月夜の怪物
草木も眠る丑三つ時。夜道が月明かり以外の光を失った折。怪物は闇夜に紛れて忍び込み、生なる者を永遠の闇へと誘う。
荒唐無稽な与太話だが、それは今まさに現実のものになろうとしていた。
「がっは……」
ぴしりと何かがこすれるような音とともに、息が漏れる音。痛みに苦しむ声。そして最後にどさりという音が響き、豪奢な絨毯に血桜が咲いた。
「……十二。後は」
暗がりに包まれた回廊の中。少女は標的の斃れる音を置き去りするように、質の良い調度品や扉、そして定期的に並ぶ窓枠を追い越しながら、一筋の風を纏って駆け抜ける。
そんな目まぐるしく移り変わる光景の中で、窓の外から顔を出す満月だけが少女を見守るかのように。移りゆく光景に張り付くように。目で追うことも難しいほどの速さで風のように駆け抜ける少女を追いかけていた。
窓の外にはうっすらと月明かりが照らしている以外には何も見えず、加えて嵐の前の静けさとも形容すべき物々しさが建物全体を包んでいる。ただ、実際は嵐の渦中。その真っ只中なのだが。
『突き当たりに三人。傭兵かな、まだ気づいてない』
そんな静けさに紛れて、どこからか少年のような高い声が頭に響く。
「……了解」
一方の、物々しい静けさの元凶である少女はそれに応えるように呟き、次の標的に向かう。
憂いを帯びたように気怠げなその声は、豪奢な回廊にも、殺しの現場にも似つかわしいとは言えないだろう。
数少ない相応しい点は、彼女が殺し屋であること。そしてその装備。俗に死神のローブと呼ばれる、光を拒絶するかのような黒染めの外套だけだった。
視線の先には、すぐに死装束になる鎧を纏った男が一人。二人。合わせて三人。目に見えないものを探るように。比喩ではなく暗闇に目を凝らし、注意深くあたりを警戒している。
「……」
それを認めた少女は淀みのない動きで三人の傭兵へと接近していく。それは視界を確保することさえも難しい暗がりにおいて、全てが見えているかのように。命の灯火が放つ光に吸い寄せられるように。
少女は傭兵たちに気づかれないよう、一息で槍の間合いから剣の間合い。そしてついには拳の間合い。相手の息遣いがわかるほどの距離にまで、音も立てずに近づいた。
そのまま勢いを落とさずに駆け抜けつつ、懐から取り出すのは黒塗りの得物。
「……十三、四」
すれ違いざまに、一番手前の傭兵の首筋へと致命の一振り。もう一人が気づく前に、同様に一振り。
「な……!」
唯一上がった声は、至近距離まで近づいた少女に気づいた傭兵が洩らした驚愕の声。そして、少女は慌てて腰の片手半剣を抜いて抵抗しようとする傭兵に最後の一振り。獲物の間隙を縫って走りながら、流れるように、首筋を撫ぜるようにして無力化していく。
「かは……」
それに少し遅れて、息の漏れ出たような声。赤い液体の吹き出す音。そして、最後にどさりという音が三つ。虚しくあたりに響いていった。
「……十五。後は」
瞬きのうちに戦闘を終わらせた少女は、ナイフに血振りをくれて立ち止まる。
その一連の流れは、殺陣というのにはあまりに繊細で、無情で、最後まで一方的な殺しだった。そして、それは少女の身体能力の高さと、同様に高い技量を物語る。
『……これで最後。侵入して早々見つかった時はどうなることかと思ったけど、なんとかなって良かったね』
「あんたが報告しなかったからでしょ」
標的の全滅を告げる声に、少女は外套のフードを解き、腰に手を当てて悪態をつく。ついで、フードから解放された金髪が、それに合わせてはらりと揺れた。
仕事が終わってしまえば警戒することは何もない。たとえ、外套の下に隠されていた素顔を夜風に晒しても。言葉を音に乗せて発するという、自分の居場所を相手に知らせるだけの行為であっても。それを妨げられる理由はどこにもなかった。
ただ、仕事中の不注意で徒らにその難易度を上げてしまったのは、彼女自身の落ち度なのだが。
『しょうがないじゃないか、報告する前に突っ込むんだもの』
「うるさいわね……」
煩しげに肩を竦めた少女は、頭に響く声に応えるそぶりすら見せず懐に手を伸ばす。
そうして取り出したのは一枚のコイン。それを指先で摘むようにして夜闇を黄色く照らす満月に掲げ、親指で勢いよく弾き上げた。
『わわっ!』
黒手袋に包まれた細い指の先から離れたコインは、そのまま激しく回転しながら跳ね上がる。そして、頂点で一瞬だけ静止するのと同時。頭上の月と重なるようにして輝いたかと思えば、最初に昇って行ったその軌跡をなぞるようにして少女の手元に戻っていき、
『……ちょっと、それやめてよ! 目の前がグルグルする!』
少し遅れて、いつもより大きな声が少女の頭に響いた。もし声の主の姿が見えていれば、文字通り弾かれたように顔を上げて抗議をしていただろう。
「文句なら馬鹿げた依頼を持ってきたバーテンとその依頼主に言いなさいよ。政敵を殺して、その場の関係者も全員消せだなんて正気の沙汰じゃない。控えめに言って非常識ね」
『誰にも見つかるなっていうのは、関係者全員殺せってわけじゃないと思うけど……』
「死人に口無しよ」
少女は、原因の押しつけ合いにうんざりしたと言わんばかりに、煩わしいコインを片手に肩を竦める。
人間扱いされることも珍しい殺し屋とはいえ、仕事を選ぶ権利はある。それが名の知れた殺し屋なら尚のこと。
ただ、明らかに非常識な依頼を積極的に受ける理由があるとすれば、答えはひとつだった。
『咲くのは梔子じゃなくて彼岸花だけどね……なんにせよ、非常識な依頼ならもちろん、報酬も非常識なんでしょ?』
相棒の不謹慎な冗句に、少女はうんざりしたようにため息をつき、ついで悪態をつく。それは、何かを諦めたような虚脱感を感じさせた。
そして、それを振り払うように少女は肩を竦めてため息をつき、金髪を揺らす。
「返済の足しにもならないわよ。早く戻って次の依頼。バーテンの驚く顔が目に浮かぶわね」
非常識な内容の依頼で、報酬の桁も非常識。となると、それを受けざるを得ない少女の境遇もまた非常識。普通とは程遠いものだった。
殺しの現場において不毛なやりとりを繰り広げた後に少女はコインを懐にしまい、洋館を後にすべく、予め開けておいた扉から夜風の沁みる夜路へと踏み入れる。
見上げた月は少女の碧い瞳に重なるように映り込み、忌々しいほどに眩しかった。
そんな光から逃れるように振り返り、ため息を一つ。いつまでこの生活が続くのだろうか。そんな思いが脳裏をよぎったところで、
「……殺しの現場で、なんとも呑気なものだな。月夜の怪物よ」
『まって! ミア、後ろ!』
突如として背後からかけられた声と、懐から響く焦りを含んだ声。そして、音もなく訪れた襲撃に少女は碧く光る目を見開き、ひりつくように肌を刺す殺気に驚愕を顕にする。
「な……」
直後、両の瞳に浮かんだ月が、歪な剣の形に陰り、最後にはその視界の全てが、夜闇に紛れるように覆い隠されていった。
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