Ep.2 [7]
【××××年×月×日 休憩時間】
アエリは部屋の前へと辿り着き、大きな両開きの扉を軽く叩いた。
エストール「はい、どうぞ」
昨日と同じく歌うような美しい声が返答する。
アエリ「……失礼致します」
エストール「……アエリ!」
椅子から立ち上がり、満面の笑みでアエリを迎えるエストール。
エストール「また会いに来てくれたの? 嬉しいよ」
エストール「どうぞ、ここ座って」
エストールに勧められ、アエリはソファーに腰を下ろす。
エストールも隣に座った。
昨日理解できなかった、エストールの不思議な発言の数々について聞こうと思ったアエリだったが、すぐ隣から少年の様にきらきらとした眼差しで見つめられて、言葉に詰まってしまった。
エストール「ねぇ、アエリ。君の話を聞かせて」
アエリ「私の、ですか」
エストール「うん。城に来る前でも、来てからでも構わない」
アエリ「そうですね……」
アエリ「初めて別棟のニコラ様の書斎へ向かった時、迷ってしまって。ノア様という方にお世話になったのです」
エストール「ノア……に?」
アエリ「あ、ご存じでしたか」
エストール「ああ、うん。まぁ」
アエリ「可憐な方ですよね。あんなに素直で純粋な子が弟だったらな、と思いました」
エストール「弟……か」
どこかエストールの声が虚ろに沈んだ。
エストール「うん、そうだね。僕にもかわいい弟が居たよ。頼れる兄も」
エストール「ジョシュア。ロデリック。二人とも、一緒に亡くなってしまった」
すらすらと流れる言葉は独り言の様に空気へ溶ける。
エストールの瞳はアエリを映していない。
エストール「その後、母も」
エストール「僕は、母にとてもよく似ていてね。そう、父上の愛した母にとっても似ていてだから」
不安になったアエリはおずおずと口を開いた。
エストールの様子が少し、おかしい。
アエリ「あの、殿下……」
エストール「…………あ」
エストール「ごめん。僕、何言っているんだろ」
エストール「……どう? この城に来てから、何か困った事とかない?」
静かに微笑み“なんでも言って”と、首を傾げるエストールは、もう普段の調子に戻っていた。
その切り替えが、あまりにもスムーズであったため、気になりつつも、アエリはエストールに感じた異質を、ひとまず思考から離れさせた。
アエリ(この城に来てから……か)
アエリの脳裏には、昨日メイドの群れから浴びせられた言葉、その行動が浮かんだ。
『没落貴族とか、だっさ』
転んで打った箇所。蹴られた場所。鈍い痛みが今日も残っていた。
アエリは目の前の高貴なる者を見つめる。
アエリ(見事な装飾。上質な衣服。高価な宝石)
ふと。
エストールの、宝石の様に澄んだ瞳に映っている、アエリが歪んだ。
アエリが、アエリを見つめている。
『かわいそうな、アエリ』
アエリ(この人は恵まれている)
『ねぇ……でも。貴方の不幸は貴方のせいではないわよね?』
アエリ(この人は私とは違う)
『ほら……煌びやかなお城。別世界のよう。皆、おとぎ話を演じる舞台の上で踊る高価なアンティークドールみたいね』
アエリ(この人もまた、私達家族を絶望に追い込んだ人なのだ)
『あいつらのせいよ? あの金が有り余り、欲望が怠惰に肥え太った愚かな奴等』
アエリ(欲望が怠惰に肥え太った愚かな奴等)
エストール「アエリ? どうしたの、大丈夫? 具合でも悪い……かな」
アエリ「……あ、いえ……」
アエリ(私、何を考えているの)
アエリ(それに、私よりも恵まれていない人が沢山いるというのに。生かしてもらっている私は、それだけで十分幸せ者のはずなのに)
アエリ(これは愚痴。私の我儘でしかない事なのだ)
ふいにソファーから立ち上がったアエリを、不安そうに見つめたエストールは、アエリの手を取り引き止めた。
エストール「ねぇアエリ、何かあったのかい? 僕には何でも言ってくれていいんだよ?」
アエリ「……殿下。何故、私にそこまで良くしてくださるのですか」
その言葉に返答はなく、エストールはただ静かに微笑んだ。
◇◇◇
ベッドに入るとたくさんの嫌な事が押し寄せてくる。
アエリ(もう、眠ってしまおう。早く)
夢の中の自分「はー。本当、お城はすごく豪奢ね。アエリ、貴方のお家とは比べものにならないくらい」
アエリ「当然よ。それは引っ越す前は、それなりの屋敷ではあったけれど」
夢の中の自分「没落してから住んでいた家は小さかったわねぇ」
アエリ「街の隅にある古い家で、お父様が知人からタダ同然で借りたものよ。お父様は一層家に居ることが少なくなって、ほとんどを愛人の家で過ごしているようだったわ」
夢の中の自分「酷いわ。病気のお母様が居るのに。アエリ。貴方はよく一人で、お母様のお世話を頑張ったわね」
アエリ「ええ、でも……。代々仕えてくれていた年老いた使用人がね、仕事としてではないのだけれど、心配して時々訪ねて来てくれたのよ。それが支えだったわ」
夢の中の自分「そうね。優しい優しい、ばあや」
アエリ「そう……そうよ……」
夢の中の自分「ばあやは? ねぇ、ばあやは? 幼い貴方にとって、唯一頼れる人物である、ばあやはどうしたの」
アエリ「ばあや……ばあやはね……ばあやは……」
夢の中の自分「ばあやは、しばらく町を離れると言って、それ以来会っていないわ。まぁ皆、それぞれに事情はあるものね。ばあやを責めては駄目よ?」
アエリ「もう嫌……疲れた……疲れたの……」
夢の中の自分「そうね。嫌な事は、全て放棄してしまいましょうよ」
暗闇の向こう。
幼い自分が、母親の横たわるベッドの前に立っていた。
暗闇へと手を伸ばすアエリの背後から、夢の中の自分が歩み寄り、その肩へと両手を置く。
夢の中の自分「あ な た が こ ろ し た の」
◇◇◇
【王子の手紙4 ××××年×月×日】
アエリへ
前回の手紙では悪かったよ。
君にだって都合があるんだよね。きっと今は大変なんだ。
僕は今、ちょっと体が痛くて、
もしかしたら少し字が汚くなっているかもしれない。
ごめんよ。
あと食事が食べられないんだ。
食べても、吐いてしまう。
でもね、君の作ってくれたビスケットが
おいしかったなぁと思い出して、
試しにお菓子を食べてみたら、ちゃんと食べられたんだ。
僕はいつしか君に支えられている。
僕の全てが君になっている。
君の全てが、僕。
君だけなんだ。
君だけなんだ、もう。
僕を必要としてくれるのも。
僕を頼ってくれるのも。
僕を好いてくれるのも。
僕には、もう何も、無い。
君との思い出だけが宝物なんだよ。
エスト
光の宿らない曇った緑の瞳――国王バルタザールは、
ついに手紙の封を切らずに炎へと投げ捨てる。
つまらなさそうに、傍らのグラスを傾けて
“ディアンナ”と空に向かって呟いた。




