなる。蒸気が噴き出した気がする。
「はわ!?」
お、俺、こんな所で、文都の服を……!
「あ、ああ……もう、俺何やって……! ごめん……! ぬ、脱がせたりして……っ」
お前ももっと抵抗しろ!
「あ、いえ、そんな事より……」
そんな事より?
俺と文都、向井の作った三角形の空間に、沈黙が流れる。その沈黙が、俺に冷静になる時間を与えた。
何か、違和感を感じている向井の顔と、文都の緊張したような顔。
「亜蘭……? 今、思い切り顔を叩いたのに、どうして、何もなかったみたいに……」
傷一つない俺の顔を、向井が不思議そうに見つめた。
「!」
俺、今、向井の前で……!
匂いに気を取られて、気が回らなかった。こんな一瞬で治るなんて、普通じゃないよな。
うわ……どうしよう。
正直に話す? 俺が吸血鬼だって。
でも、どんな反応されるか……。
俺を吸血鬼だと知る人間は、文都の他に二人しかいない。
人間と共存する吸血鬼が、その正体を明かす事は珍しい。面白がられるのも偏見されるのも面倒だから。
俺も、その例に漏れる事なく、今までそうしてきたけど……。
何か言い訳……。
「先輩! 痛かったですよね!? わ、わぁ〜! 赤くなってますよ!?」
文都が、わざとらしい芝居をする。
はだけたシャツのまま近付かれて、別の意味で、顔が赤くなってしまう。
「あう」
「え? そう言われて見れば、確かに……。でもさっきは……」
「大丈夫ですか?」
文都が、俺の顔に手を伸ばした。
俺の為に演技を……。
そのやさしさに甘えようと、手の温もりを期待する俺に、さっき頭をよぎった予感が警告する。
文都と近付くと……。
ちょっと待った。これじゃ、またさっきみたいに、意識が……。
「触るな!」
俺の顔に触れそうになった文都の手を、乱暴に振り払う。
「……」
「ハッ……」
俺、今、文都の手を……。
手を振り払われたままの姿勢で固まった文都が、聞き取れないくらい小さな声で呟いた。
「す……すみません……」
「違っ! ごめん! これには理由があって……」
「理由……」
「俺、文都の事が嫌な訳じゃなくて……」
どうしよう。
こんな嫌な予感、当たらないで欲しいけど……。
「あの……俺……」
文都に近付くと、血を欲して自分を抑えられない気がする。
「今は、文都の側にいられない」