Ep.1 [6]
今日はエストールからの手紙は無かった。
昨日あんなことがあったのだ。裏庭にエストールが来るとは思えない。
それなのに気が付いたら、アエリの足は裏庭へと向かっていた。
いつもの場所に着く。
そこには――少し離れた所にしゃがみ込んでいるエストールの姿が見えた。
アエリ「殿下……?」
エストール「アエリ。今日は、君が来るとは思わなかった」
アエリ「私もです。手紙もなかったですし」
エストール「でも……」
エストール「ふふっ。会えたね」
アエリはエストールの隣に腰を下ろした。
少し視線を上げると、窓ガラスの割れている部屋が見えた。
アエリ(いくら離れているとはいえ、人が落下してきた場所が視線の先にあると思うと、あまり落ち着かないけれど……)
アエリ(それでも……)
それでも、アエリはなんとなくエストールと共に居たかった。
故に落ち着かないが、その場を離れることはなかった。
ふとエストールの白い首筋に痣が見えた。
アエリ「……殿下? お怪我でも」
視線に気付いたエストールがハッとして、襟を引っ張り上げた。
エストール「元々、ここへはお忍びでやってきていたんだ。それが、昨日の一件で父に知られてしまってね。はは……少し注意を受けて」
アエリが何か言おうと口を開いたが、エストールはそれを遮る様に言葉を発した。
エストール「アエリ」
エストール「殺してもいい人間が居るとしたら、それはどんなものだろうか」
その声音は凛と美しいが、酷く冷えたものである。
エストールの視線は城の上階を虚ろに捉えていた。
その時である。
眼前の別棟の廊下を見知った人物が横切ったような気がした。
アエリ(あれは、ニコラ様…………?)
気が付いたらアエリは走り出していた。
エストール「アエリ……?」
一瞬だったが、その鋭い光をアエリは見た。
ニコラは手に大振りの刃物を持っていたのだ。
アエリ「確かこっち……」
アエリはニコラの向かおうとする先へ、外壁から先回りしようと試みる。
たどり着いたのは、そこそこ高い塔の様な形状をした部屋だ。
窓は無い。これでは外から様子が窺えない。
どうしようかと立ち尽くすアエリの目に何かが映る。
アエリ「あれは……格子」
アエリの身長よりもかなり高い所に、小さな格子のようなものがあった。
あそこから中の様子を覗き見るのは不可能だったとしても、少しでも耳を近づけられれば、何か聞こえないだろうかと背伸びしてみる。
アエリ(駄目だ。全然高さが足りない)
アエリ(何か足場になるようなものはないだろうか)
アエリの鼓動は不規則に揺れていた。
何故こんなにも焦っているのか。
アエリは廊下を横切るニコラの姿を見てから嫌な予感しかしなかった。
しかしその予感は的中してはならない。
何でもないのだという事を確かめねば、アエリの震えは収まらない。
その時、アエリの肩へ触れる手があった。
アエリ「…………!!」
エストール「アエリ……?」
アエリ「はぁ。殿下でしたか……」
エストール「ごめん、驚かせちゃったね。君がいきなり血相を変えて走り出すものだから、気になって追いかけてきたんだ」
アエリ「ええとその……すみません、説明は後程。少し気になる事があって、あの格子なのですが……」
エストール「ん、中の様子を窺いたいんだね。何があったか知らないけれど、僕が協力するよ」
ほら、とエストールはアエリの前に立ち少し姿勢を低くした。
エストール「僕が君を背負うから」
アエリ「そんな。王子殿下にそんなことをさせるわけには」
エストール「他ならぬ王子殿下本人が言うんだ。気にする必要はないよ。これでもそれなりに身長はあるんだ。君の背丈と合わせて、あの格子までだいぶ近づく」
エストールの有無を言わせぬ態度に観念して、アエリは力を借りることにした。
エストール「よいしょ、と」
エストール「どう? アエリ。何か聞こえる?」
少し目線を上げると格子の縁が見えた。
アエリは注意深く耳を澄ませる。
アエリ(金属音の様なものが、かすかに聞こえる気がする)
アエリ(あとは何か固い物が擦れるような音。それと――)
吐息。荒い呼吸に混ざる、笑い声が聞こえた。
それはまるで痙攣する音楽。
がたがたと震えて途切れて、また繰り返し発せられる。
それは狂気的であり、アエリへ異質な空気を伝えていた。
アエリ「…………!!」
アエリは思わず、勢いよく外壁に腕を押しつけ背を向けた。
エストール「わっ…………!?」
そのアエリの行動にバランスを崩してエストールがよろめく。
アエリ「あ……!!」
エストール「アエリ!!」
背負われていたアエリはエストールと共に草むらに倒れ伏した。
エストール「あいたた……」
アエリ「も、申し訳ありませんでした。殿下」
エストール「僕は大丈夫。アエリは怪我、していないかい」
アエリ「はい。特には」
アエリはエストールを支え起こした。
金の髪に、ぱらぱらと散った花や草がまとわりついている。
エストール「君の様子からして、中から何か……聞こえたんだね」
アエリ「あ…………」
エストール「言いたくなければ、いいよ。でも早くここを離れた方がいいかも。今ので結構派手な音を立ててしまったからね」
◇◇◇
アエリは自室の窓から外をちらりと見やる。もう夜も更けている。
今日は、人は死んでいない。
だが昼頃から一人行方不明の者が居るらしい。
アエリ(もし、もしあの時ニコラ様が……)
エストールに背負ってもらい、あの部屋から聞こえた、たくさんの音が蘇ってくる。
アエリは頭を振って思考を遮断した。
◇◇◇
【日記4】
高位の使用人である彼女がめくるページにも所々血の汚れが付着している。
捧げます捧げます 生贄を捧げます
我がささやかなる望みを叶えたまえ
[本日の罪深き生贄]
痩せた骸骨みたいな貧相な者
[■■■が来てから五日目]
■■■まで、あともう少し。
◆◆◆は●の味方だ。気分がいい。
さあ。また今回も◆◆◆に引き継ごう。
不完全な我等の共同作業。
破滅は近いのかもしれない。
いや、もしかしたら
もうとっくに破滅しているのかも。
愛しているよ。愛しているよ。愛しているよ。
●だけを見て。
●だけを愛して。