問おう、あなたが私のマス……
「……いらっしゃい」
スイッチが入ったかのように意識がはっきりした。
足、腕、頭、身体中に血液がどばっと行き渡ったような感覚だ。彼女とお家デート真っ最中の格好そのまま、きれい目シャツにケーブルニット、細身のチノパンというベーシックな冬スタイル。もちろん、靴なんて履いてない。今は靴下で木張りの床の冷たさを感じている。
「っと……うちはドアから入ってくるのがルールなんだがね。客がやってきたときのベルの音を聞くのがこの仕事の楽しみでもあるのさ」
妙齢の紳士が葉巻を手に、ふぅっと煙をふかしている。
ここはたぶんバー。たぶんってのは俺がバーとバルの違いも分からないお子様だから仕方がない。木製のカウンターに木株のイス。アンティークでオシャレな雰囲気。なんならマスターも白髪の似合うナイスミドルでアンティークな趣だ。
「えっと、こ、ここってどこでしたっけ?」
うっかり、俺のマスターか問いそうになったわ。俺が未来から召喚された英霊かもしれないから仕方ないな。
まぁ? さすがに? テレポート二回目となれば俺もプロのテレポーター。すっとぼけながら場所を聞くなんて息を吸うようにできますよ……
もはやテレポートなどというSF展開に動揺しなくなった自分が怖い。ククク……おネエのキスの前では全てが些事。さぁ我を動揺させてみろ、できるものならな!
「……ロイトガルト帝国、帝都コンラートのしがないバーだが。なんだ、移動魔法に失敗でもしたか?」
マスターは葉巻でとんとんと灰皿をつついて、怪訝な眼差しをこちらに向ける。
これはあれか。ドッキリか? モニタリングなのか? もしそうなら残念ですけど大したリアクションができそうにないです。
帝国? 帝都? 移動魔法?
はっ! 異世界転移モノの小説など腐るほど読んだし、なんなら同ジャンルで小説(笑)を書いた恥ずかしい過去もある。こちとら妄想のプロだ。何度ももし俺が異世界転移したら……などと想像したことか。こういうとき主人公は慌てふためかない。
元ニートですら適応力が半端ないのがこのジャンルの特徴だ。一応、大学生ライフで鍛えられた適応力(笑)を持つ俺に動揺の2文字はない。
「コンラートでしたか、良かった。少し外を見てきます。お騒がせしてすみません」
「あぁ、構わないさ。今度店開けてるときに来てくれたらやるよ」
「ええ。今度は店で一番の酒を飲みにきます」
「あぁ……あと、店内に直で移動するのは帝都じゃ御法度だ。店によったら衛兵を呼ぶところもある、気をつけろよ」
「そうだったんですね……帝都は初めてなもので、危ないところでした。ありがとう、マスター。それでは、また」
ふっ、決まった。人生で初めて「ありがとう、マスター」って言ってやった。次は「マスター、ウィスキー」だな……とか現実から目を背けながら戸に向かう。
ごとごとと騒々しい音が向こう側から漏れ聞こえている。
ーー嫌な予感がする。
戸を開けてしまえばこの予感が決定的なものになってしまう。それが嫌というほど分かってしまう。
そりゃまぁ、ここが異世界だなんてお寒い妄想は本気じゃない。
これは現実だ。
次から次へと不思議なことに巻き込まれても、それすら脳の見せる幻覚、もしくは夢なのかもしれない。
そう自分に言い聞かせていた。
『異なる世界』、『魂の複製』、『魔法』
自分の本能が一つの答えを提示している。
なにより二度のテレポートを経験したこの身体が、それしかないと言っている。
そして、最後に残った理性がそんなのはあり得ないと叫んでいる。戸を開けてしまったら逃げられないと警告している。
ーーカランコロン
理性を超える好奇心が戸を鳴らした。
「……うそ……だろ」
ガタゴトと音を立てて進むたくさんの馬車。
しかし、それを牽くのは馬ではない。
翼のない竜だった。
※ ※ ※
どれくらい佇んでいただろう。そう感じてしまうほどに、ただ呆然と行き交う人を眺めてしまっていた。
暮れなずむ空の下、せっせと『竜車』が道を駆け抜ける。その横を人々が何食わぬ顔でとことこと歩いている。
買い物帰りだろうか、ホクホク顔で嬉しそうに鞄を抱くお姉さん、物憂げに何か呟いているおじさん、忙しそうに御者台で鞭を振るうお兄さん、いろんな人がいたが皆元の世界で見たような顔をしていた。
こちらもあちらも市井の生活にはさほど違いもないのだろう。
きっと今の俺もこちらでも珍しくない顔をしていると思う。あちらで言うところの、リストラされたけれど家族になかなか言い出せず、会社に行くふりをして公園でブランコを揺らす職無しの顔だ。別に誰に偽ることもないんだけど。
ついつい『ボーッとしてますけどこれも仕事ですから』とポーズを取るべく眉間にシワを寄せてしまう。意味もなく顎に手を当て思案気な表情をしている無職・20歳・男性。
やばい……何がやばいってまじやばい。無職ってのがまじやばい。元の世界じゃ学生という名の免罪符があったけど、こんな世界に来てしまったからには糞の役にもたたない。もはや冤罪をかけられても言い逃れできない肩書きなんだよなぁ……
とはいえ、考えないといけないことは3つ。金策と寝床と現状確認。いや、これ以上現状確認することなんてもうないし実質2つか。すでに自分の頬はビンタしたし、『ログアウト!』とか呟いちゃったりもした。まだPSVRも発売してなかったからナンチャラオンライン的なパターンでもない。
そろそろ、あのおネエの言ってたことを信じるしかないのかもしれないと思いつつある。ただ、信じたとしてもこちらの世界については何も分からないのだから考えても仕方ない。まずは今日を生きねば……生きねば。
「よっっっっこらせっくす!」
あーーーー元気でた!!
小学生レベルの下ネタでこんなにも元気がでるとは。なんか下品な単語言うだけでスッキリすることってあるよな? 男子はみんな好きでしょ下ネタ。アタシ知ってる。
雑踏に背を向け、金属の取っ手に手をかける。今度はちゃんと入るとしよう。
ーーカランコロン
来客を告げる音が鳴る。
「いらっしゃい。ちょうど開店しようと思ってたとこだ。そこらへんにでも座りな」
あぁ……余計なことを訊かない気の利いたマスターだ。
なら、俺が言うべき言葉も決まっている。
「マスター、ウィスキー」
バー業界で『こんばんは』の意だ、ソースは俺。
あ、そういや金ないんですけど大丈夫です?