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Ep.2 [10]


 閑散とした冷たい別棟の回廊。

 薄桃色のふわふわとした髪。

 一人、項垂れるノアの唇はぶつぶつと言葉を呟いていた。

 華奢な手が自らの車椅子を進める度に上がる音に、それは掻き消されてゆく。

ノア「兄さん」

ノア「兄さんの隣に誰かが居るのを見るのは嫌だよ」

ノア「ねぇ、兄さん。駄目だよ。兄さんは変わり者で嫌われ者でしょう。唯一の家族である僕だけが兄さんを理解し、受け入れているんだ」

ノア「ふふふ。あの女――邪魔な存在になりそうだよね……」


ノア「……あれは」

 視線の先には、アエリが居た。

 ノアはため息をつきながら、唇を噤んだ。

ノア(噂をすれば、影がさす……と)


 アエリは仕事を終えて、城の自室へ戻る途中であった。

 ふと視線を感じて辺りを見渡す。

 そこには、ただ静かなだけの別棟の廊下が広がっていた。

アエリ(この視線、気配)

アエリ(間違いない。最近いつも感じていた、不気味な感覚)

アエリ「……誰。誰なの」

 まるでその問い掛けに答えるかのように、高い音が響いた。

 車輪の回される音。

 薄暗い廊下の向こう、現れたのは車椅子の少年ノアであった。

アエリ「あ……ノア、様……?」

アエリ(やはり不気味な視線なんて、私の勘違いだったのだろうか)

ノア「こんばんは、アエリさん」

 満面の笑みであった。

 優しげなノアの薄紫色の瞳が細められる。

アエリ「こんばんは……その、ノア様。今いらっしゃった方向に誰か居ませんでしたか?」

ノア「いいえ。私の他には誰も」

アエリ「あ、そうですか……」

アエリ(やはり、私の勘違いだった)

ノア「アエリさんは、仕事を終えて自室に戻るところでしょうか」

アエリ「はい。そうです」

ノア「そうですか、お疲れ様でした」

ノア「あの……もしかしたら、ニコラから聞いているかもしれませんが、私はニコラの弟なのですよ」

ノア(兄さんは僕だけのもの)

ノア「兄の事はとても大切に思っています」

ノア(兄さん、好きだよ。愛している)

ノア「ですからどうか、アエリさん。兄の事“メイドさんとして”支えてくださいね」

アエリ「あ、はい。精一杯お勤めさせて頂きます」

ノア「ありがとうございます、これからもよろしくお願いしますね。お疲れの所、引き止めてしまったでしょうか」

アエリ「いいえ、とんでもない。先に御引き止めしましたのはこちらです」

ノア「アエリさんは……優しいですね」

 儚げに微笑み、かすかに俯くノアは、とても可憐にアエリの瞳に映っていた。

アエリ「そんな、お優しいのはノア様の方ではありませんか。本当に……ノア様の様な清廉な方は中々おりません」

ノア「その……お節介でしたら、すみません。少し気になることがあるのです」

アエリ「なんでしょうか……?」

ノア「貴方が……城に仕える使用人の一部から、その……悪い事をされていたりという噂を耳にしまして」

ノア(いじめられているんだろう?)

アエリ「あ……それは……」

ノア「私は非力です。でも出来ることだってあると思うんです。何か困ったら相談とかしてくださいね?」

アエリ「は、はい。ありがとうございます……」

ノア「兄は……あまり人の気持ちを推し量る事が得意ではありません。ですので力になれないかと。是非、私にも頼ってくださればと思います」

ノア(兄さんに近づくな。兄さんに話しかけるな。兄さんを見つめるな)

ノア「ふふ。酷い事を言うとお思いですか? 兄弟だからですよ。お互いを深く知っているが故に、良い所も悪い所も受け入れているのです」

ノア「男女の恋愛事もそうですよね? 恋は、恋でしかない」

ノア「でも“愛”は、相手の悪い所も全部理解した上で、始まる感情なのだと私は思うのです」

アエリ「なんだかノア様は……私よりも、年下でいらっしゃるはずなのに、言う事や、纏う雰囲気がとても大人びていますね」

ノア(当然。というか、お前いくつだよ)

ノア(まぁ……この体じゃ当たり前か。僕だってあえて“そう”振る舞っているんだし)

ノア「そろそろ、外も暗くなってきますね。私が送って差し上げられたらいいのですが……」

アエリ「いえ、そんな。そのお気持ちだけで、とても嬉しいですよ」

ノア「どうぞお気をつけて」

アエリ「はい。ノア様も」

ノア「さようなら、アエリさん」

 ノアはアエリの背を見送る。

 完全に去ったのを確認した後、待っていたかのように満足げに微笑んだ。


ノア「――アエリさ、微塵も疑わないよねぇ」

ノア「なにあれ。完全に僕の事を善意の塊だとでも思い込んでてさ」

ノア「いいさ、大歓迎だよ? 僕に気を許す奴は、油断も隙もありまくり。二度と兄さんに近寄れないように、再起不能へと叩き落としてやる」

ノア「…………」

ノア「……愛、か」

ノア「兄さんは……恋とか愛という感情を抱くんだろうか」

ノア「いつか、兄さんが誰かを愛し、結ばれて。その人と共に生きる」

ノア「……私は、その時、ほんとうに一人ぼっちになるんですね……」

ノア「嫌だ……!!」

ノア「嫌だ……嫌だ、嫌、嫌だ、嫌嫌嫌だよ、兄さん!!!」



     ◇◇◇



 ノアは夢を見ていた。

 自分で、これは夢だとわかる夢。

 そこには自分自身が居た。

ノア「また一人……また、一人増えた。兄さんに近づく奴が。ただでさえ、他にもたくさん、たくさん処理待ちの奴等が居るのに」

ノア「もう……やるしか、ないか。ふふ。うん、順番だ。みんな待っていてね」

 激しい雑音。頭がぎりぎりと痛くなって、自分自身の嘲笑が響き渡る。

 真っ暗になったと思ったら、今度は二人の人影が見えた。

 一人は自分。もう一人は“あの女”だった。

アエリ「どうして、そんなに泣くの」

ノア「どうしても欲しい物が手に入らないんだ。やれることは全てやった。頑張ったのに」

アエリ「その、欲しい物って、なに」

ノア「ニコラ――僕の兄さんだよ」

 激しい雑音。ちりちりと脳裏が焼け付く音がした。

 胸の辺りが刺されたような激痛に襲われる。

ノア「兄さん。私……は、貴方を……愛しています」



     ◇◇◇



 朝日が照らす部屋に温かな紅茶の香りが漂っていた。

ベルシェス「ノア様、大丈夫ですか。お疲れの様ですが」

ノア「ああ、昨日あまり眠れなくて」

ノア「変な夢を見たんです」

ベルシェス「そういえば“あの者”もこの前、そんな事を言っていました」

ノア「あの者……もしかしてアエリさん、ですか?」

ベルシェス「はい」

ノア「ふふ……そうですか」

 ノアは自嘲気味に吐息を漏らした。

ノア「どうせなら、幸せな夢を見ていたいものです。ずっと、ずっと――」

“ずっと”その響きにベルシェスは一抹の不安を抱き、軽く首を振った。

ベルシェス「夢は夢でしかありません。いくらそこで幸福であってもそれは……」

ノア「ええ、わかっています」


ノア「目が覚めてしまえば――そこに続くのは現実なんですから」



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