Ep.3 [5]
深夜。
エストールはナイフを片手に、ひやりと静まり返った廊下を歩いていた。
やがて、一つの肖像画の前で立ち止まる。
額の中から国王バルタザールが威厳ある表情でこちらを見ている。
見ている。
見ている。
見ている。
勢いよく、ナイフを振りかぶる。
何度も何度も貫く。
そして、絵の中の父親は死んだ。
もう視線は感じない。体に纏わりつく鎖が一つ消えた心地だ。
エストール「次…………」
エストールは速足で目的地へ向かう。
やがて一つの肖像画の前で足を止める。
今度は少し高い位置に、それなりに幅を取って父が掲げられていた。
近くにある適当な椅子を引き寄せて、椅子の上に立って、父と真正面から向かった。
父の感触を、父の香りを、父の味を、感じる様で酷く不愉快だ。
ガッ、と父の顔を抉る。
何度も何度も引っ掻くようにして、やっと父の忌まわしい視線は消えた。
二人目の絵の中の父を殺した。
何故だか、鎖が増えた気がする。体が重い。何故。
最後の場所へ向かう。
エストールは立派な聖堂に居た。
ステンドグラスを背後に、神々しくも悪魔の様な父が見える。
エストール「聖堂くらい、神様の絵を置こうよ。趣味悪すぎ」
エストール「ああ……そうか。みんなにとって国王バルタザールは神にも等しいからか」
エストール「国王バルタザールは神王。天才で有能。父の手によって、この国は大いに発展した」
エストール「父以上の、国王は……居ないんじゃないかという、くらいに……」
段差を上り、絵の表面へと手を滑らせる。
エストール「はは……そうか。僕一人が我慢すれば、みんな幸せ。国王バルタザールは調子も、機嫌も良い。たった一人の犠牲でこの国は安泰」
エストール「国王バルタザールへの供物。生贄。当然の行いであると」
エストール「そうだよね。僕には父の半分も、王の素質も、才能も、価値も無いのだから。うん……それくらい何度も言われているからわかっているよ」
エストール「皆の幸せは、僕の犠牲の上で成り立っているんだよ」
エストール「――でもそれならば、僕自身の幸せは?」
エストールは薄く唇を開いたままで直立している。
大きく開かれた瞳は、何事かに気付いていた。
エストール「そうか……そうか、そうかそうかそうか!!!」
エストール「幸せになるには、犠牲だって必要!!」
エストール「幸せは待っていても、願っても、祈っても、絶対に得られない!!! 僕が実証しているもの!!!」
エストール「幸せは、奪うものなんだ!」
エストール「僕の父だって……自分の幸せのために、僕から奪っている! 全てを奪っている!!」
エストール「幸せになりたければ……幸せを、奪うんだ……」
エストール「アエリ……もう一度、君に会えたら、僕はあらゆるものを奪ってでも、君を手に入れるよ」
エストール「だって、そうでしょう……? 僕は今まで全てのもののために、この身を捧げてきた!! 少しくらい、幸せを返してもらってもいいでしょう!!」
エストール「ずっと……ずっと僕は、痛い思いをし続けている。ふふ。皆の、幸せの、ために。それならば!! それならば、君達も皆痛めつけられればいい!!」
エストール「そうだよね! アエリ!! 当然だよね!? これが正しいんだよね!? やっと答えを見つけたよ!!!」
エストール「僕とアエリの幸せを邪魔する奴なんて、皆クズだ……あはは、ははは……あははは!!」
すっかり片手に持ったナイフの存在を忘れていた。
笑って体をよじった拍子に、その刃は腕を軽く裂いた。
エストール「…………」
少しずつ溢れる赤い線は不思議と心臓の音を静かにさせる。
エストールはその腕を、目の前の平坦な父の顔に擦り付けた。
肖像画の父が、血に染まる。
エストールは静かに瞼を閉じ、自分の鼓動に耳を澄ませた。
エストールは絵の具を足すかのように、自らの腕にナイフを突き立て、さらに赤を作り出した。
滴るその腕をパレットナイフのごとくキャンバスの上へ走らせる。
みるみる内に、国王バルタザールの顔は赤く塗り潰された。
こうして、肖像画の父を殺した。
血が流れ失われる毎に、エストールの頭はぼうっとしてくる。
ふらふらしながら段差に背を預け、ずるずると座り込む。
ふと、その鮮血をたどる様に小さな子供の手が自分の腕を掴む感触を“想像”していた。
エストール「アエリ…………」
“空想”のアエリはエストールの腕を掴んだまま首を振る。
エストール「そう……だめだよね。人の幸せを奪うなんて」
エストールの血が“アエリ”の手へと、腕へと伝い“アエリ”が赤い人形の様に形作られていく。
エストール「ごめん……ごめんよ……。自分でもよく、わからないんだ」
エストール「父を憎悪しながらも、その父から受けた傷を治すために現れる僕の怒りは、まるで父そのものなんだ……」
エストール「父を激しく憎悪する僕が、まるで父そのものであるかのような感覚に陥るんだ」
エストール「この体が、この体に流れる血が、父と同じ、悪魔なんだ」
エストール「僕は、悪魔なんだ」
エストール「おぞましい、おぞましい悪魔なんだよ……」
背伸びをして“アエリ”はエストールの頭を撫でた。
その“アエリ”を見つめて微かに微笑む。
エストール「これがド、これがレ」
宙に手を伸ばして、見えない鍵盤に指を下ろしていく。
エストール「幸せになれる曲…………」
ぽたっ、と指先から血が床に落ちて染みる。
赤い指先をじっと見つめる。
エストール「汚い……僕は、汚い……」
エストール「君の綺麗な心を汚してしまいそうで、怖い」
エストール「綺麗な、君。純粋な君。可愛い女の子。僕のアエリ」
エストール「君のために弾くよ。何度でも弾くよ」
エストール「幸せになれる曲」
◇◇◇
高く聳える城の屋上に一人。エストールは立っていた。
冷たい風が金の髪を揺らし、頬を撫でる。
エストールは迷わず縁まで進む。
エストール「幼い頃の君の笑顔は僕にとって救いだったんだ」
一歩前へ出ればもう道は無い。
エストール「大人になった君はとても綺麗だった“のだろうね”」
エストール「次は結ばれようね。来世っていうの? ううん、なんでもいい」
エストール「すぐに君に会いたい」
エストール「僕の元へ来て。僕の側に居て。僕だけをずっと、見ていて。僕を愛して」
エストール「だいすきだよ、」
――エストールは身を投げ




