Ep.2 [9]
【王子の手紙5 ××××年×月×日】
アエリへ
ねぇ、何かあったのかい?
それとも僕は君を怒らせるような事をしてしまっただろうか。
そうでないのならば、どうか返事が欲しい。
何でもいいんだ。君の言葉が欲しいよ。
僕は最近ちょっとおかしいんだ。
こんな僕を見たら、君は僕の事を嫌いになってしまうかもしれない。
不安だよ。
未来に希望が抱けない。
毎日とても痛いんだ。心が痛い。
『約束』覚えているかい?
最近いつも考える。
嫌な事が一秒でも早く過ぎ去ってほしい時に、一つずつ考える。
君に似合う、どんな素敵なドレスを用意しようか。
君はどんな部屋で暮らしたいだろうか。
大人になった君。その隣に……その隣に、以前の様に笑う僕。
僕は、君の「おにいちゃん」であった時、
限りなく昔の平和で幸せな時と同じ自分である事ができたんだ。
あれが僕の“理想”
あのまま、君にとっての理想の王子様でありたかった。
でももう、無理だ。
僕は君との思い出の幻想に浸るしか無い。
君という存在に縋るしかない。
助けてアエリ。
エスト
光の宿らない曇った緑の瞳――国王バルタザールは、封の切っていない封筒を手に揺らし、何かを思案している風であった。
すぐに面白そうに歪んだ笑みを湛え、エストールの部屋へと向かった。
国王バルタザール「決して、届く事の無い手紙……か」
国王バルタザール「くくく、はははっ、あはははははははは!!!!!!」
国王バルタザール「あーっはっはっはははははは!!!!!!」
◇◇◇
朝の光がうっすらと差し込む静かな廊下。
アエリはいつも通り、ニコラの住まう別棟へと向かう。
アエリ(……最近、視線を感じる気がする)
振り返るアエリの視線の先、薄暗い廊下の角で確かに影が揺れた。
アエリ「誰」
アエリ「あなたは、誰」
返答はなく、廊下にはアエリ以外の人影もない。
不気味に思ったアエリは、歩みを速めて早々にその場を去った。
◇◇◇
【××××年×月×日 休憩時間】
アエリ「エストール王子殿下……か」
???「うん。呼んだ?」
別棟の廊下で一人呟いたアエリの言葉に、あるはずのない返事が返される。
アエリ「えっ……!?」
エストール「あはは。来ちゃった」
エストール「君が、会いに来てくれるかもしれない。来てくれないかもしれない。どちらにしろ、そう考えているだけで落ち着かなくてね」
アエリ「それで……この別棟まで、わざわざいらしたのですね」
小さくため息をつき、少し俯いたアエリの目の前に何かが差し出される。
それは小振りなバスケットであった。
エストール「ね、今日は良い天気だし。ピクニックでもしない?」
アエリ「ピクニック……?」
エストール「うん。この別棟、裏庭があるよね」
アエリ「別に私は構わないのですけれど、その……」
エストール「じゃあさっそく行こう!」
エストールはバスケットを腕に引っ掛けて、ゆっくりと歩き出した。
アエリもそれに続きながら、言いかけていた言葉を発する。
アエリ「ピクニックというには、随分近いです」
エストール「景色も微妙だしね」
苦笑しながらエストールは振り返った。
エストール「――僕と、どこか遠い所に行きたかった?」
エストール「いいね。どこかとても遠い所へ行っちゃおうか、二人で」
遠くを見つめる瞳には、光が見当たらないかの様で、薄い青はまるで曇り空のように、ただずっと平坦であった。
ふと、その陰った空気を払うように、ふわりと柔らかく甘い香りが流れる。
アエリ「あ、良い匂い……」
エストール「これかな。クッキーを焼いてもらったんだ」
エストールは小さく笑って、バスケットを指差し揺らした。
エストール「一緒に食べよう」
アエリ「あ、じゃあ少しお待ちください。私、紅茶を淹れていきますから」
エストール「ほんとう? それは楽しみだなぁ。ありがとう、アエリ!」
別棟の裏庭へと着く。
一角にそびえ立つ大きな木の下に座ることにした。
並ぶティーセット。香ばしい焼き立てのクッキー。
エストールは満面の笑みで心底楽しそうにしていた。
たわいない話で笑い合い、優しい時間が過ぎてゆく。
こんな穏やかな時を過ごすと、今朝の不気味な視線など自らの気のせいだったのでは、と思い始めたアエリは、何気なくその事をエストールに話すことにした。
アエリ「最近、視線を感じる気がするのです。この別棟で」
エストール「え…………?」
何故、エストールに話してしまったのか、アエリは自分でもよくわかっていなかった。
エストールが度々、不安定になるのは知っていたはずなのに。
世間話のような感覚で、息をはくように、陽光の下、深く考えずに発してしまった。
アエリ「今朝は別棟の廊下で、特にはっきりと……」
もしかしたら、ずっと誰かに話したかったのかもしれない。
気のせいだと思い込みたいだけであり、しかし脳はそれを否定する。
エストールに話してしまったのは、きっと、アエリに今、他に気軽に話せる人間が居なかったからだ。
アエリ「でも、おそらく私の気のせいですよね」
微笑むアエリだったが、それに反してエストールはみるみる内に顔色が悪くなっていった。
そしてエストールは突如として、アエリの肩を掴み顔を近づけた。
エストール「誰。誰だったの、それは」
やはり、エストールに話したのは失敗だった。
アエリはさすがにこの時、エストールに話すのはまずかったと、そう気が付いて、怠惰な眠りから覚めた様に、段々と焦り始めた。
アエリ「あの……殿下。これは、本当にただの私の勘違いだと」
エストール「お願い。教えて」
アエリ「……誰かは、わからないのです。本当に、視線や気配を感じる程度なので。見たとしても影くらいで」
エストール「そっ……か……」
エストール「そうなんだね」
言い放ったエストールは立ち上がり、護身用だと思われる見事な装飾の剣を腰から引き抜く。
その瞳は何処か遠い所を見つめていた。
アエリ「王子殿下……?」
いきなりのエストールの行動に、アエリはただ茫然としていた。
剥き出しの刃が陽の光を受けて煌めいている。
死んだような顔のエストールはどこかへと歩き出そうとする。
アエリは咄嗟にエストールを引き止めた。
エストール「アエリ……?」
アエリ「殿下……どうされたのですか……」
エストール「あれ、僕…………」
自分の手に握られた剣を不思議そうに見つめ、虚ろな瞳を揺らした。
エストールにも自身の行動が理解できていない様で、その表情には少しばかりの動揺が見られた。
やがて静かに剣を収めて、アエリの隣に座った。
エストール「…………」
アエリ「あの、大丈夫ですか。殿下」
アエリは控えめに、紅茶の入ったカップをエストールへと渡した。
エストール「ありがとう、アエリ。君は優しいなぁ」
途端に幸せそうに頬を染め、微笑む。
だがそれは一瞬。
たちまち、その表情は無へと堕ちてゆく。
エストール「……僕から、アエリを奪うつもり……?」
空気を冷やし、震えさせるその声は、何者に向けられたものなのか。
アエリはびくりと体を揺らす。
エストール「誰だい」
エストール「誰なんだい、君を脅かそうとする者は」
それは、呪詛の様に呟かれた。
アエリ「あの……殿下、視線や気配を感じるだけで、その、悪意を向けられている訳では無いと……思います。そもそもこれは、私の思い過ごしで……」
エストール「そう……? ねえ、アエリ。僕は君の味方だからね」
大きく開かれた青い瞳にはアエリだけが映されていた。




