裏の世界の決まり事
——おや、戻ってきたのですか。いえいえ、意外だなんてそんな。さすが月夜の怪物。どれだけ無茶な依頼にも応えるその勤勉さには感服致しますよ。ささ、お座りください。そういえば、面白いお話がありまして……。
*
「……しくじったあ? しかも三人も?」
深夜の酒場に、威圧感のある声が響く。
周囲に人間がいれば誰もが振り返るようなその声の主は、木製のカウンターに身を乗り出して対面のバーテンに詰め寄る少女だった。年の頃は十六、七ほどだろうか。
小柄な体に似つかわしくない木樽のジョッキに入ったぶどう酒がこぼれるのにも構わず、片手でカウンターを二度三度叩きつけている。
黒塗りの外套を羽織っていても分かる細身な肢体は、痩せているというより引き締まっていると形容するのが正しいだろう。
フードの下から覗く鋭い相貌は目が据わっていて形無しではあるものの、一般的な美的感覚と照らし合わせれば十分、美少女と言える。
「まったく、一般人すら殺せない殺し屋なんて最初からいないようなもんでしょ。よくそんな無能を雇ってたわね、バーテン。名前まで売ったアホなやつ」
ただ、左右の中央で結ばれた金の頭髪の先端が間抜けに開いた口に入りそうになっている様からは、美しいというよりも残念な印象を受ける。
加えて、白い頬にはまだ先ほどの襲撃によって付けられた傷跡が走っている、という点を鑑みれば、美少女というよりも飲んだくれの無法者と言った方が近いだろうか。
「殺し屋が名前を売るのが仕事って言っても限度があるでしょぉ? 本当に名前を売っ払うのはあんたくらいよ」
どうやら酒は回っていても呂律は回っていないらしい。形の良い唇から紡がれる言葉には整合性がなく、言いたいことを好き放題、思うがままに放り投げているとしか表現のしようがない。
話し相手である対面のバーテンはそんな目の前の少女の醜態に苦笑まじりに肩を竦め、赤茶けた顎髭をさすりながらも白々しく言い放つ。
「ええ。そろそろ補充の人員を募集しなければなりませんね」
一方の少女は、露骨に話題を逸らすバーテンの態度が不服だと言わんばかりに、悪態をつくのと共に頬杖をつき、最後にうんざりするようにため息をついた。
「買ってくるの間違いじゃない?」
「まさか。辺りに転がっているのですから、わざわざ対価を払う必要はありませんよ。育成費用もかさみますし……」
続けて、「……まあ、十年ほどで回収できるのですが」と言い放つバーテンに、少女は呆れるような、それでいて咎めるような視線を向ける。
「それ、誘拐って言うのよ? しかも悪質な。身代金を人質に強要するようなものね」
人の心があるのか、とでも言いたげな瞳は、それだけで相手を威殺せそうなまでに鋭くバーテンを貫く。
実際に人を殺しうると思わせるほどの視線は彼女の職業病ではなく、生来の整った顔つきと酔いが回った鋭い目つきのせいだろう。
流石に腕のいい殺し屋と言えど、視線を合わせただけで殺しを行うことはできないのだった。
「行き場所がそのまま死に場所になっているような浮浪者に雇用と生き場所を与えているのです。感謝はされても、非難される謂れはありません」
そんな視線に構わず、バーテンは肩を竦めたまま自らの正当性を主張する。あくまでそれが最善の方法だと諭し聞かせるように、質問責めをする子供をなだめるように。
それが嫌みなほど様になっているのは、このやりとりが日常になっているからだろうか。
「……いま、あんたみたいな大人になりたくないと思ったわ。割と真面目に」
当然のことを言っていると信じて疑わないようなバーテンの口上に、少女は殊更に顔をしかめる。うんざりした様子を隠すことをしないのは、今更取り繕う仲でもないからだろう。
「その台詞、昨日もお聞きしましたが。今更になって子供面できるとでもお思いですか、月夜の怪物殿」
バーテンが口走った仰々しい二つ名は、少女の仕事ぶりを目の当たりにした同業者が呼び始めた、ということになっている。ただ、実際に彼女の仕事ぶりを見たものはほとんど存在しないだろう。
仮に目の当たりにしたとしたら、その時は見た者の命が尽きる時である。
それもまた月夜の怪物という通り名が一人歩きしてしまう理由であるとは、難儀としか言いようがないのだが。
「その名前で呼ぶのやめなさいよ。あたしにはミアっていう名前があるの」
少女の名はミア。月夜の怪物、逢魔時の主などの二つ名で恐れられている新進気鋭の殺し屋である。
彼女は月と共に目覚め、月明かりが照らす場所で起こったことは全て把握し、いまだに依頼を失敗したことがないと言われている。
「それに、あたしは早く大儲けして自由になるんだから、そんな通り名、足かせでしかないの」
しかし、そんな名のある殺し屋は、優秀な殺し屋であると同時に年頃の少女だった。
もしも自分が普通の町娘として生を受け、普通の人間たちと共に普通の幸せを噛み締めていたらと夢想したことは一度や二度ではない。四度以上かと言われれば微妙なところだが。
「人を殺した手で人を愛すつもりですか? 私たちのような汚れた稼業は表に出たところで苦しむだけです。殺し屋だ、息を殺して鍵閉めろ。あなたも一度は耳にしたことがあるでしょう?」
「……そんなの、わかってるわよ」
巷ではマーダーとも呼ばれ、恐れられている『殺し屋』は、その名の通り殺すことで生きる生き方であり、殺すことで稼ぐ生業である。
生きるために殺すこと自体はある意味当然の摂理ではある。しかし、その対象が人間となると話は変わるのだった。
「それはよかった。商売上、恨みを買って顔を売るのが仕事のようなものですからね。しっかりとその自覚があるのなら何よりです」
「……命の仲介業なんて、よく言ったものね。この業界の奴ら、不謹慎なこと言うのだけはうまいんだから」
「あなたがその代表例ですよ」
命の仲介業。あたかも殺し屋が社会において必要な存在かのようにミアは言うが、幸か不幸か、その表現は殺し屋という存在の実情をこの上なく端的に表していた。
少なくとも、この世界では殺しが公的な機関などから罰せられることはない。
理由としては、この世界で起こりうる殺傷事件のほとんどが殺し屋によるものであるという点が大きいだろう。殺しを罰するために殺しを実行した存在を特定し、追跡し、捉えるまでに必要な労力は、一人の人間の命を奪った対価として釣り合わない。それが優秀な殺し屋による仕事ならばなおのこと。
規制されないどころか、本来なら秩序のために悪を罰する側の人間が積極的に殺し屋を利用している節さえあるのだった。
「あたしは道を踏み外してこの界隈に転がり込んできただけの、心の底から下品で不謹慎な奴らとは違うわよ。大体、邪魔な奴は殺せばいいなんて発想が短絡的ね。一人殺したら、その後何が起こるかも知らないで」
他の殺し屋と一括りにされるのを嫌がるように顔をしかめつつ、ミアは悪態を吐く。
実際に殺しが罪に問われないとは言っても、人が死ぬという事実は、世界から人間が一人いなくなるというだけで済まされることもない。殺しが手段として短絡的だとミアが言うように、殺しによる不都合も確かに存在するのだった。
「雇い主が後のことを考えないで済むために殺し屋は存在しているのですよ。実際、殺しの後に恨まれるのは雇い主ではなく殺し屋です。その代わりに報酬をもらって私たちは生きています」
殺しが行われた場合、そのターゲットが死ぬことで様々な形の不利益が、必ず何某かに発生する。それは私怨か、はたまた報復となって恨まれた者に襲い掛かる。人がたくさんの人と関わり合って生きている以上、それは当然と言えるだろう。
場合によっては、殺したターゲットの身内が新たな雇い主となり、弔い合戦とばかりに殺し屋を殺す依頼を出すことも少なくない。そして、殺し屋の仕事には雇い主の隠れ蓑となり、さらには自分の痕跡も残さないという後処理も含まれているのだった。
そんな殺し屋という生き方において殺しを憂うようなミアの自己矛盾に、バーテンは再三釘を刺す。
「……まったく。これまで自由に生きたことが一度でもありましたか? 自分の手で死んでいく自由で哀れな者たちをたくさん見てきたでしょう? 自由なんて、大きな代償なしには成立し得ない水面の月です。それは手が届く場所にあっても触れることはできず、たった一つの波紋で仮初の平穏は姿を崩す。目の前の月は、自由としての様相を失います」
ミアはすでに熟練の域に達しつつある優秀な殺し屋だった。長年の仕事の中で既に幾度も返り血を被り、泥を被り、汚名を被っている。
その赤黒いヴェールは簡単に外せるものではない。そして、眩い表の世界ではより一層禍々しく映えることだろう。
ただ、表を眩しく感じるのは、ミアが裏の世界で息をしているからこそなのだが。
たとえ自由を手にしたところで、ミアに恨みを持つものは必ず目の前に現れる。そうなった時に、その時を共に生きる存在も巻き込むことになるのは明白だった。
そして、殺し屋である以上、殺しを否定していてはどこかで矛盾が生じる。その矛盾は、殺し屋には必要ない。また、必要のないものを背負って生きていけるほど殺し屋という生き方は楽なものでもない。
「……わかってるわよ、そのくらい」
それがわかっていても、わかっているからこそ、濡れ仕事から離れた汚れなき生き方を渇望してしまうのだった。
「確かにあなたは望んで殺し屋になったわけではない。それは存じておりますとも。ただ、殺し屋なんて皆そんなものですよ。なりたくてこんな職業になる者はいないでしょう。唯一の救いは……」
バーテンは言葉のバトンとばかりに、白い湯気が立つこれまた白いミルクを、ふてくされたようにそっぽを向くミアに手渡した。
「……ん」
両手でカップを受け取ったミアは、躊躇いもせずに一息で飲み干して見せる。火傷しそうな熱さに顔をしかめつつも、体を芯から温めるそれに酔いが覚めていくのを覚えながら口周りのミルクを拭い、カップを勢いよくカウンターに叩きつける。
「……稼げること」
叩きつけて、言う。認めたくないことを認めるように。自分に言い聞かせるように。
自分が殺し屋だという事実を、先ほどの依頼で負った傷に刻み付けるように。
「それで十分でしょう」
「色々と言いたいことはあるけど、まあいいわ。それより、そんな話をわざわざあたしにするってことは……」
酔いが覚めたことで正常に回り始めた頭は、すでに話の行き着く先を明確に導き出していた。
殺し屋が依頼に失敗すれば、依頼が取り下げられるか、それより優秀な殺し屋が依頼に向かう。すでに三人もの殺し屋が失敗している以上、失敗を重ねることは許されないだろう。そして、ミアが依頼に失敗したことは、今のところない。
「おや、先ほどまで一丁前に酔っ払ったお嬢さんがいたのですが、どうなさったのでしょうか。まだ勘定をいただいておりませんね……」
「仕事が終わったら払ってあげるわよ」
呂律が回り始め、平素の雰囲気を取り戻したミアに対してバーテンは嫌味まじりの軽口を叩く。いつもなら続いて一つ二つと軽口を重ねるところだが、そんなことをするよりも、さっさと依頼を受けて一稼ぎしたいところである。
そう思ったミアは、この世界で一番信用してはならない口約束を交わしたのだった。
「話が早くて助かります。うちもこれ以上欠員が出ると回らなくなってしまうので」
「人をさらうよりも酒の質をあげたほうがいいんじゃない? 表向きは酒場なんだから」
バーテンの発言はただ単に目先の利益を考えた発言ではない。彼が運営している酒場は酒と料理以外に殺し屋も斡旋している。その売りがなくなることは長期的な大損失と言えるだろう。
ただ、雇われる側としては嫌味の一つでも言いたくなるというものだ。酒場の信用はそのまま自分の信用。自分の信用は酒場の信用。汚れ物は助け合わなければ生きていくことはできないのだった。
「悪酔いするのは、なにも安酒のせいではないのですよ? 特に、自由を夢見るあなたにとっては」
「別に、本気で普通の生活を夢見てるわけじゃない。そんなことよりも……」
「ええ。私たちは汚れ役らしく、汚いお仕事の話でもいたしましょうか。腐りかけた肉の旨味とワインの芳醇さを知ってしまったら、乾いたパンでは満足できません」
念を押すようなその発言に、ミアは肩を竦めるしかないのだった。
長いエピソードでしたが、最後までお読みくださりありがとうございます。長いのはここだけです。
作中の世界観から小柄と描写しておりますが、日本人女性の平均身長よりも幾分か背が高いかもしれませんね。
2021年4月7日より毎日投稿を再開しました。
ブックマークありがとうございます。励みになります。