レオナルド視点 王と黒狼
コヨルナハルの社には、ジャン=ジャックと黒犬を見張りとして残す。
ジャン=ジャックは不満そうな顔をしたが、入れ違いになってここからジャスパーがティナを連れて出た場合に、ジャスパーを押さえられる人員を配置したいと言ったら納得した。
ジャン=ジャックの報告によると、ジャスパーは社の向こうにある空間について知り尽くしているようなのだ。
ジャン=ジャックの調べた順路で通路を歩いた場合に、こちらの存在に気がついたジャスパーに迂回されて入れ違いになる危険性があった。
事実として、ジャン=ジャックによればコヨルナハルの社を隠すように立てかけてあったそりが、いつの間にか消えているらしい。
ジャン=ジャックが隠し通路から出た少しの間に、ジャスパーが戻ってきてそりを持っていったのだろう。
鉢合わせになればティナを奪い返せる自信はあるが、迂回されて姿を眩まされてしまっては手も足も出ない。
ならば最初から通路の出口に人を配置しておいた方が確実だろう。
……狭いな。俺の体では無理か?
ジャン=ジャックの見つけたコヨルナハルの社を見下ろし、自分の肩幅と比べる。
俺が使うには無理のある入り口か、とも思ったのだが、胸の内から奇妙な自信が湧いてきた。
――少し狭いが、通れないことはない。
絶対に通ることができる。
そんな確信の持てるはずのない自信が湧きあがり、物は試しと腰を屈める。
入り口の見た目としては、俺が通るには無理のある大きさしかないように見えたのだが、意外とあっさり中に入ることができた。
……見た目より、大きな入り口だったのか?
社の中へと入ってしまえば、あとは背筋を伸ばすことができるだけの十分な高さがある。
屈めていた腰を上げて抜けたばかりの入り口を見下ろせば、そこはやはり俺が通るには小さな入り口があった。
……どう見ても、俺が通れるようには見えないんだが?
まあ、いいか、と思い直す。
狭い入り口に見えるが、実際に俺はこうして通り抜けることができたのだ。
それが真実だ。
入り口を抜けられた配下を十人ほど連れ、先の侵入でジャン=ジャックのつけた印を頼りに通路を移動する。
足音に耳を澄ませて移動していたのだが、ジャスパーのものと思われる足音はしなかった。
……いない。
ティナがいた、と報告にあった牢を石組みの隙間から覗いてみたのだが、中にティナの姿はない。
その代わりというわけではないが、鉄格子の扉がわずかに開いているのが見えた。
ならばティナは再び拷問のために連れ出されたか、ジャスパーに奪われたのだろう。
ジャン=ジャックが先に向かわせたという配下がここにいないことを考えれば、移動させられたティナを追っているのかもしれない。
空の牢を覗いていても仕方がない、と皇城の中へと続く通路を歩く。
物置のような部屋に出るとジャン=ジャックからは聞いていたのだが、仕掛け扉を開けて出た部屋はまさしく物置だった。
……足跡がこんなにたくさんある、というのもおかしいな。
隠し通路から物置部屋に出てすぐの床を見下ろす。
そこにはジャスパーのものと思われる黒い足跡が無数に残されていた。
扉に向かって進む足跡があれば、通路へと戻って来ている足跡もある。
隠し扉を探るように部屋の中をウロウロとさまよう足跡もあるのだが、これは少し不自然だ。
ジャスパーは隠し通路を使ってこの物置部屋へと出てきている。
今更隠し扉を探す必要など、ないはずだ。
考えていても仕方がない、と多すぎる足跡については頭の片隅へと追いやる。
連れてきた山賊とジャン=ジャックの元へ残した山賊以外へは、皇城の中で何か騒ぎが起これば、皇城の正面から騒ぎを起こして兵の気を逸らせ、と命じてある。
それでも騒ぎなどは極力起こさない方がいいので、皇城内を慎重に移動した。
騒がれても困るので、見回りの兵士と顔を合わせれば有無を言わせずに黙らせる覚悟で城内を移動しているのだが、おかしなことに必ずいるはずの兵士となぜか遭遇しない。
「……眠っているな」
さすがにおかしい、と様子を探るために兵士の詰め所を覗いてみたところ、六人の兵士が机に突っ伏して眠っていた。
試しに肩を揺すってもみたのだが、兵士は目を覚まさない。
「親分。水差しの底に白い粉が……」
「見せてみろ」
これです、と差し出された水差しを覗き込むと、確かに水の底に何か白い粒が見える。
なんらかの薬物であることは簡単に想像できたので、舐めて確かめるような真似はしない。
しかし、兵士たちが眠っている理由はわかった。
机に突っ伏して眠る兵士の側には、水の零れたカップが倒れている。
おそらくは、全員この薬によって眠らされたのだろう。
「水がめに薬を混ぜたり、気絶させたりする必要があるかとは思っていたんだけどな……」
「誰かに先を越されてますね。俺たちの仕事がねェや」
そういえば、とジャスパーのことを思いだす。
ジャスパーはセドヴァラ教会からティナを連れ去る際に、毒を使ってアーロンと黒柴を出し抜いている。
ズーガリー帝国の気の抜けた兵士を薬で眠らせるぐらいはできるのだろう。
「思ったより行動が楽そうだ。……だが気を抜くなよ。ここは皇城だ。帝国で一番警備が厳重なはずの場所だからな」
「ヘイ、親分」
念のために、とティナの姿がなかった牢屋へも人を向かわせる。
ティナが牢へと戻されていたり、別の牢へと移動させられていただけという可能性もあるのだ。
どんな小さな可能性も見逃すものか、とさまざまな可能性を思考し、潰していく。
ジャン=ジャックが言うように拷問まで行われたとなれば、ティナの安全を確保しつつ取り戻す算段を、などとのん気に構えている場合ではない。
多少の危険が伴おうとも、少しでも早くティナを取り戻すことだけを考えるべきだ。
……ティナを連れ出したのがジャスパーだとしたら、どこへ向かう?
ティナを連れて逃げるのならば、向かう先は皇城の外だ。
外へと繋がる隠し通路は、そこから俺たちが出てきたので違う道を選択したのだろう。
そうでなければ、とっくに鉢合わせているはずだ。
……あの足跡は、追跡者への目くらましか。
隠し通路から出てすぐの床に残された不自然な足跡の答えが、今判った。
あの足跡は、ここから侵入し、ここから逃走しました、と追跡者に思わせるための罠だ。
……ということは、ジャスパーはあの隠し通路へは戻らないな。
となると、と自分がティナを取り戻せた場合に通る道を模索する。
あの隠し通路は使えない。
そうなってくると、選択するのは人目のない道だ。
皇城の中に人目につかない場所などないだろうが、少ない場所ぐらいはあるはずだ。
例えば、裏門や使用人が使う通用門がこれにあたるだろう。
……まずは皇城の裏へ回るか。
「エドガー邸にいた薬師が何かを見張りにぶっかけて、見張りが眠ったところで女の子を連れて行きやした!」
皇城の裏手を目指して回廊を進むと、先にティナの様子を見張っていたはずの配下がやって来た。
後からやって来た俺たちの侵入に気付き、知らせに来たようだ。
「皇城の裏を目指していたみたいで、おそらくは通用門から外へ出るつもりです」
「通用門か」
裏門と通用門は少しだけ距離がある。
どうやら通用門を目指しているようだ、と進む先が絞れるのは正直助かる。
皇城の建物を出て外に出ると、時折雪の上に倒れている兵士の姿が見えた。
口から唾や涎が出ているところを見るに、ジャスパーに薬で眠らされたわけではないだろう。
配下の山賊に当て身でも食らわされたのだと思う。
「親分、こっちっス!」
縛り上げた兵士を地面に転がして、通用門の前で配下の一人が俺を呼ぶ。
配下が兵士から聞き出した話によると、ジャスパーは「死体を城外へ運び出すよう命じられた」と言ってそりを引いてやって来たらしい。
死体という部分が気になるが、おそらくはそのそりにティナが載せられていたのだろう。
兵士から聞き出したという内容は、遺体は毛布で厳重に包まれていたとのことで、毛布の中身までは確認していないそうだ。
ティナはまだ生きている可能性がある。
南東へと向かう人影を見た。
ジャスパーのものらしい目撃情報は、これが最後だ。
ここでジャスパーを逃せば、ティナの捜索はまた振り出しへと戻る。
ジャン=ジャックから聞いたティナの容態によっては、ここで取り戻せなければ生きて二度と会えない可能性もあった。
あとはただ、南東に向かって走るだけである。
親分、と配下が俺を呼ぶ声が聞こえた。
が、その声音はただ俺を引き止めるためだけのものであったため、止まらずに足を動かす。
雪の避けられた街道は走りやすいが、足跡は残ってくれない。
ジャスパーがティナを連れて逃げたとして、追いかけるのなら今だ。
……こういう時は、オスカーが羨ましいな。
二本足で走るより、獣の四本足で走った方が早い。
走る速度が違うこともあるが、獣は人間と比べて鼻もいい。
すぐ立ち去ったばかりの人間であれば、においぐらい簡単に追えそうな気がした。
――ならば、私の足をお使いください。
我が王よ、と声が聞こえると同時に体が軽くなる。
気のせいか目線が低くなった気がするのだが、走る速度は格段に上がった。
――鼻も必要ならばお使いください。
王よ、と頭に直接響く声に、それが誰のものかと考える前に薬草の匂いを鼻が拾う。
ジャスパーの臭いなど意識して嗅いだことはないが、この薬草の香りを纏っている者がジャスパーだと確信した。
ジャスパーの纏った薬草の匂いに混ざって、かすかに花の香りがする。
……見つけたっ!
ジャスパーのにおいは判らないが、この花の香りは判る。
時折ティナの周囲で香った、エノメナの花の香りだ。
ティナをようやく見つけた、と走る速度を上げる。
いつの間にか後ろに続いていた配下たちの足音が聞こえなくなったが、構っている余裕はない。
街道を逸れて雪の残る森の中へと飛び込む。
横へと伸びる低木の枝が邪魔だったが、避ける必要はなかった。
――どうぞ、お通りください。
――兄弟たちよ、我等が王のお通りだ。
王よ、我等が王よ、とどこからともなく声が聞こえ、木々の枝が勝手に俺の体を避けていく。
俺はただ真っ直ぐに、ティナの匂いを追えばいい。
周囲で起こっている不可思議なことなど、ティナを失うことに比べれば些末なことだ。
考えることは、後でいい。
ティナを取り戻せるのは、今だけだ。
……狼にでもなった気分だ。
四肢を使って雪を蹴り、身を低くして森の中を駆け抜ける。
まるで狼のようではないかと気付いた途端に、理解した。
最初の声は、纏った黒狼の声だ。
四本の足を貸してくれたのも、人のにおいを嗅ぎ分ける鼻を貸してくれたのも、身に纏った黒狼の毛皮だった。
そんなはずはないのだが、そうとしか思えないのだから仕方がない。
……人間の臭いが増えた。
前方にティナとジャスパーの他に誰かいる。
そう気がつくのと同時に森を抜けた。
……いた。
ティナの匂いを追って最短距離を走ってきたせいか、ジャスパーと俺との間にいささかの高低差がある。
いつの間にか小高い丘を登っていたようだ。
下りた先にジャスパーの姿を見つけたのだが、その姿はつり橋の丁度中央付近にある。
どうやらつり橋を渡って崖を越えようとしていたようだ。
……ティナの匂いがする。
ジャスパーの引くそりには毛布の塊が載せられているのだが、それがティナだと確信する。
エノメナの花の香りは相変わらず漂っていたし、毛布に包まれているものの大きさも、ティナの身長に近い。
攫われた時のままの身長をしたティナだ。
……様子がおかしい。仲間じゃないのか?
つり橋の中央付近にいるジャスパーは、どうやらそこで立ち止まっているようだ。
視線の先には、複数の男たちがいる。
あの男たちがジャスパーの仲間であれば合流するだけのはずだが、ジャスパーは動く様子がない。
――来い。
なにか変だ。
ティナはすぐそこにいる。
ジャスパーからティナを取り戻すためには、手数が必要になるかもしれない。
配下たちは俺の足に追いつけなかった。
となると、俺の足に追いつけそうな存在は一匹しかない。
――来い、オスカー。ここにいるぞ。おまえの探しているティナは、ここにいる。
手を貸せ、と心の中で呼びかける。
普段であればなんの効果も望めない呼びかけではあったが、今はこれでいいと確信している。
この声は、必ず黒犬へと届く。
声が届けば、黒犬は必ずここへと駆けつけてくるはずだ。
黒犬の行動に、ジャン=ジャックが異変に気づいてこちらへと来るかもしれない。
……ティナを取り戻すには、ジャスパーのあとでつり橋の向こうの奴らもなんとかする必要がありそうだ。
内心で黒犬へと呼びかけながら、高低差のある丘を駆け下りる。
なにはともあれ、つり橋の向こうにいる男たちより先にティナを取り戻す。
それだけだ。
……手が欲しい。
今度は早く走るための獣の足よりも、ジャスパーを殴り倒す腕が欲しい。
ティナを奪い返すための腕が。
ティナの小さな体をしっかりと抱きしめるための両腕が必要だ。
――ならば存分に。
我等が王よ、と声が聞こえ、目線が元の高さに戻る。
気がつけば二本の足で走っていて、つり橋の上へとジャスパー目指して突撃していた。
「今度はなんだ……っ!?」
勢いに任せて踏み込んだつり橋が大きく揺れる。
その揺れに、背後から近づいてくる俺に気がついたジャスパーが驚いて振り返った。
ジャスパーが俺に、俺だと気がついたかどうかは判らない。
ジャスパーが何か言葉を吐き出すより早く、その頬へと俺の拳が吸い込まれていく。
手加減をしてやる気はないし、その必要もないだろう。
熊をも目を回した拳を受けたジャスパーは、そりを引いていた紐ごと後方へと吹き飛び、そりがつり橋の縄に引っかかった弾みで手が離れた。
一瞬ティナが橋から落ちてしまうのでは、と頭を過ぎるが、先ほどから続いている謎の確信がこれを否定する。
俺が上にいる限り、このつり橋は多少の衝撃では落ちない。
俺が迎えに来たティナは、俺の元へと戻るべきである。
俺の元へと戻るティナは、俺と同じくつり橋から落ちない。
そんな謎の自信が湧いてくる。
事実、ティナを載せたそりはジャスパーに引っ張られてつり橋の上を滑ったが、ジャスパーがつり橋から落ちてもそりは落ちなかった。
「……ティナ」
つり橋の先にいる男たちを無視し、先にそりに載せられた毛布の塊を確認する。
そりへと固定されていた縄を解くと、毛布を少し開くことができた。
中に包まれていたのは、やはりティナだ。
濡れた髪を頬に貼り付けて、微かな寝息を立てている。
おそらくは、ジャスパーに薬で眠らされているのだろう。
「遅くなって悪かった、ティナ。迎えに来たぞ」
一緒に帰ろう、と言って濡れた髪を払ってやる。
そんなはずはないのだが、わずかにティナの口元が綻んだ気がした。
時々思いだしたように出てくるファンタジー要素。
誤字脱字はまた後日。




