殺し屋と不死者3
「……あるところにはあるものなのね、お金って。それこそ湯水みたいに湧き出てるところがあるって言われても、もう驚かないわ」
五十年以上使われていなかった浴場に、久方ぶりの客人が訪れる。どうやら客人は個人浴場というものを使ったことがないらしく、戸惑いを隠せないと言った面持ちで湯気の立つ、いつも利用している宿屋の一室よりよほど広い空間を、下ろした髪をきょろきょろと揺らしながら見渡している。
中央には両腕を伸ばしても端から端まで届かないほど大きな浴槽。一面にタイルの貼られた豪奢な空間。浴槽の傍に置かれた木製の盥には、真新しい石鹸が二つ並んで座っていた。
客人……もとい、髪を下ろしたミアは盥を抱え、浴槽の淵に腰掛けてため息をつく。
「なんでこんなことに……」
こんなこと、とは敵の本拠地で呑気に眠りにつき、あまつさえ入浴までしていることに対するものではない。入浴するにあたって危惧すべき問題は「変なことしたら殺すわよ」と釘を刺すことでひとまずは問題とならないだろう。
不死者と不審者は心臓に釘、もとい杭を打ち付ければ死ぬという言い伝えは、ミアには計り知れないほど昔から語り継がれている。
ただ、「それは願ったりだ」という言葉がすぐに跳ね返ってきたことを見るに、どうやら彼の体を動かす思念とやらの効果は健在らしい。
「裏のコインは、死神が助けを求めてたのかもね」
命を刈り取る者であるところの死神。そんな存在に死なない男を殺せと命令が出されれば、ミアだったら投げ出したくなるところだ。いや、その死神は彼女自身のことだったか。死神とは、殺し屋の比喩の意味も持っているからして。となると二つある尻尾を巻いて逃げだすべきか。
しかし、あの鼻につく死神の笑い方は、助けを乞うような殊勝な態度ではないだろう。あれはやはり、そんなことを考えてしまう自分を笑っているのだ。
「……ダメね。ゆっくり休む気にならないわ。……もっとダメになりそう」
そんな考えを振り払うように被りを振って、弱々しく呟く。それは現在のミアの生き方の矛盾に気づいてしまったが故の発言だった。自由になるために、稼ぐために殺す。一見矛盾がないように思える。
しかし、自由になるためにはミアに殺し屋としてのいろはを叩き込んだ者にも金を返さなければならない。加えて、ツケにツケた酒代の精算に、別口の借金も残っている。
他にも定期的に発生する支払いは枚挙にいとまがない。臨時収入もすぐに相殺される上に、ミアが自由になるために想定している方法にも莫大な資金が必要となる。人と人とが複雑に関わり合っているこの世界において一人の人間が全てのしがらみかれら解放されるには莫大な資金を必要とするのだった。
「……本当に、あんなバカとでくわさなければよかったわ……。ただ、でくわさなかったら報酬もないんだけど」
それこそ白金貨でないと払えないほどの。一生遊んで暮らす方がまだ楽なほどの。そして今のままでは、借金と酒に溺れているままでは実現する見込みがないことに。全てを根本から考える時間ができたことによって、気づかなければこのまま夢を追いかけ続けられたような事実に気づいてしまったのだ。
「はあ……」
豪華な浴場に鏡がなかったのはせめてもの救いだろうか。もし今の彼女の顔を見てしまったら加速度的に沈んでいく顔に、ため息が止まらなくなってしまうだろう。それこそ、ため息で完全に鏡が曇ってしまうまでは。
「……決めた」
どれだけの時間湯船に浸かっていただろうか。少なくとも、ミアにとっては考えた時間だけで頭がのぼせ上がってしまうほどの長い時間だった。それが浴室内であれば尚更だ。ミアは長風呂に湯だった肢体を引きずり、浴場を後にしたのだった。
*
「……これからどうするか決まったか?」
平素とは違って火照った体に、平素通りの服装。脱衣所には上等そうな衣服が用意されてはいたが、それを使用するのは気が引けたミアは、結局いつも通りの服装に体を落ち着けることにしたのだった。
稼げるようになっても、貧乏商人である両親由来の貧乏性は鳴りを潜めることはない。
カイの問いかけにすんと鼻を鳴らして、ミアは言う。
「当たり前じゃない。あたしを誰だと思ってるのよ」
そんなミアが扉を開いたのを見たカイは、もう答えは知っているという様子で頷く。そして、何か決意を込めたようなミアの瞳を認めて再び、何やら満足そうに頷いて口を開き……。
「そうか、なら荷物をまとめて……「……から」
「……なんだって?」
言葉を遮ったミアの発言に一瞬耳を疑う。そしてもう一度尋ねる。
尋ねられたミアは、あくまで平素通りの表情で、何もおかしいことはないと言った様子で、再び熱った口を開く。
「あたし、ここに住むことにしたから」
「……は?」
再び響いた疑問の声が、最初より間抜けに狭い室内に、短く。そして消えることが想像できないほどの反響を残して行ったのだった……。
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