兵どもが夢の後4
「はあっ……、はあっ……」
カイは扉にもたれかかって呼吸を整える。父親と自分だけが知る回転扉。回廊の突き当たりの先に拵えられた秘密の空間。もう長年使っていなかった部屋だったが、本を読み聞かせてもらう時分では無くなっても、この時のために無くてはならなかったのだ。
「はあっ、はあっ……いってえ」
頬に一筋走った赤い線。それを拭って泣き言まがいの言葉を洩らす。
つくづく、殺し屋とは恐ろしい存在である。これでも、自分は次期領主候補として自衛ができる程度には体を鍛えている。加えて、剣術の鍛錬も怠ってはいない。
周囲の人間……、少なくとも領民には怠け者のうつけ息子と揶揄されているが、努力とは秘める物であり、見せかけの優秀さなど鍍金以上の意味を持たない。少しでも目立てば狙われる世界において、仮初の輝きほど煩わしいものはないのだった。
そして、それに囚われているものから死んでいく。見せかけの輝きを保つのに必死になっては自分の輝きで目が眩んでしまう。周囲の瞳に写る自分。それと現実の自分との乖離に心を壊される。
鍍金の輝きを保とうと必死になるからこそ必ず死ぬというわけだ。
そう胸に刻み付け、領主としての責務を全うできる人材になるべく気疲れしない程度には努力を重ねてきた。
それなのに、少なくとも一般人と比べて身体能力も高く、加えて武術や剣術の心得もある彼がこうも翻弄されるものだろうか。
——いや……、殺し屋が優秀なのかもな。まったく、政治家は育たねえのに、殺し屋ばっかが進歩しやがる。
そう結論づけた理由は殺し屋の身なり。ボロ布を纏ったその姿は一見住む家を持たない浮浪者のそれだが、右耳には上等そうな耳飾りを装着していた。
そしてその身のこなしは言わずもがな、途方もない鍛錬の先にやっと先端が見えてくるような領域のそれだ。殺しに命を捧げている者は、同じ人間であっても明らかにカイとは別種の存在だった。
——銀の耳飾りは確か……相当に高位な暗殺者だったか。どうやらあの領主代行……。あの狸オヤジも本気らしいな。鍍金の下腹はドス黒く染まってやがる。
殺し屋と言っても、その内訳はピンからキリまで様々だ。
泡銭で安い依頼を請け負う路上の物乞いから、貴族お抱えの組合で活動する熟練の暗殺者。カイを狙っているのは後者というわけだ。
仮にも貴族である彼には、一般人には知り得ない相手の力量を嫌でも認識させられる。それがより大きな絶望を生むことになるとは、いよいよ貴族に生まれたことへの理不尽な後悔が募っていくのだった。
——どうしようもないな。
回転扉とは言っても、殺し屋が目を凝らせば容易に見つかってしまうだろう。彼らは重箱の隅をつつくのが仕事のような者逹なのだ。
——そんなんで金がもらえるなんて、この世界は終わってるな、まったく。
加えて殺し屋の組合員。その証である耳飾りをつけている。万一にも生還の見込みはない。
一人で軽口を叩く余力は残っているが、熟練の暗殺者に捨身で立ち向かえるほどの器量は持ち合わせていない。そして、いずれは見つかる密室空間。
この部屋が現状最も安全ではあるが、それと同時に一切の活路も見出せないのだった。
逃げても無駄。立ち向かっても無駄。どこに進もうと一寸先は闇。もう先はないと見えた。
「……いや、逃げられる」
しかし、カイの脳裏に天啓が下りる。それが神の導きか悪魔の囁きか、神のみぞ知ると言ったところだろう。思い立ったら即行動といった性質ではないが、この状況で何かいい策が思いつくはずもなかった。そして、それを止める者がいるはずも。
カイはあたりを見回し、死神ですらたじろぐような狂気的な笑みを浮かべて言う。
「まだ使えそうだな……」
そしてベッドの脇に置いてある椅子を見つけると、それを持ち上げて部屋の中央に設置し、足をかける。
そのまま天井の中央に拵えられた屋根裏部屋への入り口に手をかけ、開く。
途端に鼻腔を刺激するホコリとカビの匂い。そして、幼少の頃より積み上げてきた本が発する紙の匂い。カイが発する血の匂い。一種の興奮状態にある彼は、それらを感じ取れているだろうか。
「よっし……っと!」
天井、もとい屋根裏部屋の床に手をかけ、腕の力だけで体を持ち上げ、屋根裏部屋へと侵入する。頭が天井に当たらないように屈んで進み、再び出会した窓のような、それでいて扉の役割も兼ねている……蓋と形容すべきそれを内側からこじ開ける。
「……」
昼下がりの空気。陽の匂い。暖かい風。
そこは、領主邸の擁す真の最上階。瓦屋根の間だった。
そんな場所に柵や塀などと言った気の利いたものが設えられているわけもなく。しかして、それが一番に気の利いた、天からの最後のプレゼントだった。
「……」
カイは屋根の淵から地面を見下ろす。足を踏み外せば二度と起き上がることはできないであろう光景を前にして、カイは再び口角を吊り上げ、不敵とも狂気的とも取れる笑みを顔一面に浮かべる。その額には尋常ならざる量の汗が玉となって浮かび、それが遥か下の地面に落ちては弾ける。
——一歩間違えれば、それだけで逃げられる。最高にくそったれで、どうしようもないこの世界から!
世界には殺しが蔓延り、力を持ったものから殺される。秩序の代わりに進化を失った世界。進化をしない上に、誰もが怯えた失敗作。そんなところで、しかも生まれてから領主として生きることが決まっている人生など、許容できようはずもなかった。
なればこそ、自らの手でこの生涯に幕を落とすことで偽りのハッピーエンドを演じて見せよう。
「……」
そんな考えが彼の脳裏をよぎったときには、すでにその身体中が風に包まれていた。震えもない。涙もない。ただ一つ、笑顔があった。
今この瞬間だけ、自分は新しい人生を歩んでいるのだ。『悲しい殺し屋』とは違って、自分は不幸ではない。じきに終わる人生をそう納得させ、彼は堕ちていく。
——もし生まれ変わったりなんてしたら、殺し屋になってみるのもいいかもな……。
最初に風の匂いが消え、視界が黒く染まり、ついで全身の感覚がなくなり、最後に、世界から音が消えた。
一人の人間が、悔いも未練も使命も残さず、たった一人の大団円を迎えたのだった……。
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