青空の蒼 菊の酒 地の黄色 野菊の一輪
旧暦の節句に、沿っております。
重陽の節句の夜、秋の虫の音が数重なり合い、灯明が、一つある部屋の天井近くの明り取りの窓から、ま白い月明かりにそれが混ざり、静かに差し込んでいた。
部屋には褥が敷かれている、そして枕元に白い瓶子に数本、活けられている黄色の菊の花、猫の額程の庭先にて代々主が、節句の為に育てているもの。薄闇の部屋に花の香が漂う。
スラリと部屋の障子戸が開き、白い夜着に身を包んだ女が、開けるために置いたそれを捧げ持つと、しずしずと入ってくる、四角い明かりの場に運ぶ、塗のない白い生地の三宝をそろりとおいた。上には懐紙が敷かれ、二つの盃に酒器が一つに、水を入れたかわらけに、かたばみ草。
女は置いている対の盃に、そろりと酒を満たす。縁まで盛り上がるそれに、黄色の一片をぷちんと摘み取ると、そこについと浮かべた。空のもうひとつにも酒を少しばかり入れる。そしてそこにも花弁を。
満々と花びらを浮かべ満ちる盃と、カタバミのかわらけに、白い月光が入る。少な目のひとつを手に取り、女は軽く月に掲げる。
「ご武運を」
一言祈りを込めて言葉を吐くと、菊酒を口に含み、静かにそれを飲み干した。朱色の盃の内側に、ペタリと細くはりつく菊の一片、節句の毎に出してくるそれは、婚礼の時にも使った漆器。縁をくるりと指でなぞると、三宝の上にことりと置いた。
枕元の乱れ箱に畳んで置かれた、着こなされている男物の夜着にそろりと手を置く。主の留守により、袖を通していないのにも関わらず、それはくたりと仄かに温もりを宿している。
下級武士である女の夫は、主君の為、領土の為、民人たちの為、そして愛する妻の為に、主に従い、同盟国に加勢をするべく国をたっていた。
そろりと身を持ちよじり、活けてある菊を眺める。そしてかわらけのかたばみに目をやる。思い出す過去の日々。
一年前の節句の時には、二人で交わした盃、朝露が降りた時を見計らい、先ずは綿を花に置いた、香りつく露をそれに含ませた。この綿で体を拭えば、邪気が払えるという。
それから花を摘み、ささやかな節句の祝を執り行った。二人で交わした菊の酒、今は、独りで口にした。対のそれには、ぷかりと浮かぶ花弁が飲んだのか、酒の中に身を沈めつつある。
どくん、一つ胸の中で跳ねる。彼女は不安に襲われた、ときときと心の臓が駆ける。両手を合わせ祈りを捧げた。良くない考えはいけないと、唇を噛む。
そしてそれを断つように、かわらけのかたばみの葉をぷちんと摘み取りそれを口にした。酸味が広がる、目を閉じそれを飲み込む。彼女は、月の明かりを追い、その顔を格子をはめられた窓へと上げる。夜なのだが、出立の朝を思い出していた。
その日は晴れ、青空、蒼の色、地には柔からなすっぱ草。それを摘み取った夫。留守居を守る彼女の手に、それを笑顔と共に手渡した。
菊の香りが淡く漂う部屋、重陽の節句にその花を摘み取り、枕をつくり眠ると悪しき気が払えるという故事。そしてまた、愛しいお方と夢で逢えるとも、伝えられていた。それに習い、独り夜を過ごす彼女は、花を詰めた木綿の袋を用意をした。
くっと抱きしめる、しばらくそのままにいていると、袋が体温で温まり、花の薫りと、緑の草の匂いが漏れるように外に出た。ふわりと女を包む。
月が空を照らしている。そして地上には爆ぜる篝火、開けた地に、幕がはられた陣営、そこに近隣の村から、白に黄色、大ぶりの菊の花びらをちらした酒が、差し入れられた。
一人の雑兵がかわらけを手にし、火を囲み陣を組む場から離れる、大きな焚き火の明かりが、うっすらと辺りを照らしている。男はふるまわれたそれに、辺りにちらほらと咲いていた野菊を見つけると、ふと思い立ちその花弁を浮かべた。
月にそれを掲げる、目を細めると、空いた手を懐に入れる。ぐっと力を込めて、忍ばせてある肌守りを握りしめた。そして男は、一息でそれを飲み干した。家で口にする物とは違い、澄んだ清水の様な味わいが口に広がる、それは上酒。
それは婚礼の時に、祝で届けられたとき以来の味わい、それは出陣の折に主君から振る舞われる味わい、あるいは、正月に登城した折に振る舞われる味わい。家で普段に飲むことはまずない。
ゴクリと飲み込む、留守居を任している、妻の笑顔が想い浮かんだ。彼女も節句の夜を過ごしているのだろう、花を眺めて。
空を見上げた、そこには白い月が浮かんでいる。今宵は重陽の節句、戦など無ければ、妻と共に過ごせたものをと、いけないと思いつつも、つい考えてしまう。甘やかな清水の様な酒でなくとも、色味がかった安酒に、庭の菊の花弁をちらした物でも、節句の祝には変わらない。
出立の前の夜、彼が仕える主から少しばかりの酒と、勝ち飯を与えられた、それを家に持って帰り、二人で食した。家でも用意されていた膳の物と共に、いつもより豪勢な夕餉をとった。
寝所で今生の別れになるかもしれぬ夜を、時を惜しんで過ごした。滑らかな妻の黒髪の手触りと、仄かに焚きしめられた香の薫りが蘇る。
男は続いて翌朝、門先で共に見た色を思い出す。妻の頭越しに、妻は男の肩越しに、共に目にした空の青、黒い夜空を見上げながら、色はそれが心に広がる。晴れ渡った蒼の色。
そしてふと目を落とすと、朝露を光らせ咲いていた、かたばみの花、地の黄色、出立の朝の時。
足元に視線を動かした。そこにも咲いていた。家運隆盛、子孫繁栄の意味を持つすっぱ草。
生きて帰るとの願いを込めて、それを妻に贈った。
笑顔で受け取った妻、大切に押し抱く様に胸に当てた。今、彼女もこの月を見上げているだろうか、庭の菊の花は、咲いているだろうか、会いたいと想いがこみ上げる。
月明かりと、背にある焚き火の明かりが、ぼんやりとそれを教えてくれていた。足元に立つ野菊。それを見つけるとしゃがみ込み、手折る男。それを今宵の枕にしようと考えている。
「夢で逢えるか」
ざざざぁ、と夜半の風が吹く、空には白い月が浮かんでいる。
女は独り夜を過ごす。乱れ箱に忍ばせてある、懐剣をそろりと確認をした。何かあれば、自分の身を守る事ぐらいの手ほどきは受けている。枕の下に菊の袋を置く。飲まれぬそれを寂しげに眺める、三宝の上の盃、一つは空で、ひとつは花びらを内に入れ満たされたまま。かわらけのかたばみ草。
盃に浮かぶ一片は、酒を飲み、半身を中へと沈めている。
男は草の原で夜を過ごす。刀をしっかりと身に着けたまま、ごろりと横になる。故事に習い野菊だか、それを一輪手枕の下に忍ばせてみる。青草の匂いが、湿気った土の香と混ざり男の鼻孔をくすぐる。
下草が生い茂る。手に触れる一つ、細く柔らかな軸に葉、摘み取るとそれは見知った草。口に入れ喰むと名の通り、すい味が広がる。
男の身体の中に、あの朝の地の黄色が入り込んだ。
ゴロリと再び動く、仰向けになる。草を踏みしだく音が近づく。はっと息を呑み、鍔に手をかけ起き上がった。しかし視線の先には、明かりを背にした盟友が、あちらで皆と話さないか、と朗らかに声をかけてきた。
ああ、と声を上げ立ち上がる。踏まれた草の上には、手折られた野菊が一本。傷んだ花びら、男の体温を宿してそこにある。
逢いたいと女は願う。
逢いたいと男は願う。
重陽の節句の夜、菊の花びらを詰めた枕を使い眠れば、愛しいお方の夢を見れる、そんな故事があるという。
終。