裏の世界の決まり事5
ようやく、依頼が始まる。そして、奇妙な日々が幕を開ける。
酒場で依頼を請け負い、メアとの奇妙な会談を済ませた翌日。厳密には朝と昼を跨いだ同日の月が登り始めた頃。まだ眠っているミアの頭に、わずかに高い相棒の声が響く。
『……月が出たよ。起きる時間だ。そして、誰かが永遠の眠りにつく時間だ。といっても、大抵の人は眠り始めるんだけどね』
「……あとすこし」
そう言いながらもベッドから勢いよく起き上がりつつ肢体にかかっている布切れを放り、速やかに支度を始めたのは職業病だからだろうか。
暗闇の中であっても慣れた手つきで左右の髪を結び、窓際にかかっているカーテン代わりの洗濯物の中から上下共に比較的匂いの薄いものを選んで身に纏う。
そして、それにより開いた空間から差し込む月明かりを数瞬だけ浴びてから踵を返す。その後、ベッド下に潜り込むようにして手を伸ばし、引きずり出した木箱から仕事用具を選別する。
闇夜に溶け込む黒塗りのナイフ。月明かりを反射する透明なロープ。同様に透明な縄梯子。これまた同様に透明な鉤縄。それらを入り口に掛けておいた外套の内側に仕舞い込んで羽織り、その他の雑多な小道具をまとめて小袋の中に詰め込む。
「……」
そして、ただベルトを緩めて足をはめるだけとは考えられないほどの時間をかけ、ゴソゴソと下足を身に着ける。
『わわっ! いつも言ってるけどさあ……』
そのまま傍に置かれた小袋を乱雑に雑嚢へと突っ込んだ。そして、情けない声が上がるのにも構わず、勢い任せに、外套の上から住人である相棒ごとまとめて雑嚢を腰に巻き付ける。勢いもそのままに、部屋の扉を開け放つ。
月明かりの下において月夜の怪物が音を立てたのは、それが最後だった。
宿屋の廊下から階下への階段、そしてそのエントランスまでを風のように音も立てずに駆け抜け、そのままの速度を保ちつつ、怪物は夜の街へと駆け出した。
宿屋の目の前で淡く光る街灯を蹴りつけ、その揺れを置き去りにするように跳躍したミアはそのまま酒場の真上に着地し、体勢を崩すことなく屋根伝いに走り出す。
視界の端で夜風に靡く金髪と夜を彩る満月。それらを中心に煌く星々とは対照的に、宿屋は一瞬のうちに小さくなり、やがては見えなくなる。
『ふうん。この家って人が住んでたんだね』
昨晩から雑嚢の中に放置されたままの地図。ミアが占い師から買い取ったそれを見ながら、相棒は呟く。
いくつもの建物が視界の中で大きくなり、やがては遠ざかるのを繰り返す中で友人が落ち着いた口調を保っているのはミアの走行が親切だからでも、ましてや、彼が雑嚢の中の住人だからでもない。それらも大きな要因ではあるが。
「いくら離れとはいっても、土地があってそこに建物が立ってたら当然、持ち主がいるものよ。まあ、あたしもあそこに用があったことはないけどね」
ミアが向かっているのは町外れに佇む旧領主の邸宅だった。数十年前に旧領主が殺されて領主が変わってからも領民の反対があり、取り壊しにまでは至らなかった、いわば跡地である。そして、旧領主が殺された事件こそが、この辺り一帯をゴーストタウンに変えた元凶であるのだが、それは今関係ない話だろう。
そんな数々の因縁や背景を孕んだ屋敷に住んでいる男が、今日の哀れな標的というわけだ。
『それにしても、なんであんなところに住んでるんだろうね。物乞いでも住み着いたのかな?』
「少し考えればわかることよ」
目で追うことすら難しいほどの速さで走行していてもなお、ミアの呼吸は一切乱れた様子がない。生まれ持った素質を日々の鍛錬で磨き続けた結果、彼女は常人の枠から大きく逸脱した身体能力を身に付けていた。
普通に生きることを望む彼女にそれが必要かは一考の余地があるが、多くの依頼主から必要とされてきた、ミアの殺し屋としての技能のひとつである。
『……どういうこと?』
「殺しの依頼が出てるってことは、誰かにとって不利益があったってこと。そして、誰にも使われていないはずの土地。建物。それを使ってる存在。そんなの一人しかいないじゃない」
『……よくわからないけど、君がわかってるなら大丈夫だよね?』
石屋根の橋が途切れ、ミアは大きく屋根瓦を蹴って跳躍する。そして片足で地に降り立ち、その勢いを落とさずにすり減った石畳の上を走り続ける。
「さあ。それよりも……着くわよ」
相棒の質問をはぐらかしつつ呟くその声は、どこか勇ましさすら感じさせる。
着くとはいったものの、あたりには果てしなく続く一本道が見えるのみで、建物らしきものは見当たらない。
しかし、石畳の地面の先に尖ったものが見え始めたかと思うと、それはだんだんと視界の中で大きくなり、建物としての様相を現し、ついには目の前一面に広がりはじめる。
『立派だね。確かに放っておくにはもったいないや』
四方を高い柵で囲まれた広大な敷地。その中央ではすでに枯れ果てた噴水が、水の代わりに寂しげで不気味な雰囲気を放っている。
「開いてるか見てきなさい、ユーリ」
ふと、そんな光景を眺めていたミアが懐を軽く叩いた。
『はいはい……。まったく、金遣いが荒いんだから』
ついで、その中からコインである彼に対する人遣い、つまりはコイン遣いが荒い事と酒代に糸目をつけない事とが掛けられた皮肉が投げかけられる。一方のミアは、その返答にうんざりしたとばかりにため息をつく。
「ちゃんと倹約してるわよ。そんなことより、早く。ここまで誰にも見られてないと思うけど、他組合の犬に監視されてる可能性がある中で感覚はあてにならないわ。……番犬はいないみたいだけど」
ミアは相棒の皮肉に取り合うつもりはないと言外に滲ませ、脱線した話題を修正する。
そして周囲を確認しつつ相棒を急かすように指示を出す。出しつつ、目の前で彼女を見下ろすようにそびえる金属製の正門を品定めするように見上げ、自ずと頭に響く友人の声に意識を向ける。
その間も、あたりに一切の音が生まれることはなかった。
『もう玄関だって……うん。ダメみたい。閉まってるよ。チェーンも、鍵も、扉も。ただ、罠の類はどこにもなさそうだ。流石に何十年も生きる犬は聞いたことないしね』
相棒の声は懐から響いているにもかかわらず、決して近くにあるわけではない建物の周囲の様子を報告する。
ミアの頭にだけ響く声の持ち主であるところのユーリだが、今はコインであっても、元来コインだったわけではない。もともとはミアと同様に人間である。が、それは思い出してしまえばミア自身の根幹に関わる類の記憶なのだが。
「……そう。それなら、窓から侵入するしかないわね」
まるで窓よりも先に越えるべきであろう目の前の柵が障害足り得ないといった物言いだが、次の瞬間には鉤縄を頭上に放り投げ、門の上端に引っかかったそれを一息に引くのと同時に軽く地面を蹴り上げる。
そしてそのままの勢いで上昇し、難なく庭園に侵入してしまった。
ついで、所々に佇む植木に身を隠しつつ事前に確認した……厳密には、ユーリが報告した場所へと一直線に駆け抜ける。淀みのない侵入はまさに、二人にしかできない芸当である。
『ここの真上がターゲットの寝室だよ。ベランダから入れそうだ』
「言われなくても……っ!」
ユーリの報告に続く言葉は途切れ、代わりにベランダに拵えられた柵まで一直線に縄梯子がつながる。そして二度三度引いて具合を確かめ、四度目に思い切り引っ張ってそのまま鉄の柵に囲まれた石造りのベランダに乗り移る。
「鍵は掛かってるのよね?」
『うん。外すのは君の役目だ』
確認はそれだけで十分とばかりにミアは懐をまさぐり、その中から針金と糸とを取り出す。そして針金の先端を鍵穴に通し、一度抜いて形を変え、再び通す。
「……だめね」
しかし手応えがないらしく、ミアはすぐさま針金を抜きとった。そして針金の端に開けられた穴へ片手ほどの長さに糸を伸ばして先端を通し、糸と一体化したその先端を再び鍵穴に通す。
左手に針金を、右手に糸を固定しつつゆっくりと、そしてだんだんとその速さを上げて回し始める。
『だいじょうぶ? 難儀してるみたいだけど』
「見たことない鍵の形状だけど、貫けば問題ないはず」
そう言っている間にも何かが擦れるような金切り音と共に針金は深くまで入り込み始め、最後にはガチャリと音を立てた鍵が壊れて内側に落下し、それにより支えを失った窓がわずかに、そしてだらしなく開いた。
「んっ」
それを、状況に反して可愛らしく上がった掛け声と共に力任せにこじ開け……。
「……さあ、殺しを始めましょうか」
というお決まりのセリフと共に二人一組の怪物は窓枠に足をかけ、ターゲットの眠る寝室に侵入したのだった……。
お読みいただきありがとうございます。
現在毎日投稿再開してますが、突如更新が途絶えるかもしれません。
受験期に創作ハマらなければよかったなあと思う今日この頃。