微睡みの中で
一面の闇。見慣れた夜空とも違う、一切の透明感すら感じられない漆黒の中。水中を揺蕩うような感覚と共に、二つの足音がミアの頭の中に響き始める。
——ここは?
ついで、闇の中に木造りの扉がおぼろげに浮かび上がる。目の前に現れたなんの変哲もない一枚板。そのドアノブに手をかけ、開くのと同時。一切の光を持たない視界が、光と共に懐かしい光景を取り戻していく……。
*
「……ただいま!」
小さな少女は、笑顔で玄関扉を開け放つ。
扉の先で少女の視界に広がっていたのは、木造りの民家。その室内だった。最初に目に入るのは質素なテーブルと椅子。そして、何度も読み込まれてボロボロになっている大量の本が押し込まれた本棚。奥のキッチンから運ばれてくる湯気と懐かしい匂い。
そして、いつもより低い目線に小さい自分の両手。それが抱える、白い布がかけられたバスケット。
幼き日のミアの、買い物帰りの記憶だった。
「金貨一枚の資本金で百個のリンゴを発注したとして、残りはいくらになると予測できるか……わかるかい、ミア」
水が入った桶を傾けて手を清めると、父親から問題が出される。幼き日のミアは手拭いで靴を拭いてからテーブルの側の椅子につき、腕を組んでそれに対して考え始める。
貧乏ながらも商人である父親を持ったミア。買い物という名目の市場調査は、そんな彼女の毎日の習慣になっていた。
「う〜んとね……、銀貨九十五枚!」
「それはなぜ?」
「帰りの屋台でリンゴが、銭貨五枚で売ってた!」
この世界の貨幣制度は実に単純な構造をしている。銭貨十枚で銅貨一枚。銅貨十枚で銀貨一枚。銀貨百枚で金貨一枚。というように貨幣の含む金属が変わり、それと同時に貨幣の名前と種類が変わる。
そして、払う際に金貨でも足りないほどの取引には白金貨が利用される。比率は金貨千枚。これがあれば、比喩でなく一人の人間が一生遊んで暮らせるだろう。
ただ、そんな代物を貧乏商人が目にすることはこれまた比喩でなく、一生ないのだが。
「よく見ていたね。しかし、私たちが商品を発注しにいく先は屋台じゃなく、ほとんどは製造元に直接出向いて交渉する。まだこの商店は商品が売り込まれてくるほど大きくないからね」
「じゃあ、いくらになるの?」
「それを自分で考えるのが商売なんだよ。ここで答えを知っても、私がしているのは架空の商売の話。ミアのためにはならないよ? それを踏まえた上で、もう一度考えてみようか」
ミアは下ろした金髪を上下に揺らしてうんうん唸りながらも思考する。父親はその様に微笑みながら、運ばれてきたカップを口にしながらミアの言葉を待つ。
先ほどまでカップが置かれていた盆を片付けるべくキッチンに向かった母親はミアに普通の人生を歩んで欲しがっているようだが、父親はこのやりとりを楽しんでいる節があった。
そんな幸せな沈黙を破るようにミアがハッと顔を上げ、叫ぶように言う。
「……銀貨八十枚!」
それを聞いた父親は「ふむ」と呟いて顎髭を撫ぜる。
露天で売られているものは仕入れ値よりも割高である。それを問い直せば残りは増えると考えるのが普通だろう。
しかし、輸送費や交渉費。そしてこれからも関係を続けてもらうための手付金(おそらくこれがいちばんの額になる)など、発生しうる様々な諸経費を鑑みるに、かなり妥当な数字と言えるだろう。
ただ、商人を目指すにはまだ青い。
父親はそう思い、戯けるように肩を竦めていう。
「それを銀貨九十五枚、つまり、さっきミアが計算してくれた値段だけに抑えるのが商人だよ?」
その発言にミアは思わず目を細め、そのまま抗議の視線をむけて言う。
「……いじわる」
父親は拗ねてむくれたミアの頭に手を置き、苦笑まじりに諭す。意地悪げなことを言ってしまうのは、ミアがいちいち可愛らしい反応をするからに他ならない。可愛がるためにはそのまま可愛がってはいけないという、複雑な親心だった
「浮いたお金でもっと大きな儲けを出そうとするのが商人。想定される利益で計算して、浮いた分を懐にしまうのが政治家だ。もちろん、そんなことそしたら信用はガタ落ち。出資者の反感を買い、二度と商売ができないか……」
「?」
勿体ぶって間を置いた父親に、ミアは小首をかしげる。それにつられて、下ろした金髪が揺れる。
「殺し屋に、狙われる」
それは貨幣の如く穴のある貨幣制度が問題なく回っている理由でもあった。目立ちすぎると、殺される。
それに気付いてか、はたまた別の理由か。ミアの金髪が再び揺れた。