第2話 まだ誰にも汚されていない新雪を踏む気持ちで
14日の朝、制服に着替えて家を出る。
春に近づいている事を感じさせる、寒さの和らいだ青空の下で、爽やかな声が俺を呼んだ。
「先輩!」
「文都?」
大型犬が尻尾を振って駆け寄ってくるみたいに、文都が近寄って俺の手を握る。
「おはようございます」
「俺の家まで迎えにきたの? 何かあった? いつもバスの中で会うのに」
俺より背の高い、文都の顔を伺う為に視線を上げると、ぶつかった視線が逸らされた。
「少しでも長く先輩と一緒にいたくて……。迷惑でしたか?」
「……」
な、なんだ? この気持ち。
「俺、先輩の恋人になった途端、図々しいですか?」
「いや。俺も文都と沢山一緒にいたいから、嬉しい」
文都の不安そうな顔が、パアアッと周囲が明るくなるような笑顔に変わる。
「よかった。先輩……」
「ん?」
文都が、俺に顔を近づける。
俺の頬で、チュッという音が鳴った。
「今日もかわいいです」
「……」
急激に、体温が上昇していくのが分かる。
お前、そういう事しちゃうタイプだっけ?
「放課後、教室まで迎えに行きますね」
「あ……うん」
「制服でデートするの、初めてですね」
そういえばそうかも。放課後に家行った事はあるけど、どこかに行くのは初めてだな。
文都の腕に自分の腕を回し、体を寄せて歩く。
視線を上げると、文都が緩んだ口元を手で隠した。
「すみません。嬉しくてニヤけちゃって……」
「……」
人間って、そんな事でそんな顔しちゃうの? 文都とは一年近く一緒にいるのに、こんな顔、初めてみるかも。まだ、俺が知らない顔があるんだ……。
「ところでお前、荷物多くない? その紙袋、何が入ってるの?」
「あ、これですか? バレンタインのお返しです。今日は、ホワイトデーなので」
俺の脳内で、文都の言った言葉がエコーがかかったように響く。
バレンタインのお返し。今日は、ホワイトデー。
横目で、文都の持つ紙袋を確認する。
中身が見えない……。お返しって言ったよな? あの大きさの紙袋じゃないと収まらない量を?
「お前、そんなに貰ったの? バレンタイン……」
「え? あ、たまたまです。怪我して3日後くらいだったので、お見舞いを兼ねてくれた感じです」
「……」
逆だろ。お見舞いに便乗して渡したんだろ。こいつ気付いてないけど。
「先輩は……もちろん、たくさん頂きましたよね?」
文都が、不安そうな顔を向ける。
「貰ったっていうか、みんなで持ち寄って食べたけど。俺はブラウニー作った」
「な……」
突然、文都が衝撃を受けた顔をして、その場にしゃがみ込んだ。
「何で……俺を誘ってくれなかったんですか……!?」
お前、そんなにチョコ好きなの?
「それ、中身何?」
文都の持つ紙袋を顎で指す。
好意があると誤解されるような物じゃないだろうな。
「入浴剤です」
文都が紙袋を開いて見せる。
クラス全員に配れそうな数の、マカロンの形をした入浴剤。パステルカラーのお菓子そっくりなビジュアルを見せる、透明な袋とリボンのラッピング。
「……」
気に入らないな。
こんなの貰って、誰かが益々お前の事好きになったらどうするんだ。
「お菓子とかにすればいいのに」
「俺、お菓子は、先輩以外にあげない事にしてるので」
「……」
え……? そういえば、そんな事言ってたけど……。
うう……俺だけにとか、吸血鬼の嬉しいポイントを的確に突いてくる……。
こうやって機嫌取られちゃうんだよな……。
「先輩も一ついかがですか?」
「え? いいの?」
俺、バレンタイン何もあげてないけど。
飴を配る感覚で渡すな。
「俺、お風呂好きだから嬉しい」
「そうなんですね。だから先輩、前にお泊まりした時、俺と一緒にお風呂入りたいって……」
「そうそう。お風呂入ってる間、文都の事、待たせたくないし、一緒にいる時間削りたくないから……」
「……」
俺から顔を逸らした、文都の耳が赤い。
「変? 男がお風呂好きとか……」
「全然変じゃないです!」
「じゃあ、何でそんな反応?」
「いや、先輩が俺をお風呂に誘った理由が、余りにもピュアで……」
「は?」
お風呂入るのに、特別な理由とかある? 頭と体洗って、湯船浸かるだけだろ。
「俺もお風呂好きです! 家で名湯巡りみたいな入浴剤使ってます!」
「へえ。そうなんだ」
名湯巡り? そういうのあるんだ。知らなかった。
「俺は、SHIGETAのグリーンブルームバスソルトとか、アロマセラピーアソシエイツのローズバスアンドシャワーオイルとか好き」
「え? 塩と油入れれば、先輩みたいにいいニオイを漂わせられるようになるんですか?」
こいつ、まさか食塩とサラダ油の事言ってないよな?
それにしても、さっきの気持ちは何だ? 正式に付き合う事になった日に、文都からキスされた時に感じたのと似てる。
「先輩、大丈夫ですか?」
「え?」
学校へ向かうバスの中で、文都が心配そうに、俺に声を掛けた。
「話しかけても返事がなかったので……」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「……」
教科書(恋愛漫画)の読み過ぎで、疲れてるのかな。今日、授業何があったっけ……。数学、化学、体育……。
「あ……ジャージ忘れた」
「え?」
「文都、今日体育ある? 何時間目?」
「2時間目ですけど、先輩は……」
「3時間目。じゃあいいや、他の人に借りるから」
「……」
隣に座る文都の肩に、もたれ掛かる。
やっぱり体が触れ合ってると安心する。こうしていれば、誰にも取られない気がして……。
大事な事忘れてた! ご近所さんの事、問い詰めないと……!
「文都……」
「先輩、かわいい……」
そう呟いた文都が、俺の手を指を絡めて握った。繋いだ手が引き寄せられ、指に文都の唇が触れる。
「へ」
文都!? お前、そういう事しちゃうタイプだっけ!?
「あ、すみません。先輩が可愛すぎて、つい」
「……」
顔が熱い……。
「ちゃんと抑えないといけないのに、先輩と恋人同士になれた事で、気が緩んでしまって」
それは、今までもこういう事したかったって事!?
「度が過ぎたら、俺の顔をぶん殴ってください」
できるか! そんな事!
「別に……。俺は嫌じゃないから……」
「……」
突然、通信障害を起こしたようにフリーズする文都。
こいつ、時々こうなるよな。何か疾患を抱えてる訳じゃない? 心配。
「先輩……」
「ん?」
あ、良かった。正常に機能し始めた。
「そんな事言われたら、俺、調子に乗りますけど」
「……」
文都が、圧を感じる声と表情で迫る。
あ、この顔は、見た事ある。
「嫌じゃないけど、急にグイグイ来られたら緊張する」
「分かってます! 先輩は天使ですから! 俺はいつも先輩にキスする時、まだ誰にも汚されていない新雪を踏む気持ちで……。 大丈夫です! 先輩の心の準備が出来るまで、先輩が困るような事はしません!」
「天使……?」
おい、お前の恋人は吸血鬼だろ。お前、俺に散々、血吸われてるくせに、今更何言ってるんだ?