Ep.1 [2]
自室には眩しい朝日が差している。
アエリはゆるゆると身を起こした後、支度を済ませた。
今日もニコラの居る別棟へと向かう。
城の回廊を進むと、数人の使用人の女達がこちらを見ていた。
声の高いメイド「あーあれあれ“次の生贄”」
およそ日常の会話には、につかわしくない物騒な単語にアエリは少しばかり驚く。
だが、にやにやとこちらの様子を窺う様を見るに、紛れもなくアエリの事を言っているのだろうということは容易に想像がついた。
ふくよかなメイド「これで何人目? 入れ替わり激しすぎ」
妖艶なメイド「前の子、まだ見つかってないんでしょ」
ふくよかなメイド「しっ! それは言っちゃ駄目よ!!」
声の高いメイド「なになに、消されちゃうから? うふふ」
かしましい笑い声が響いていた。
ふくよかなメイド「あの別棟、呪われてんの。血の臭いがすんのよ」
◇◇◇
アエリの足取りは重かった。
別棟へ入ると、この静けさがさらに己の気分を沈ませる。
不思議な事に城とは違って別棟にはほとんど人が居ない。
アエリ「ニコラ様、失礼致します」
書斎にニコラの姿は無かった。
いったいどこに行ったのだろうかと思い、部屋の中を見渡す。
窓は明け放されていて、カーテンが風にはためいている。
ふと窓辺に目を凝らすと重石の置かれた紙の束が目に付いた。
近づいて手に取ってみると、上品な細い文字が並んでいた。
『アエリ、別棟の裏庭で待っているよ』
アエリ「ニコラ様……? でも、名前が書いていない」
アエリ(名前など書かなくともわかると思っていたのだろうか?)
しかし裏庭に着くと、そこには予想外の人物が立っていた。
きらきらと木漏れ日を揺らす、金の髪に彩られた白い肌。長い睫が少し伏せられた横顔。
身に纏う衣服は上質なものだろう。片側にかけた華奢なマントが風に揺れ、その腰の見事な装飾の剣を透かしている。
辺りを見渡してみても、他に誰も居ない。ニコラの姿は見当たらなかった。
アエリはその人物と目を合わせないように、静かに去ろうとした。
だが、その瞬間――。
金髪の青年「アエリ……?」
その人物から発せられるはずは無いであろう自らの名前を呼ばれて、アエリの心臓は跳ね上がった。
アエリ「……はい。私は、確かにアエリですが」
金髪の青年「うん。待っていた。会えて嬉しいよ」
アエリに満面の笑みが返される。
陽に照らされた、その青年の美しくも清廉な姿は、まるで天使の様であった。
アエリ「その、失礼ですが人違いでは。貴方様は……?」
金髪の青年「僕はエスト……いや、エストールだよ。アエリ」
アエリはその名前に聞き覚えがあった。
この城で仕える身として、忘れてはならない名である。
アエリ「し、失礼致しました! 王子殿下とは知らず……」
エストール。
それはこの城に住まう王子の名であった。
現在王位継承権を持つ、高貴な身の者である。
エストール「いいんだよ、気にしないで」
アエリ(でも、何故。やはり私に用があるとは思えない。こんな離れた別棟の、やっかい者の研究者に仕える使用人の一人になど)
エストール「手紙を見て、来てくれたんだよね。アエリ――僕は君に会いたかった」
アエリ「手紙……ニコラ様の部屋の窓辺に置いてあった……じゃあ、あれは殿下が。でも何故」
エストール「君は色々、あって。今は……ニコラの使用人になった。ねえ、酷い事とか……されていない?」
エストールはアエリの肩に触れた。金の髪が揺れる。
触れるその手は優しげだが、いきなりの接近にアエリは動揺した。
見下ろされる瞳は近い。アエリは思わず顔を少し逸らしてしまった。
アエリはエストールの言動などに違和感と疑問を抱いていた。
エストールはまるで、アエリの事を知っているかの様に接してくる。
そんなアエリのわだかまりを貫くようにエストールは言い放った。
エストール「――僕と君は、これが初対面?」
じっと、エストールの瞳を覗き込む。
しかしアエリには身に覚えが無かった。
目の前の人物の事など、全く知らない。
アエリ「何を言っているのですか……。私は今日、初めて殿下のお姿を見ました」
エストール「……そっか。僕に会ったことはない。そうか」
どこか遠くを見つめるエストールの心境は何もわからなかった。
アエリ(やはり他の誰かと思い違いをしているのではないだろうか)
エストール「ごめんね。気にしないで」
エストール「でも、君に会いたかったのは本当だから」
アエリ「どうして……私に……?」
エストールは少しばかり間をあけた後、ゆっくりと答えた。
エストール「君のことが好きだから」
予想もしなかったいきなりの言葉に、アエリは驚いて顔を上げた。
アエリ(冗談にもほどがある……)
エストール「ずっと、君のことが好きだったから」
真剣にこちらを見つめるその眼差しに、アエリは何も言えなくなってしまった。
その緊張感を、ふいにエストールの小さい笑い声が掻き消した。
エストール「なーんてね。ふふ。でも、君の事が心配なのは本当だよ」
エストール「父が厳しくてね。僕はあまり自由が利かないんだ。こっちの別棟の方は静かで、気を休めるのに最適だからたまに来るんだけれど」
エストール「昨日、君の姿を見かけた。俯いて歩く君の表情は不安に満ちていて、心が痛んだんだ」
エストール「別棟はあまり人が居なくて寂しくないかい?」
エストール「僕もひとりぼっちなんだ。良かったら、たまに相手をしてくれないかなと思って」
多くの人に囲まれているはずの王子という立場のエストールが、一人だと訴えるのに、アエリはどこか複雑な思いを抱いた。
なんとなく返事をしそびれて、アエリは思い出したように小さく頷いた。
それにエストールは喜び笑顔を向けた。
エストール「ありがとう、アエリ! 嬉しいよ」
エストール「ねえ、何かあったら相談してね。何でも言って」
それだけを残して、また来るよ、と手を振ったエストールは城の方へ去って行った。
◇◇◇
アエリは自室へ戻って、ベッドに転がり今日の事を振り返った。
アエリ(初めて会った王子殿下。少し、不思議な感じがした)
アエリ(気になる……やはり、殿下は私の事を知っている様であった)
アエリはすっきりとしない思考を懸命にまとめようとしていた。
だが気が付いた時には疲労が勝り、眠りの渦に沈んでいた。
◇◇◇
夜の城で、一つの影がゆらゆらと揺れる。
???「また一人……また、一人増えた。……に近づく奴が。ただでさえ、他にもたくさん、たくさん処理待ちの奴等が居るのに」
???「もう……やるしか、ないか。ふふ。うん、順番だ。みんな待っていてね」