Ep.1 [9]
エストールに手を引かれ、アエリが連れてこられたのは城の一室であった。
少し待つように言い残して、エストールは去った。
アエリ「これでよかったのだろうか。王子殿下の前で取り乱してしまって」
突如、扉が何回か叩かれる音に、アエリはハッと身を起こした。
アエリ「殿下……? どうぞ。その、鍵などは勝手にかけておりませんので」
だが返事が無い。
不審に思ったアエリは、恐る恐る扉に近づき軽く引く。
途端、小柄な少年が扉にもたれかかるように倒れ込んできた。
アエリ「貴方は……確かノア、様」
ノアはしゃがみ込んだ姿勢のまま、後ろ手で素早く扉を閉めた。
そして強い眼差しでアエリを見上げる。
よく見ると、ノアは左腕を強く押さえていた。
そこから血が滲んでいる。
アエリ「ノア様、お怪我が……」
ノア「逃げて。逃げて、アエリさん!」
アエリ「え、どうしたのです……まず手当てを」
ノア「……人を殺した」
アエリ「え?」
ノア「ニコラが人を殺しました」
ノアの瞳が少し涙ぐむ。
ノア「今まで何人も殺された。全て犯人はニコラです」
アエリ「…………!!」
ノア「それで、これはとても言いにくい事なのですが。ニコラに仕えていたアエリさんにも、嫌疑が向けられているようなのです」
アエリ「そんな、私は何も」
ノア「はい。私はアエリさんが人殺しに加担するような人だとは思えません。貴方はニコラとは違う」
ノアは手を伸ばして、アエリの手を握った。
ノア「だから、すぐにここから逃げてください」
アエリ「でも……王子殿下が」
ノアは表情を曇らせて、悲しそうな瞳を伏せる。
ノア「あの王子殿下は恐ろしい人です」
ノアの口から発せられた予想外の言葉にアエリは戸惑った。
しかし、ノアの真剣な眼差しを受けて何も返せない。
ノア「王子殿下の側に居てはいけません。さあ、これを」
ノアは自分の首にかかっていた首飾りを取る。
今までは服に隠れて見えなかったが、薄紫色の宝石の付いた首飾りだ。
それをアエリの手へ握らせた。
アエリ「私は……」
ノア「もう時間がありません。誰も貴方に弁明の機会など与えてくれないでしょう。早く城を出るのです。私の首飾りはそこそこの値になると思います」
アエリ「ニコラ様が、ニコラ様が私は関わっていないと言ってくれれば」
ノア「無理です。もはやニコラは正常な思考を失っています」
ノア「お願いです! 早く、行って!!」
その叫びにも似た、声音と。
懇願ともとれる深い色の瞳に気圧されて、
答えも出ないままアエリは部屋を飛び出した。
それを見届けたノアは、床に手を付き――邪悪に微笑んだ様に見えた。
◇◇◇
ノア「さて……あ、痛い……」
立ち上がろうと身を起こしたノアは、脇腹に鈍い痛みを感じた。
ノア「蹴られた所、忘れていた」
アエリが出て行った扉の外へ視線を向ける。
開け放たれたままの扉の横に、ノアの車椅子があった。
ノア「んー……」
思い切り手を伸ばしてみるが届かない。
その時、廊下の奥から複数の足音が聞こえてきた。
この国の頂点と次点に着く二人だ。
エストール「えっ……君は……」
ノアの潤んだアメジストの様な瞳と、訝しげなエストールの薄い青の瞳が交差する。
一瞬、足を止めたエストールだったが、すぐにノアへ駆け寄り抱き起こした。
エストール「ノア、怪我。ニコラにやられたの!?」
国王バルタザール「ふむ。先程な、一人の死体が見つかった。私も信頼を置いていた要人だ」
エストールに抱き上げられて、車椅子に腰を下ろしたノアはただ静かにその偉大なる国王バルタザールの姿を見上げた。
国王バルタザール「殺したのは、ニコラだ」
国王バルタザール「それに伴い別棟にも、くまなく捜査の手が入った。そして、面白い程に次々と今までの犯罪の証拠が出るわ、出るわ。
奴はな。連続殺人事件の犯人なのだよ」
国王バルタザールの豪快な笑い声が響いていた。
エストール「ノア。何故、君はここに」
少し潜められた声が、ノアの耳元へ囁かれた。
ノア「アエリさんを探していました。アエリさんは別棟で働いているので。心配になったのです」
その返事はどこか色が無く、そっけなく感じられた。
エストール「アエリは何処に行ったの」
ノア「いいえ、殿下。私は存じません。私がこの部屋へ来たときには、彼女はもう居ませんでしたから」
俯いたまま、どこか満足げに微笑むノアの表情は美しかった。
◇◇◇
ノアを送るために下の階へとやってきた。
玉座の前を通過することになる。
国王バルタザール「現在、ニコラは逃亡中で総力を上げて捜索中である」
三人が玉座の前へ差し掛かった時だった。
???「その必要は、ないさ」
エストールがノアの車椅子を押す手を止める。
ノアも気付いたのか、目を大きく開き背を伸ばす。
三人が玉座を背に、声のした方を向いた。
玉座のある段から小さな段差をいくつか降りたその場所には
――ニコラが立っていた。
ニコラ「我が偉大なる王よ! ご機嫌麗しゅう!!」
大げさな仕草で一礼するニコラの灰色の髪には、固まった血がこびりついて乱れていた。
白衣の純白さは失われ、赤黒い汚れとくすんだ色に侵食されている。
ニコラ「高貴なる貴方様に捧げよう!」
顔を上げ、にやりと笑ったニコラの鈍い色を放つ金の瞳がバルタザールを見据える。
そして背に回した手を前へ、勢いよく突き出した。
血を滴らせるその両の手には、人間の物と思われる臓物。
長く、重みのある、それを神話の剣でも捧げ持つかのようにして歩み出る。
そしてバルタザールの前へ、恭しく跪き、まるで献上物を捧げるがごとく――その臓物を差し出した。
バルタザールは腐った家畜を見下ろすかの様な冷えた瞳をニコラへ向け、その背は怒りに揺れていた。
国王バルタザール「貴様、ニコラアアアアァァァァァァ!!」
激昂したバルタザールは、持っていた杖でニコラの首を飛ばす勢いで薙ぎ払った。
ニコラは倒れ込み、手にしていた臓物が宙を舞う。
そして、駆け付けた衛兵がニコラを抑え込んだ。
国王バルタザール「貴様の様な汚らわしい者が、この私を愚弄するとはいい度胸ではないか!!!」
国王バルタザール「……私は今、最高に気分が悪いぞ」
バルタザールは高々と叫ぶ。
国王バルタザール「この者を殺せ!!」
ノアがハッとし、バルタザールの前に跪いた。
ノア「どうか……どうか、それだけは……! お許しください!!」
涙を流し懇願するノアを、バルタザールは笑顔で一瞥した。
国王バルタザール「お前は……そうか。思い出した。ニコラの弟、ノアだったか」
国王バルタザール「聞き及んでいるぞ。礼儀正しく、誰にでも心優しく振る舞う。とてもとても、そのいかれた兄の弟とは思えない、とな」
バルタザールは嗤った。
国王バルタザール「なんと出来た弟だろうか。こんな兄の事までかばうとはな」
国王バルタザール「お前にとっても、こんな兄など居ない方がいいだろう。兄のせいでお前まで悪く思われたら、なんと勿体ない事だろうか」
バルタザールの慈悲無き返答に、ノアはただただ声をあげて泣くのだった。
しかしその涙は本物であっただろうか。
ノアの表情はどこか恍惚としたものにも見える。