Ep.2 [11]
虫の羽音が暗闇を飛び、旋回し、遠ざかりまた近づく。
気が付いた時には、一つ、二つと音は合唱の様に増殖してアエリを囲む。
やがて羽音の奥底から、人影が姿を現した。
母「お母様は死にました。殺されたのです。アエリ、貴方に」
アエリ「はい、おかあさま」
母「お母様の体が冷たくなって、ゆるりどろりと腐り落ちていったのは何故かわかりますね」
アエリ「はい、おかあさま」
自分と同じ姿が舞台に躍り出る。
スポットライトを浴びて、演技がかった仕草で両手を上げる。
夢の中の自分「私は日々の生活に疲れ果て、ある日、お母様の横たわるベッドの縁で眠りに落ちてしまいました!」
夢の中の自分「お母様のお世話をしないと。お母様のお世話をしないと。しかし、曇る視界。ぐらつく体。濁った思考」
夢の中の自分「迫る凶悪な睡魔と、限界まで蓄積された疲労。それは悪魔の様に、私を襲うの!」
夢の中の自分「だって仕方ないでしょう!? 私は幼かったのだもの!! あれ以上、いったい、どうすればよかったというのよ!!」
暗闇の向こう。
幼い自分が、母親の横たわるベッドの縁で眠っていた。
そしてうっすらと、その曇った瞳が開かれる。
顔色が悪く、ふらふらと立ち上がったその幼い子供は母親の手へと触れる。
夢の中の自分「お母様は死んでいた」
夢の中の自分「氷の様に冷たく、固く、少しも動くことなく!」
夢の中の自分「私は後悔した!!」
夢の中の自分「私が看病を怠ったせいで、お母様は死んだ!!」
アエリ「この世で、たった一人になったと感じた」
夢の中の自分「世界にはもう敵しかいない」
土気色をした顔の子供が絶望をその表情いっぱいに塗り付けて――膝をつく。
糸の断ち切られたマリオネットのように、母の眠るベッドへと倒れ伏す。
アエリ「このまま、死のう」
夢の中の自分「この先の未来に希望なんてない」
『おかあさまと一緒に死にましょう』
アエリ「そうよ。どうして、あの時あのまま、私の生は終わってくれなかったの」
夢の中の自分「ばあやが私を見つけたのよ」
夢の中の自分「でも、かなり時間が経ってしまったのね。お母様はとても恥ずかしい恰好になってしまったわ」
母「ええ。あんな姿を晒すなど。恥ずかしくて恥ずかしくて。腐乱して、腐乱して腐乱して吐き気を催すような悪臭を放つなど」
アエリ「いやあああああああああああ!!」
夢の中の自分「ねえ、どうして私は生きているの?」
夢の中の自分「ひどく衰弱していた」
夢の中の自分「自ら動くこともままならなかった」
夢の中の自分「あのまま、誰にも発見されないでいたのなら」
夢の中の自分「――死ねたのに」
母「ごめんなさい。ごめんなさい、アエリ。でもお母様は悪くないわ。病気はお母様のせいではないもの」
夢の中の自分「はい、おかあさま」
母「ごめんなさい。ごめんなさい、アエリ。お母様の環境が全て悪いの。お母様を育て上げた周りがいけないのよ?」
夢の中の自分「はい、おかあさま」
夢の中の自分「私も悪くないです。全て、全て周りがいけないのです」
アエリ「それじゃあ……貴方だって、お母様と同じじゃない」
夢の中の自分「何言っているの。私は貴方、貴方は私」
夢の中の自分「お母様と同じで、全て周りのせいにして呪うのは私達。アエリよ」
夢の中の自分はアエリの首へ、その白い手を絡ませ締め上げる。
アエリ「ん……くっ……」
夢の中の自分「ねぇでも、わかって。幼い私達はあの時、本当にどうしようもなかったのよ」
アエリは手に持っていた刃を目の前の存在へと振るった。
夢の中の自分はそれをひらりとかわし、宙を優雅に旋回し降り立つ。
アエリ「貴方なんか死ねばいい」
アエリ「どうして邪魔するの。お母様が死んだあの時から、私は私を殺した」
アエリ「感情は希薄にすればいい。他人に深く踏み込まなければいい。何事にも期待なんてしない。自己を主張したりしない。ただ、淡泊に。無感動に。世界に従順に生きているのに!!」
夢の中の自分「ふふ……」
夢の中の自分「嘘つき。そんな偽りの自分で生きていて本当にいいの。本当の貴方はもっと」
アエリ「死んでしまえ!!!」
目の前の存在の胸元に深く刃を突き刺した。
その、突き立てられた刃の柄に愛おしそうに指を這わせる、夢の中の自分を、アエリは見た。
指はそのまま伸ばされ、アエリの頬をなぞる。
アエリ「貴方はなんなの」
夢の中の自分「私は、貴方」
夢の中の自分「貴方が殺している自分自身よ」
アエリ「ふ、ざけ、ないで」
アエリ「違う、貴方は、敵だ」
アエリ「貴方は外から入り込んだ。私じゃない。私から出てきたものでは、私のものでは、ない!!」
アエリの手から刃が離れたのを合図に、夢の中の自分は舞台の中心でくるりと一回りしてみせる。
そして観客に向けて両手を広げ、いかにも作られた切なげな表情で台詞を続ける。
夢の中の自分「私は、ちゃんと感情を持っているわ。喜びもするし、怒りもする。様々な生の表現を胸に秘めている」
その手を胸に押し当てる。刺された傷口から鮮血が溢れていた。
夢の中の自分「貴方はそれらを全て殺し続けている」
夢の中の自分は、アエリの両の手を握り向き合った。
アエリ「やめて……それらしい事を言って、私を装うのはやめて!!!」
夢の中の自分「私は、汚いわ。絶望、憎しみ、様々な負の感情に彩られている」
アエリ「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い」
夢の中の自分「貴方はその真実から目を背けている」
アエリ「こんなの私なんかじゃない!!!!!!!」
夢の中の自分「私は、私に殺された」
アエリ「私は、私を殺した!!!!」
夢の中の自分「これが最後よ」
アエリ「もう茶番はやめて!!!!!」
夢の中の自分「私達は完全に一つになるの」
アエリ「違う、違う違う違う、違う!!!! お前は誰!? 私の中に入り込んでいるお前は誰なの!?」
夢の中の自分「生きるも、死ぬも。慈しみも、復讐だって。愛でも憎悪でもいい」
アエリ「お前は異質だ!!!!!! 出て行って、出ていけ!!!! 死ね!!!! 消えろ!!!!! 早く!!!!! お願いだから私を汚さないで!!!!!」
夢の中の自分「――本当の貴方を、私に見せて」
ブツン、と、脳の回線が、切れた。
◇◇◇
アエリは灰燼と化した故郷を茫然と見つめていた。
そこに歩み寄ってくる影がある。
アエリの、父だ。
父の姿を見つけて、走り寄るアエリ。
父は自らの胸に飛び込んできた、その体を優しく抱きしめる。
だが、それと同時に“父”は腹部に激しい痛みを感じ――。
そのまま、ずるずると倒れ込む。
父の体には深々と刃物が突き立てられていた。
父「ど……して……?」
父は、持っていた刃物を落とす。
“アエリに突き立てようとしていた刃物”を、落とした。
観客は拍手喝采。
アエリ「うっふふ、ふふふ……」
アエリ「さようなら。おとうさま」
アエリ「そして」
アエリ「おかえり、アエリ」
アエリは、愛おしそうに我が身を抱いた。
to be continued to episode3




