第26話 吸血鬼は進化する
灰色のロッカーの向かいに、ドリンクや缶詰、調味料といった食材の在庫が並ぶスチールラックが置かれている。
バックヤード兼、休憩場所?
ここにいていいのかな?
文都、ここで待ってて下さいって言ったきり、どこか行っちゃったし……。
小さなテーブルの周りに、無造作に置かれたパイプ椅子に座って、文都を待つ。
気に食わない吸血鬼だったな。
あいつ、最初から俺に食わせる気で、犬用のメニュー注文しただろ。
薬の効果がない時に会ったら、絶対蹴り飛ばしてやる。
「先輩、お待たせしました!」
「文都!」
戻ってきた文都が、俺の前に膝をついて床にバケツを置いた。片手にはペットボトルの水を持っている。
「吐けますか?」
「は?」
吐く!?
「あ、文都? いきなり、何で……」
「ワンちゃん用のメニュー、食べても問題ないですけど、気分悪くないですか?」
気にしてくれてるんだ。
「誰か来るのを気にされてるなら、安心して下さい。鍵閉めたので、誰も入って来ません」
「お前、バイト入ったばっかなのに、そんな好き勝手やって……」
休憩したい奴いたらどうするんだよ。
「俺の恋人の体調が悪いと伝えてあるので、大丈夫です」
「……え?」
う、嘘……。じゃあ、この後、お店の人達と顔合わせたら……。
文都の恋人として、好奇の目に晒されるのを想像して、顔が熱くなる。
「もっとちゃんとした格好してくればよかった」
「え?」
視線を下げると、俺を心配する文都の視線とぶつかった。
「自分で吐けますか? それとも俺が指入れますか? 手洗ってきたので、嫌じゃなければ」
「え!?」
「先輩、こっちに……」
椅子から俺をバケツの前に誘導して、後ろに寄り添うと、文都は、俺の耳元でやさしく囁いた。
「リラックスして……」
「で、できるか! 耳に、息がかかって……ひゃっ!?」
背中に触れられて、変な声が出る。
「先輩、指入れますね」
「へ!?」
俺の口をこじ開けるようにして、指が口の中に差し込まれた。
文都の指が、舌の上を撫でる感覚に、背中がゾクゾクする。
「ン……ッ……ンンッ!」
「力抜いて……」
苦しい!
苦しいのに……何か……。
「……」
文都が心配してくれてるのに、俺は何を考えているんだ。
「先輩、はむはむされると、奥まで指が入れられないです」
はむはむって何だ。
「ンン! ンーン!」
首を振って嫌だとアピールすると、文都が俺から指を離した。
解放されて、一気に酸素が入ってくる。
「ゲホッ! ハァッ……ハァッ。あ、文都……俺、大丈夫だから……」
立ち上がって文都に向き合うと、生理的な涙が頬を伝った。
「文都の作ったもの、吐きたくない」
せっかく我慢して食べたのに。
「先輩……」
強く抱きしめられて、それに甘えるように背中に腕を回す。
懐かしささえ感じる匂いや温もりに、胸がじんわりと熱くなった。
世界で一番、幸せな時間を味わっているみたいだ。
「文都、怒らないの? 変装して見に来た事……」
「これ、変装だったんですか? すごい、先輩の可愛さが1ミリも隠せてない。むしろ、可愛さが増してる……?」
褒めてるのか? それ。
「自重しろって言われたのに……文都に会いたくて、我慢できなかった……」
文都の胸の辺りで、決まりが悪くモゴモゴと話す。
「……」
ん? 何で急に黙る?
やっぱり怒ってる?
文都が、俺の肩に顔を埋めた。
「先輩は、俺をどうしたいんですか……?」
「……」
それって、どういう意味?
「これ以上、先輩を好きにさせてどうするつもりですか!?」
「声がでかい!!」
誰かに聞かれたらどうするんだ!
ただでさえ押しかけて迷惑かけてるのに、俺のせいで、バイト先での文都の印象を下げたくない。
「先輩は我慢禁止です」
「へ?」
「俺が悪いんです。こんなにかわいい恋人を放っておいたから」
「……」
じゃあ、怒ってないって事?
また会いに来ても、いいのかな?
木漏れ日のような温かさに、不安が溶かされていく。
「ところで、あいつ誰ですか?」
あいつ?
あ、あの変な吸血鬼の事か。
日差しの中に投じられた氷のような口調に、一瞬別の人が話しているのかと思った。
「知らない。俺の事、向こうは知ってたけど。あいつ人間じゃなくて……」
「今度会ったら、ぶん殴ってもいいですか?」
「……」
その前に多分、俺がぶん殴るけど。
「そんな事より、気付かない?」
焦らすように、上向きの視線を向ける。
「俺、もう文都に触れられるよ?」
薬の効果、抜群だった!
音春! 俺の救世主!
「それだけじゃない、もう血も吸わなくて大丈夫だし、日差しも浴びられる! テラス席でランチしたり、一緒に海行ったり! 銀も大丈夫だから、ペアリングも……」
俺の心配は全て解決!
ハッピーエンド!
「どうしてですか?」
文都の冷静な声が、頭上に落ちてきた岩のように重くのしかかる。
まだハッピーエンドじゃなかった。
「接近禁止命令が解かれたんですか?」
「あ、それは……」
だから、接近禁止命令って何だ!
ああああ、でも文都の血が吸いたくなる事、言ってない以上、どう説明すれば……。
「あの……えっと……」
「俺に教えて……?」
文都が、俺の頬に自分の頬をすり寄せる。
うっ、めちゃめちゃカッコいい。
「救世主が……」
「ん?」
「救世主が俺に救済を……」
視線を逸らして呟く。
嘘は言ってないけど、恥ずかしくて顔が熱い。
「それで、俺に触れられるようになったんですか?」
「そ、そう!」
よかった! 信じてくれた?
「だから、こうやって前みたいに、ずっとくっ付いてても……」
「でも、先輩は吸血鬼ですよね? この前も、俺の血をあんなに可愛い顔で吸ってたじゃないですか」
「……」
どんな顔!? 俺、酔っ払ってたから、細かい事覚えてないんだけど、余計な事言ってないだろうな……?
「血を吸わなかったり、日差しを浴びたり、銀に触れたりしたら、ダメですよね?」
子供みたいに嗜められている気分。
「そ、それは……」
「それは?」
「し……」
「し?」
「進化したから」
進化。
咄嗟に口から出た嘘に、我ながら呆れる。
「吸血鬼は進化するんだ」
ああ〜俺のバカ〜!
こんなの信じる訳ないだろ!?
ポケモンか俺は!?
「進化……?」
文都が、何かを悟ってハッとした顔をする。
「吸血鬼から、天使に進化したんですね!?」




