Ep.3 [2]
エストールは小さなオルゴールをそっとポケットに収めて、部屋を出た。
エストール(もうすっかりお守り代わりになっているな……)
エストール(このオルゴールがあると落ち着く)
エストール(アエリ……ありがとう。僕、頑張るから)
エストール「さて……と」
体を大きく伸ばす。
朝日が差し込む廊下。
エストールの袖から見えた腕には縄の痕が赤く残っていた。
その痕を眺めて、唇を固く引き結ぶ。
エストール「こんなんじゃ、駄目だ……」
エストール「何か楽しい事を見つけよう。この城の中でも、僕でも、楽しめる事を」
今日は、城に画家や楽士の団体が来ている。
定期的に来ている者たちだが、エストールは今まであまり積極的に赴いた事は無かった。
エストール「うん……たまには、行ってみようかな」
さっそく団体が集まる中庭へと赴くと、既に賑やかな音楽と、人々の姿が見えた。
楽しそうなその様子を見るだけでも、多少気が晴れた。
ふと通りがかりに見かけた絵が気になり、しゃがみ込む。
簡易な椅子に座った痩せた画家がエストールの様子に驚く。
画家の男「これは! 王子殿下!? エストール王子殿下ではありませんか。そのようにお屈みにならずに、どうぞどうぞ。気になった絵がございましたら、お部屋の方までお持ちいたします」
エストール「ああ、いや、いいんだよ。今日はちょっとここの雰囲気を楽しみたくて来たんだ」
画家の男「左様でございましたか。ではではどうぞ、簡素な物で申し訳ございませんが、ただいま椅子をご用意致します」
エストール「ううん。必要は無いよ、ありがとう」
エストール「それよりも……ここにある絵は、全て人物画だね。君は風景画は描かないのかい?」
画家の男「そうですね。昔は風景もそれなりに描いてはいたものですが、いつの間にか人物を描くという魅力に取り付かれましてな。はは」
エストール「へぇ。どういった魅力なんだい?」
画家の男「人物画というものは、描かれるモデルと、描く己と、そしてモデルを取り巻く環境や周りの人々までもを巻き込む物なのですよ」
画家の男「描く前。描いている時。描き終わった時。誰が、いったい、どういった理由で、その人物を絵に残すのか。その絵はどうなるのか。様々な思いが絡んでいるものです」
エストール「なるほどね……」
画家の男「私は以前、娘を亡くした父親からの依頼で、“大人になった娘”という絵を描いたことがあるのですよ」
エストール「大人になった……」
画家の男「はい。亡き娘さんの特徴を聞き、育った姿を想像して描くのです。完成した絵は大層喜んでいただけました」
エストール「育った姿を……想像して……」
エストールの脳裏に一つの考えが浮かぶ。
画家の男「ええ。それが中々大変なものでして……」
エストール「ねえ!」
画家の男「は、はい。どうされました王子殿下」
エストール「ちょっと……僕も、そういうものを描いてほしいんだけれど。あ、別に亡くなっている訳じゃない。会えないだけなんだ。だから……」
エストール「王宮の正式な依頼ではないんだ。僕個人からの依頼になるけれど、構わないかな……」
エストール「本当に、簡単な物でいいんだ。描いてもらいたい人が居る」
エストール(大人になったアエリ……を描いてもらいたい)
画家の男「はあ……ははー殿下、これ、ですか?」
画家の男は両手でハートマークを形作っておどけてみせた。
エストール「ああ、いや……妹の様に思っている子なのだけれど」
エストール(…………え?)
本当に無意識に出た答えが、エストールの中で疑問を作る。
エストール(僕はアエリの事を、アエリの事を? 好き……好き。アエリに側に居て欲しい)
エストール(でも……どういうこと……? 僕は……)
画家の男「ふふふ。光栄でございます、光栄でございますとも殿下。是非とも、その大切なお方を描かせて下さいませ。はて、特徴をお伺いしても?」
エストール「あ、うん。こう色白で、艶のある黒髪に、エメラルドの様な瞳」
エストールは画家の隣に回り込み、興味深げにキャンバスを覗いた。
次々と現れる輪郭に感嘆の息を漏らす。
エストール「すごいなぁー」
画家の男「殿下。絵に興味がおありですか」
エストール「ああいや、僕はね、申し訳ないくらいに絵は下手だよ。でも見るのはとても好きだ。その世界に、行った気持ちになれる」
ふと、キャンバスを指差しエストールは言った。
エストール「あ、目はね、こう少し涼しげな……」
エストールの中でアエリがどんどん育って、大人になっていく。
キャンバスに現れた女性と同じ顔をしていた。
◇◇◇
エストールは小さなキャンバスをぎゅっと胸に抱いて微笑んだ。
“殿下からの依頼なのだから、ちゃんとした形で仕上げたい”と、しぶる画家の男に、これでいいと無理を言って今日中にもらってきた絵だ。 一刻も早く欲しかった。
簡単な線と、淡い色で優しく微笑む女性。
エストール(恐らく、完成形はもっと塗り重ねられた重厚な物になったのだろうな)
エストール(でも……淡く儚げで、僕はこちらの方が好きだ)
エストール「確かに、アエリの雰囲気がよく出ている。君は……こんな感じの女性になるのかな?」
エストールは棚の上に絵を立てかけて向かい合ってみる。
エストール「え、えーと…………ア、アエリ……」
試しに呼びかけてみる。
エストールには、アエリと再会した時に言ってみたい言葉があった。
少しの躊躇の後、そっと唇を開く。
エストール「――僕と君は、これが初対面?」
口元に小さい笑みを浮かべ、真っすぐに目の前の絵――アエリへと話しかけた。
口元の笑みは固まったまま、徐々にアエリから視線を落としていく。
エストール「きっと、君は覚えている」
エストールの語尾には震えが混じっていた。
『彼女は君の事など忘れてしまう』
エストールの鼓動が不規則に速まる。
『君と違って、彼女にとっての君は、唯一の希望なんかじゃない』
『彼女は幼い子供だった』
『それに』
『彼女は、それほど君に関心なんてないだろう』
エストールの脳内に響く自らの声は、考えたくない世界の話。
エストール「それでも、僕は……」
『彼女とまた再会できる確率は?』
『きっと、無い』
『そして』
『逆に考えてみるんだ。君が成長した彼女を、アエリだと気付けるのか?』
絵に伸ばしかけたエストールの指がぴたり、と動きを止めた。
『ある日、アエリという名前の女性がこの城にやってきたとして』
エストールは何故か目前の“アエリ”の絵を直視できなかった。
『その女性が、その絵の様に“君の思い描いたアエリ”にそっくりで』
『君はその得体のしれない“アエリ”を彼女だと、思い込んでしまう』
喉が渇いて、唇から掠れた声が漏れた。
エストールの歯が震え、視線は虚空を揺らして映す。
その絶望を伝える空気は、何かが決壊する様な、越えてはならない世界の境界線を感じさせた。
『その“アエリ”は一体、何者なのか?』
『本当のアエリは――既に死んでいるのだとしたら』
息が止まりそうになって、エストールは床に手を着いた。
心臓に手を伸ばす様に迫る自身の思考が、かき消えた事に気付き、少しずつ小さい呼吸を繰り返した。
エストールを現実に引き戻す音が聞こえている。
聞き慣れたあの高慢な靴音だった。
国王バルタザールによって、扉が開かれる前に、エストールはそっと絵を奥に隠した。




