裏の世界の決まり事2
「なるほどね……。それにしても、その三馬鹿も無能じゃないんでしょ? それを返り討ちにする奴なんているの?」
明かりが消えた酒場の中央で、ただ一つ、蝋燭の火が揺れていた。
そのか弱い明かりが照らすテーブルの上で向かい合ったバーテンとミアは、その上に置かれた、先ほどまで張り紙だった用紙を確かめつつ依頼請負の手続きに取り掛かる。
依頼の詳細を聞いてある程度の内容を把握したミアだったが、把握した内容以上に疑問が残る案件であった。
特筆すべき点は、すでに依頼を受けた殺し屋が総じて消息不明になっている点。これが裏社会の大物だと言うなら腕利きの用心棒を雇っていても何の不思議もない。
しかし、標的は、カイという名前の冴えない男。経験を積んだ殺し屋を返り討ちにできるとはとても考えづらい。
「さあ……ですが用心はしたほうがよさそうですね。もしかしたら他組合の犬が一枚噛んでいるかもしれません。なにぶん、この額の依頼料です」
そう言って差し出されたのは二枚の羊皮紙。片方は血判に数字と文字の羅列が。もう片方には男の顔らしきものが描かれている。
それらをためつすがめつ眺めて、ミアはため息をつく。
「これまで、額面通りの依頼料が払われた覚えがないんだけど?」
依頼主から支払われた額は大したものだが、すでに三人が失敗した依頼である。その都度、斡旋料やら死体処理費用やら依頼失敗の補填やらが天引きされ、最終的に十分の一程度の額になっている。
しかし、それでも向こう数年は楽な暮らしができるほどの額であることから、依頼の重要性が伺えるだろう。
同時に、腕の立つ殺し屋が飛びつくのも無理はない。ただ、それで失敗されれば腹も立つのだが。
「そちらも酒代をツケなかったことはないでしょう? お互い様です」
「……額が違うわよ額が」
それなりの大金であると同時に、ミアの夢見る自由な生活が現実味を帯び始める程度の額であることも確かだった。
人の噂も七十七夜。普通の生活は無理だとしても、片田舎で平穏に暮らすくらいは許されるだろう。あわよくば、誰もが自分のことを忘れたときに素知らぬ顔で日の下、もとい、月の下を歩きたいとは、彼女の秘めたる野望のひとつだ。
ひと昔前までは自分のことを知るもの全てを殺してしまおうとも思っていたが、人と人との関わりがそう単純ではないことは、長い殺し屋稼業でいやと言うほど思い知らされている。
「……まあいいわ。依頼を達成したら一杯奢りなさい。ついでに、半年分のツケを反故にするってことでチャラにしてあげるわよ」
「よく仕事帰りに飲めますね。私だったら戻してしまいそうです」
血生臭い汚れ仕事をこなした後にそれを連想させるぶどう酒を頼むような、酔いが回る前から酔狂な存在はミア以外には考えられないだろう。しかし、それ以上に、長年裏社会で殺し屋の組合を管理するバーテンが情けなく戻してしまうようなことは想像もできないのだった。
「よかったじゃない。あんたの大好きなぶどう酒がもう一回飲めるわよ?」
「……その日がくることを、楽しみにしておきますよ」
つまり、バーテンの口上は冗句だろう。そして、冗句には冗句を。酒場の雰囲気に違わず品のない軽口の後に二人が握手をすることで、契約はいつも通りに完了する。あとはバーテンが適当な文言を依頼書に書き綴り、判を押して依頼主に送り届けることで手続きは完了となる。
ミアはこのやりとりがいつまで続くのかを考えつつ、変えられない現実が変わる夢を見るべく踵を返し、ため息をつくバーテンの視線を置き去りに酒場の隣に併設された宿屋への扉を開くのだった。
「じゃあまた、仕事が終わった時にでも顔を出すわ」
その軋んだ扉の開閉音が、激動の日々への合図になるなどとは知る由もなく。