裏の世界の決まり事3
「……」
陽が登り始めた早朝の、所々が朽ちかけた石畳の街を、ミアは勝手知ったるといった様子で歩いていた。
見渡す限りが灰色の世界。政府が管理を諦めた、巷ではゴーストタウンとも呼ばれる裏社会。あたりの建物は平素と変わらず殺風景で寂しげな雰囲気を放っており、たとえ立ち入りを制限されていなくとも、普通の人間なら積極的に立ち入ろうとするものはないだろう。
「……水面の月、ね」
しかし、皮肉にもミアの憂いを帯びた表情が、洗練された一挙手一投足が。寂しげな風景との対比によってこれ以上なく幻想的に映し出されていたのだった。
水面の月は、水面にしか現れない。結局のところ裏の世界が、殺しという生業がなければミアが生きていくこともできないのだ。
「ここね」
ふと、そんな灰に染まった世界の片隅でミアは足を止める。
目の前にあるのは、他の建物よりは幾分か立派に見えなくもない、これまた石造りの建造物だった。入り口の扉に怪しげな器の紋様の入った看板が提げられているところを見るに、骨董店だろうか。
「全く、いつもいつもわかりづらいのよ。本当にここで合ってるのかしら」
ミアはそんな建物の看板を睨みつけて忌々しげに呟く。独り言が多くなっているのは軽口を叩きすぎて本当に口が軽くなってしまっているからか、はたまた、今はついてきていない相棒のせいか。
ミアはその両方だと結論づける。そして現実逃避気味にため息を吐いてから、錆び付いたドアノブを勢いよく引いたのだった。
*
ミアが扉を開け放つのと同時。そこら中に雑多なガラクタが散らばる一室に、怪しげな骨董店に、一筋の光が差し込んだ。
「……いらっしゃい」
ついで、部屋の奥の執務机から、気怠げで少し低めの少女の声が響く。
目の前の執務机から放たれたそれは、確かに歓迎の挨拶に違いない。しかし、幸か不幸か、その声音から歓迎の意を感じ取れるほど能天気に生きているものはこの場にいないのだった。
「相変わらず、足の踏み場もないわね」
「……なんだ、あなたですか」
ミアの苦言に、素っ気ない言葉が返る。
「何よ、お客は笑顔で迎えるんじゃなかったの?」
およそ客人を迎える態度とは思えないが、それも今更だろう。実際、笑顔で擦り寄ってくる相手ほど警戒に値する裏社会では、むしろ信頼しているが故の応対と言えなくもない。
「笑っているように見えませんか?」
ミアはその言葉に、三角帽の下からこちらを窺う少女に、射抜くような視線を向ける。
「その言い分だと、あたしは常に笑ってることになるわよ」
「私にはいつも笑っているように見えますが。今日も笑顔が素敵です」
それを意に返すそぶりもない少女の皮肉に、ミアは笑み、もとい仏頂面を深くする。
くだらないやりとりに見えるが、殺し以外にも誘拐や密売、詐欺に暴力。様々な悪行が蔓延る裏社会では必要な行為だった。この世界で真に身分を証明し得る物など、相手の目以外には一つしかない。
軽口は、お互いがお互いであることの証明。ただ、それが日常になってしまってはますます表に戻ることはできないのだが。
「それで、御用は何ですか? ミアさん」
そう言って、三角帽が上を向く。同時に、蝋燭の淡い光によってその下の相貌があらわになる。
淡い紫の光に浮かび上がるのは、まだ幼気な雰囲気を感じさせる顔つきの少女だった。ミアより二つほど年下だろうか。
しかし、長い黒髪の隙間から垣間見える同様に黒い瞳。それは深淵とも形容できる理性と知性を見るものに感じさせ、やはり見た目通りの、年齢通りの少女ではないことが窺える。
同時に、表の人間ではないということも。
「占い師でしょ? 当ててみなさいよ、メア」
軽口を叩くミアに、メアと呼ばれた少女は三角帽の下から真剣な面持ちを向ける。
「占いの価値がわかっているからこそ、雑多なことには使わないのです」
メアは悪魔の巫女とも呼ばれる占い師である。本業は情報屋だが、世界中でも貴重な、占いもできる情報屋としてミアも信頼を置いている。
「相変わらず胡散臭い奴」
「あなたが普通すぎるのです。それこそ、裏の人間には思えないくらいに」
「はいはい」
そんなメアはミアの面倒くさげな返答を聞いてから頷き、用意していたであろう口上とともにかがみ込んで足元を探り始める。
「まあ、いいでしょう。私にとってあなたの行く末というものはとても興味深く映ります。それこそ、水晶を覗いてみてもいいと思うくらいには」
「食えない奴ね」
占いをすることが表現された比喩に眉をひそめながらのミアの発言に、メアは足元を漁る手を止めて向き直り、困ったように眉尻を下げる。
「……食べないでください……わわっ」
一方のミアは、そんなメアの頭に手を置き、その上からワシワシと三角帽を潰して頭を撫でる。
「客を食い物にしてるのはそっちでしょ」
齢は低く見えても、彼女はミアよりも長い間に渡って裏の世界に身を置く商人であり、占い師である。彼女の占いは何時いかなる時であっても外れることはなく、それ故に占いの依頼が殺到している。
しかし、占い業が他の業務に差し障るという理由で金のための占いはせず、自分が占いたいときに占いたいことを占うのだという。
そんな謎の多い占い師の少女は唐突に頭に乗せられた重量に肩を震わせる。そして一瞬静止した後にミアを見上げ、涙目になって言う。
「わっ、私を残して逝った爺様の形見が!」
「ちょっと、タチ悪い嘘つくんじゃないわよ!」
幾度も人間の生死に関わってきたミアは霊的な存在を仄めかす発言に敏感になっていた。
すでに煩わしいコインを懐に住まわせている上に、身知らぬ老人に憑依された日には舌を噛んで死にかねない。それは彼女の判定でもマシな死に方ではないだろう。
「……さあ、仕事の話はこちらで。生憎、ここは骨董店であって、情報屋ではないので」
ミアがうろたえている間にメアはそう言って立ち上がり、扉を開いて奥の部屋へと姿を消した。
「ほんとに、食えない奴」
一方のミアはいいようにあしらわれたことに舌を巻きつつも、その小さな背中についていくしかないのだった……。