Ep.1 [7]
アエリ(ベッドから身を起こすのが辛い……)
アエリ(結局あまり眠れなかった)
アエリは目をこすって、支度を始めた。
今日もニコラの住む別棟に向かわなければならない。
アエリの動作は重く、気持ちが濁っている事を表していた。
アエリ「ニコラ……あの人は……血の臭いがする。ううん、あの人だけじゃない。この城全体が」
アエリ(そんな風に思う私は、疲れているのだろうか)
思考に沈むアエリは、ふと視線の先に人影を見つけて顔を上げた。
閑散とした冷たい回廊に、痩せた薄着の少年が伏せている。
近くには傾いて倒れた車椅子があった。
アエリ(きっとこの子の物なのだろう。足が不自由なのだろうか)
アエリ「あの、大丈夫ですか……?」
華奢な少年「あ……おねえさん、ありがとうございます」
差し出されたアエリの手を握ると、少年はしばしアエリをじっと見据えた。
その瞳はどこか大人びており、アエリは居心地が悪くなってしまった。
アエリ(どうしてだろう。幼い少年に見えるのに、なんだか……)
その時、回廊の奥から凛とした声が発せられた。
威圧的な声「ノア様から離れなさい。この雌豚」
ノア「あ、ベル。こらこら、何を言っているのです。こちらの方は、私が倒れてしまったのを助けてくれたのですよ」
ベルシェス「倒れた!? 大丈夫なのですか、ノア様。具合は……」
ノア「違うのです。少し床の凹凸に車輪を引っ掛けてしまって」
ノア「あ、おねえさん。こちらはベルシェス。私のお世話をしてくれています」
アエリ「あ……アエリと申します。数日前より、ニコラ様へお仕えさせて頂いております」
ベルシェスという女性は、背が高い。
小柄な少年であるノアの隣に立つと、さらに際立つ。
彼女はアエリと同じ使用人服を着ていた。
だが、その胸元のリボンの色がアエリとは違う。
アエリ(この色は確か……)
アエリ「高位の使用人を指す色……」
アエリ(そんな高位の使用人が仕えている、ノアという少年はもしかしたら高い身分の方なのだろうか)
ベルシェス「ちょっと、そこの女。あまりじろじろ見ないでくださる? このリボンは以前、別のお方の元に居た時から変わっていないのです。ただそれだけですの」
アエリ(別のお方……本当だろうか。あの色の表す位は、確か王族またはそれに連なるお方に仕えるものだ)
アエリ「あ……すみません。その、この別棟では滅多に人を見かけないものでして」
ノア「私とベルはこの別棟に住んでいるのです。今までご挨拶も無しに申し訳ありませんでした」
アエリ「いえ、そんな。驚きました。同じ別棟に居たのに、数日間お会いすることがありませんでしたね」
アエリ「といいましても、私はニコラ様から立ち入りを禁じられている場所も多いので、そのせいかもしれませんね」
ノア「あぁ……えっと。その、私は昔から体が弱くて、そんなに部屋から出られないのです。ここ最近は体調を崩す事も多かったので」
アエリ「そうなのですか……。どうぞ、ご自愛くださいませ」
少しゆっくりし過ぎてしまったと、時間が気になったアエリは一礼して去ろうとした。
その背に、ひそめられた声がかけられる。
ノア「アエリさん。この別棟に住む異質の研究者には気を付けて」
アエリ「異質の研究者……それって――」
ノア「ベル、行きますよ」
異質の研究者。
それは紛れもなくニコラの事を示していた。
◇◇◇
アエリ「ニコラ様、失礼致します」
返事は無かった。だが中で微かに物音が聞こえる。
アエリはもう一度声をかけてから、扉を開けた。
むっと鼻をつく臭いを乗せた風がアエリの前を通り過ぎていく。
目前には、ただただ棒立ちのニコラの姿があった。
白いはずの白衣にはおびただしい程の赤が散っている。
アエリ「…………!!」
ニコラ「ああ、君か」
ニコラ「気にすることはない、返り血さ」
どこか疲弊した様子のニコラは、だがアエリにぎこちなく笑って見せた。
口元だけが軋みを上げて吊り上げられたその笑みは、酷く滑稽で異質なものである。
ニコラ「……動物の、そう。動物の……」
ニコラの唇はゆるく鈍く言葉を発する。
うわごとの様に虚無感を漂わせるその声音には生気が感じられない。
この状況でニコラの言っている事など信じられるはずもなかった。
アエリ(ニコラ様……貴方は、やはり……?)
――ニコラは殺人鬼。
アエリの本能は、ニコラが殺人鬼だと訴えている。
しかし辺りを見渡してみても、人の物と思われる残骸は見当たらない。
ただ、血に塗れたニコラが立っているだけだ。
ニコラについて、証拠は未だ無いが様々な悪い噂が流れている。
少なくとも現在の状況は、尋常ではなかった。
アエリ(なに……なんなの……何が起こっているの……)
ゆっくり一歩一歩後退り、アエリは扉に手をかける。
そして、そのまま素早く退室するのだった。
アエリ「はぁ…………」
扉を背に、腰の後ろに回した手から冷たい汗が滴り落ちた。
ふと背後から声がして、アエリはびくりと振り向いた。
閉まった扉の向こうでニコラの声がぶつぶつと聞こえる。
『ああ、君か』『気にすることはない、返り血さ』『……動物の、そう動物の……』
『ああ君か気にすることはない返り血さ動物のそう動物のああ君か』
アエリ「…………!!」
繰り返し抑揚のない声が聞こえ続ける。
アエリ(やはり、ニコラ様はおかしい)
アエリは走ってその場を後にした。
アエリ(どうしよう。誰かに相談を……そうだ、王子殿下に)
アエリは別棟を抜けて城へと駆け出した。