Ep.2 [3]
薄暗い廊下を歩きながら、アエリの脳裏には姦しい声達が騒ぎ立てていた。
『へぇ“あれ”が』
『そう。いわゆる没落貴族ってやつ?』
『身売りも同然とか、かわいそー。きゃはは』
城の回廊で指をさされて、アエリに向けられた数々の声。
『今日から、この城で?』
『ううん。なんと、あの別棟』
『げっ。異質の研究者にお仕え?』
『うん』
『ニコラ』
アエリ「私だって……好きで……なった訳ではない」
立派な城へと一歩足を踏み出した、その時を思い出した。
アエリ「大げさな程の煌びやかな装飾……。そこを行き交う人々は、皆上質な絹を身に纏っていて」
アエリ「無駄ばかり。この城に余り、垂れ流されている金を少しでも、他に回せばいいのに」
アエリ(他に?)
アエリ(今、自分は……私の家へ回してくれたら……とは思わなかっただろうか)
自らの愚かさへ気付いて、結局自分もまた汚れた人間なのだとアエリは表情を曇らせる。
アエリ「私も所詮は自分の事しか考えていないという事か」
アエリ「これでは、ただの愚痴だ」
アエリ(でも……)
通路横に掲げられた高価そうな絵画へと視線を移す。
アエリ「ここに居る数多の富豪達が……少しでも私達を気にかけてくれたのなら、私は……私の家族は、こんな事にはならなかったのに」
アエリ「お母様……」
母の変わり果てた姿が瞼の裏に浮かび、強く頭を振った。
アエリ「早くこの別棟に住む、ニコラ様という方の部屋へ行かなくては」
しかし、この別棟は意外と広い。
アエリ(先程から同じような道を進んでいるような気がする)
その時。道に迷い始めていたであろうアエリの、眼前の十字路を横切る影が見えた。
アエリ「あ! すみません。あの……!」
アエリと同じ使用人服を身に纏った背の高い女性の後ろ姿が、通路の角に消えた。
アエリ(聞こえなかったのだろうか……)
その女性を追い通路の遥か先へと目を凝らすが、そこにはもう誰も居なかった。
アエリ(どうしよう……)
辺りを見渡し、先程の女性がやってきた方向に一つの扉を見つけた。
アエリ「あ……あの人は、もしかしてあの部屋から出てきたのでは」
上質な装飾が施されたその扉は、使用人が使う部屋には思えなかった。
ならば、その部屋には誰か使用人を使うような方が居るのではないだろうか。
アエリ(もしかしたら、掃除に来ただけかもしれないけれど。でも、中に人が居る可能性もある)
アエリは扉に近づき、一瞬の躊躇の後軽く扉を叩いた。
優しげな声「はい。ベルですか? どうしました」
アエリ「あ……私、今日から働かせて頂くことになっております、アエリという者ですが道に迷ってしまって」
優しげな声「そうでしたか。どうぞ、開いています。入っていらしてください」
アエリ「ありがとうございます。失礼致します」
軽く扉を引くとそこには、柔らかい日差しに照らされる車椅子の少年が優しげな笑みをたたえて待っていた。
華奢な少年「こんにちは。初めまして、ノアと申します」
ノア「本当はすぐに私が案内してさしあげられればいいのですが、この通り車椅子でして。移動が遅く、迷惑をおかけしてしまうと思うので」
ノア「もう少ししたら、私に仕えている者が戻ってくるかと思います。その者に案内をさせましょう。それまではどうぞここで、くつろいでいてください」
アエリ「ノア様、ありがとうございます」
優しげに微笑む愛らしい少年は、儚げでとても美しかった。
ノアに勧められ、アエリはノアと机を挟んで向かい側の椅子へと腰を下ろす。
アエリ「これは……」
机の上に広げられた物へと視線がいく。
それは大きな、作りかけのパズルであった。
ノア「ああ、散らかっていて申し訳ありません」
アエリ「パズル、お好きなのですか?」
ノア「好きと言うほどではないのですが、他にあまりすることがなくて」
アエリは目の前のノアを見つめる。
車椅子に座るノアは、うっすらと肌がすけるような白い服と、上に重ねて一枚着ているだけの薄着だ。
ノア「昔から体が弱くて。病気がちなんです」
ノア「そんなに部屋からも出られなくて。時間ばかりが余ります」
無造作に積まれたピースの山から一つ、ノアの細い指がつまみ上げる。
ノア「……と、お忙しく働いてくださっている使用人の方に、時間が余るなどという、こんな贅沢を言ってしまっては申し訳ありませんね」
ノア「ああいや“これから働いてくださる”と言った方がいいですね。今日からなんですよね。城での勤務は大変でしょう。何しろ広大ですし。間違えて、この別棟まで迷い込んできてしまうのも頷けます」
アエリ「え……。いえ私、城での勤務ではありません」
ノア「城での勤務ではない……? それはどういう」
アエリ「こちらの別棟で、ニコラ様という方にお仕えすると」
ノア「…………!」
ノア「ニコ……ラ……?」
大きく開かれたノアの瞳の奥の色が不安定に揺れた気がした。
どこか急に冷たい風が流れてきたような、不気味な雰囲気に陰ったその時、扉の叩かれる音が二人の間に響いた。
ノア「あ……ベル、ベルですか。どうぞ」
ベルシェス「失礼致します。」
ノア「アエリさん。こちらはベルシェス。私に仕えてくれています」
アエリ「あ、アエリと申します」
ベルシェスは怪訝な顔でアエリを睨み付けた後、顔を逸らした。
ベルシェス「この者は何ですか、ノア様」
ノア「本日より、こちらの別棟の……ニコラに仕える予定だそうです」
ノア「それで、迷ってしまったそうで。ベル、アエリさんをニコラの部屋までご案内して差し上げてください」
ベルシェス「……かしこまりました」
ベルシェスはノアへ丁寧に一礼した後、アエリをちらりとも見ずに、扉を開け廊下へと歩き出した。
アエリ「あ……その、ノア様。本当にご親切にありがとうございました」
アエリもノアへと一礼し、静かに扉を閉めて急ぎベルシェスの後を追った。
ノアは手に持っていたピースを勢いよく握りつぶす。
そして拳を振り上げて、作りかけのパズルへと叩きつける。
音を立てて飛び散るピースの群れ。
ノア「別棟のニコラにお仕えする」
ノア「ニコラ――兄さんに……お仕えする……?」
ノア「あの女が……兄さんに……?」
ノア「嘘だ。嫌だよ、兄さん。僕を不安にさせないで」
ノア「兄さんは、僕だけを見ていればいい。兄さんに近づく奴は許さない。許さないから」




