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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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不可逆の香り

作者: 枯野 常


 嗅覚というものは、我々が思う以上に記憶と密接に繋がっているらしい。

 すれ違う人から香るコロン、洗剤の匂いに覚えるデジャヴ。そこから想起される何か。

 誰にでも、そういった経験が在るのではないだろうか。

 生物学的にも、「匂い」という概念の重要性は証明されている。

 思春期を迎えたヒト科のメス――――つまり、少女と呼ばれるような年代の、繁殖が可能な程度に成熟した生物は、本能的に自己の遺伝子に近い構造のそれを嗅覚で知覚し、拒絶するという。

 所謂、「お父さんの服を私のものと一緒に洗わないで!」というやつだ。

 そして反面、遺伝子の遠い異性を「良い匂いがする」と判別するという。

 つまり何が言いたいかって、ヒトには固有の匂いがあるということだ。


 僕のそれは、一体どんなものだったのだろう。

 今となってはもう、忘れてしまった。


***


 メジャーデビューをして三年が経つ、なんとか生き残っているロックバンドの曲で目を覚ます。

 街中で耳にした、がなるように世界へ悪意を向けるヴォーカルと、何もかも壊れてしまえとばかりに打ち鳴らされるベースの音が、あまりにも耳触りが良くて。気付けばアプリでその一曲だけを購入していた。目覚ましにはちょうどいい。

 アラームを止めてスマートフォンの画面ロックを外し、適当に未読を溜め続けたSNSの大切そうな連絡だけをチェックしてから体を起こす。ざあざあと雨が降っているような水音は、格安木造アパートの裏を流れる川のものだ。無音よりも良いと思って、此処を選んだ。

 洗濯物を適当に干したハンガーから、タオルと、下着と、適当なTシャツだけを手に取って脱衣所兼廊下に向かう。足の裏を伝わる冷え冷えとした床の温度にそっと体を震わせて、明日からは湯船に浸かろうと決意した。


***


 寝台に横たわっているのは、どこか時代錯誤な印象を覚えるレトロなデザインの白いワンピースを身に着けた可愛らしい女性であった。

 隣に立つ、鋭利な刃物みたいなボブヘアをキャップにきっちりとしまい込んだ女性とともに彼女に手を合わせる。

 ご遺体の宗教も何もわからないのに、手を合わせることに何の意味があるのだろうか、と。三年前、初めてこのアルバイトに参加し屁理屈を捏ねた僕に、彼女は静かに言った。「これは信仰による祈りではなく、彼女の生への敬意なのよ」と。




 湯灌、という行為がある。

 死者を弔う際に、入浴をさせて体を清めることであり、その後死化粧を施すのだ。

 僕と彼女がしているのは、そのアルバイトであった。――――ただし、依頼主の正体もご遺体の出自も死の経緯も何もわからない、非合法の、であるけれど。

 その詳細を知ろうとすることは禁忌であると、まだ四足で歩いていたころから持っていたであろう勘のようなものが訴えていた。一度好奇心をちらつかせたバイト仲間と、次の仕事でも顔を合わせるということは決してなかった。

 だから僕と彼女は、粛々と呼び出された時にだけこの場所を訪れ、そこに臥する個人を清める行為に没頭するのだ。




「よかった。今回はとても奇麗ね」

 無機質に彼女が言った。僕は仕草だけで肯定する。

 前回のご遺体は、殆どの指の爪に土が入り込んでいて綺麗に拭うのが大変だった。

 僕たちが依頼されているご遺体の清拭は、本来葬儀で行われる儀礼的なものよりは簡略化された事務的なものだ。

 依頼主から指定されたとおりに、着せられていたワンピースの上から厚いバスタオルをかけて、設置されたシャワーから緩やかにお湯をかけていく。濡れた髪を、彼女が丁寧に梳っていった。

 体を拭いて、髪を乾かして、依頼通りの髪形に結い上げる。僕が女性の髪をそうして彩っている間、彼女は死化粧を施していった。青白く、いのちの気配が喪われていた顔に偽りの色が宿っていく。どうしたって僕の作業のほうが早く終わることが多いので彼女の作業を手伝うことが多いのだが、そうして変化していく亡骸の様子を見ることは嫌いではなかった。

 そうして全てが終わると、用意されていた衣装にご遺体を着替えさせる行程に入る。これだけは依頼主から男性の僕は触れないよう言われているので、重労働だが彼女だけで行うことになっていた。その間、僕は後片付けを先に進めておく。

「ねえ、君はどうしてこの仕事を続けてるの?」

 背中合わせの彼女が問いかけてきた。化粧箱に使った道具を戻しながら、「日給が滅茶苦茶にいいからですかね」と答える。含むような笑みの音とともに、「だよね」という返事が聞こえた。

「この仕事って、ご遺体の匂いがつくんだって」

「ああ、知ってます、それ。どれだけ洗っても取れないって」

「そうそう」

 もうこっち向いてもいいよ。そう続けられて、僕は彼女の方を振り向いた。思った通りどこかニヒルに口角をあげて、彼女は少しだけ鈍くなった蛍光灯の明かりを見上げる。

「……私たちの、本当の匂いってどんなだったのかなぁ」

「さぁ、どうでしょう」

 不可逆の香り。僕も彼女も、もう元には戻れない。それはもう、手の届かない彼方へ消えてしまった。

「とりあえず、このあと焼肉食べに行きませんか? お腹空いちゃって」

「え、臭くなるからヤダ」

 じゃあしゃぶしゃぶで。妥協案を口にすると、彼女はまあそれなら、と親指を立てて頷いた。

 


※このお話は都市伝説の「死体洗い」のアルバイトを参考にしており、実際の湯灌師の方や納棺師の方に対して歪んだ印象を与えるものではありません。


読んでくださりありがとうございます。

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