Ep.3 [3]
エストール(僕も学んだ)
エストール(騒がない。抵抗しない。従順であれ)
エストール(諦めろ。過ぎ去る時を、ただじっと待て)
父の手がエストールの髪に絡まり、強く引かれる。痛みが響く。
唇を噛みしめて、何か他の事に意識を集中しろと自分の頭に命令する。
父を、見るな。父の目を、見るな。父の体を、見るな。
エストール(現実から目を逸らせ)
目を逸らさなくては、耐えられない。
この現実を、直視など、出来ない。
体が壊れていく。悲鳴を上げている。
エストール(呼吸が……苦しい……)
体にかかる圧迫感が増し、潰れてしまいそうになる。
己が国王バルタザールによって、侵食されてゆく感覚。
エストール(気持ち悪い)
エストール(苦しい。気持ち悪い。苦しい。気持ち悪い)
エストール(死に……たい……)
エストール(死にたい)
エストール(死にたい)
エストール(あれは、冬の休暇。寂しい街、閑散とした屋敷の前、そこに君は……)
エストール「う…………」
思わず漏れる苦悶の声。
エストールの顏のすぐ側で呼吸と共に、父の言葉が響く。
何を言っているかなんて、聞きたくもない。知りたくもない。
エストール(僕は、君にピアノを弾いてあげた。君はとても喜んだ。笑っていた。僕は……)
抉られる感覚。
それは否応無しに、脳内を掻き乱す。
脳内で必死に構築する思考が、一瞬にして散らされる。
この現実に、押し戻される。
父の熱を帯びた瞳と目が合う、恐怖。
国王バルタザール「ディアンナ」
エストール(そうか僕は、母ディアンナによく似て……。そうだっただろうか? そうなのだろうか。もう僕は母の顔がよく思い出せない)
国王バルタザール「ディアンナ……」
バルタザールの指がエストールの肌に強く食い込む。
一生懸命、無理矢理にでも、脳内を避難させる。
ここから逃避させる。
アエリの事を考える。
僕はこの忌まわしい体から脱出して、あの日々へと帰る。冬の休暇。そしてもっと遡る。
微笑みに囲まれた平和で温かな時。賑やかな城内。
思考が深く、深く落ちてゆく。
それは希望の世界か、絶望の世界か。
エストール(あははははは!)
気が付いたら、エストールは笑っていた。
エストール(あははははははは、はは、あはははははは!!!)
その笑みは国王バルタザールにどのように映っていたのか。
エストール(ははっははは、あははは、あはははは、はははははは!!!)
国王バルタザール「どうした。そんな風に笑って」
エストール(気持ち悪い)
きっと国王バルタザールに真実など見えていない。
エストール(ははっははは、あははは、あはははは、はははははは!!! 気持ち悪い。ははっははは、あははは、あはははは、はははははは!!! 気持ち悪い。ははっははは、あははは、あはははは、はははははは!!! 気持ち悪い。ははっははは、あははは、あはははは、はははははは!!!)
◇◇◇
エストールは陽の光に照らされる薔薇園を、ゆっくりと歩いていた。
エストール「しばらく城内からも出るなと言われていたのに」
国王バルタザールから、薔薇園へ出る許可が出た。
エストール(父上は昨晩以降、ひどく機嫌が良くなっていた。何故?)
エストール(…………)
エストール(まさか……)
エストール(僕が……笑ったから?)
エストール「あは、あははは、あはははは!! くくっ……あは、おかしいよ。おかしいよ、おかしいよ父上!」
エストール「そうか。また新たに学んだよ! 僕は、痛くても、苦しくても、笑っていればいいんだね!?」
エストール「そして貴方に従順で、媚を売っていればいい訳だ!?」
ネジが飛んだかのように、エストールは壊れた笑い声を繰り返していた。
笑い声は、激しい泣き声にも聞こえる。
ふと蘇る、過去の父の姿。
エストール「…………」
記憶の中で、バルタザールのその瞳は色彩を帯び、聡明な光を湛えている。
エストール「……まだ、期待しているのか。僕は」
エストール「父が以前の様に、戻ると。また、僕を普通の子供として扱ってくれるのだと、期待してしまう」
エストール「笑っていれば……」
エストール「いつだって微笑みを絶やさず、頑張れば、僕は……いつか、幸せに、なれるだろうか」
エストールはふらふらと薔薇に近寄り、しばらく吟味した後、立派に咲き誇る一輪を手折った。
◇◇◇
一輪の薔薇だけを頼りなく手に握り、エストールは俯きがちに、棚の上に立てた絵画を見据える。
“大人になったアエリ”が微笑んでいる、絵。
移り変わり、歪んでゆく世界に比べて、エストールの中のアエリは不変であった。
イメージの中で姿を変えても、大人になっても。
あの美しくも温かい日々は、純粋なまま残っている。
エストール「アエリにプレゼントだよ」
薔薇を一輪、絵画の中のアエリの髪に寄せる。
エストール「……よく似合っているね」
エストール「僕は、今の自分が嫌いだ。でも君に接していた時の僕は、好きになれる。ねえ、あれが、本当の僕なんだよね?」
エストール「そうだ。あれが正しい。僕は君の理想の王子様。皆が望む品行方正な王子殿下」
エストール「あはは、あははは……」
エストール「自分が歪む。霧散する。僕が、壊されてゆく」
エストール「わからない……わからないよ、アエリ。僕は……これから、どうしたらいい……」
毎日毎日薔薇を摘んできては、アエリの絵画に寄り添わせる。
気が付いたら、アエリの絵画は薔薇に囲まれていた。




