ムスタイン薬 1
ウルリヒについては、証拠不十分ということになった。
たしかに、怪しい人物であるという先入観を除けば、彼はただ離宮の敷地へ入るぎりぎりの場所で、ポケットの中に黒頭巾を潜ませていただけなので仕方がない。
自作自演の事件を起こすつもりなのでは? というのは、あくまでレベッカの見立てでしかなく、十分な証拠がなかったからだ。
ウルリヒもそれを理解していてか、なぜ黒頭巾を持っていたかについては決して口を開かなかったという。
根性などないだろう白騎士なら、尋問一つで簡単に口を割るだろう、というのはウルリーカの提案だったが、それはさすがに止めた。
容疑者ですらない人間に尋問なんてことをしたら、ベルトランと同じ人種になってしまう。
ジャン=ジャックに尋問を行ったベルトランに、言葉で話し合えと言った私が、同じ尋問を認めるわけにはいかない。
……現行犯逮捕だったら、遠慮はしないけどね。
今はまだ、何に使うのか怪しすぎる黒頭巾をポケットへと忍ばせた不審者というだけだ。
これに尋問で自白を強要しては、白いものも黒になってしまう。
……まあ、自分が言ったことは全部認めてくれたから、当分は牢から出られないだろうけど。
黒頭巾の使用方法と離宮周辺をうろついていたぐらいでは罪でもなんでもないが、フェリシアが私への罵倒を功爵の娘への侮辱ではなく、離宮の主への侮辱と変換した。
離宮の主は、本来は王女や王子である。
その離宮を賜った私は、王族と同等かそれ以上に扱われる、とフェリシアが言い始め、ウルリヒは王族への侮辱罪で白銀の騎士預かりの身となった。
こうなってしまえば私が口を挟める話ではなくなってくるので、尋問はやめてあげてほしい、という希望もどうなるかはわからない。
ついでに言えば、私が気にする話でもなかった。
……本当に後ろ暗いことがなかったら、そのうち開放されるでしょう。
後ろ暗いことがない身には思えなかったので、もう二度と会うこともない気がする。
少しだけ妻子が可哀想な気はしたが、レオナルドよりウルリヒを選んだ己の見る目のなさを後悔すればいいのだ。
……で、バルバラさんへの招待状はこれでよし、と。
調薬への協力は取り付けたので、バルバラへ離宮への招待状を書く。
今回の招待状は友人を招待という形ではなく、仕事関係の召集ということで、扱いは商人を呼ぶ時に似ている。
仕事で人を呼ぶ時には、この日時にこういった人物が離宮を訪ねてくる予定なので、離宮へ案内してください、という門番への知らせも必要になるのだが、これは侍女や使用人の仕事だ。
「……さすがは王城の離宮。貴族街の屋敷よりも調度品が多くて、少し落ち着きません」
「これでもグルノールの館に似せて整えてくれたらしいのですけどね」
王城内の建物ではあるが、離宮の調度品はグルノールの館の物に似せてある。
質は最高級品なのだが、フェリシアが使っている客間と比べれば私の生活空間の調度品はおとなしい方だ。
私のお客様として離宮に招待したバルバラは、当然私の生活空間にある応接室へと案内された。
落ち着かないとバルバラが称する調度品は、王城の調度品としては少ない方なのだ。
「離宮が落ち着かないのなら、離れへ移動しますか?」
「離れまであるのですか」
「離宮に比べてこぢんまりとした離れが庭にあります」
ただし、離れの中央は全面ガラス張りで、レオナルドが全裸で壷を抱えた噴水がある。
レオナルドの全裸は気になるかもしれないが、結局はただの彫像だ。
バルバラも、一度見ればあとは気にならないだろう。
「離れとは、生垣の向こうにある建物のことですか?」
「その建物ですが、何か問題がありましたか?」
バルバラが落ち着かないのなら場所を移そう、と提案してみたのだが、アーロンがこれに難しい顔をする。
離宮と離れであれば家具の格は確かに離れの方が落ちるだろうが、あの建物はもともと第八王女が使っていたものだ。
故意にグルノールの館に寄せた離宮の家具よりは、逆に格が上だろう、と。
離宮の調度品で落ち着かないのなら、離れの調度品で落ち着けるわけがない、ということだった。
「では、どうしましょうか? 実際に調薬作業を行うにあたっては、バルバラさんの他にもセドヴァラ教会から人が来ることになっていますし、その人たちも当然居心地が悪い……はずですよね」
正直、囲まれた家具が高価すぎて、何かの弾みで傷でもつけてしまっては一大事だと考えて落ち着かない気持ちは判る。
私も似たようなことを考えて、グルノールの自室はなかなか使えなかった。
屋根裏部屋にあった、少し古ぼけたぐらいの家具が使いやすかったのは、そのためでもある。
「いっそ内街のどこかに家を借りて、そこで作業をしてみますか?」
家賃に関しては、秘術を復活させる際の費用を出してくれることになっているアルフレッドたちに相談をする必要があるが、なんだったら私が金貨五千枚から出すという方法もあるので気にしなくていい。
私があまり知らない人間に囲まれたくないと思うのと同じように、バルバラたちが『居心地が悪い』と落ち着かないのなら、離宮での作業は避けたかった。
「内街に作業場を移すことは、警備の面から反対です」
今はグルノールの街から白銀の騎士が戻ってきて、多少警備の人数が増やされたが、私と聖人ユウタ・ヒラガの研究資料の警備としては、まだ人数が足りないらしい。
実力に不安があっても、たまに害を運んでくる者が混ざっていても、白騎士の警備を外せないのはそのためだ。
「それならば、我が家の離れを提供しよう」
そう言い出したのは、研究資料と共にグルノールの街から戻ってきたジークヴァルトだった。
ジークヴァルトは白銀の騎士の副団長を勤めているのだが、研究資料が戻ってきてからというもの、私と研究資料の警備として離宮に詰めてくれている。
「我が家であれば貴族街にあり、内街よりも警備が厳重だ。離れともなれば、調度品についても気にしなくていいだろう」
グルノールの城主の館では、離れはタビサたち使用人の家として使っていた。
オレリアの家の離れは弟子たちの居住スペースで、ラガレットのジェミヤン本宅の離れにはバシリアが住んでいた。
離れと一言でいっても家庭ごとに使い方は違うのだが、ジークヴァルトの家では子ども部屋として使われていたらしい。
今は子ども部屋を使うような年齢の子はおらず、使っていないとのことだった。
「ジークヴァルト様の館となると貴族のお屋敷ということになりますが……バルバラさんは大丈夫ですか?」
「薬師は貴族の館へ呼ばれることもございますので、貴族街でしたら大丈夫です」
「それでは、ジークヴァルト様のお言葉に甘えさせていただきましょう」
ジークヴァルトの館であれば、白銀の騎士の出入りも多い。
そういった意味でも、普通の館より警備面で心強かった。
しばらく使っていなかったという離れの掃除はジークヴァルトの家の使用人がしてくれることになり、機材を運び込む作業はセドヴァラ教会の人間が行なう。
私も手伝いたかったのだが、十一歳の子どもが安全に運べる機材など少ないようで、邪魔になるので呼ぶまで来るな、と言われてしまった。
仕方がないので私にできることをしよう、と場所を提供してくれたジークヴァルトと、夫の提案を快く受け入れてくれたミカエラの元へと顔を出す。
「このたびは、わたくしの不躾な願いを叶えてくださり、ありがとうございました」
前回のお茶会の暴走から、ヘルミーネに仕込み直された淑女の礼をして、ミカエラに感謝を伝える。
今日は私の暴走の引き金になる要因はないので、きちんと淑女らしい挨拶ができた。
「夫の決めたことを支えるのは妻である私の役目です。私どもでは場所の提供ぐらいしかできませんが、ティナさんは大変なお役目を任されているのでしょう。他になにか入用なものがございましたら、遠慮なく申し付けてください」
「ありがとうございます、ミカエラ様。ジーク様は本当に素敵な奥様をお持ちですね」
「自慢の女神であるからな」
いいお嫁さんですね、と軽く茶化したつもりなのだが、ジークヴァルトは真顔でこれを受け止める。
そのまま自分の嫁自慢に話が移り、息子の話に移り、他の兄弟の話に移りとジークヴァルトの家族は多く、円満な家庭でもあった。
……そういえば、騎士としてじゃないジーク様とお話しするのって、二回目ぐらい?
グルノールの館にはジャスパーと同じく一年以上滞在していたが、ジークヴァルトが私と個人的な話しをしたことなど、昨年の夏にレオナルドと大喧嘩をした時だけだ。
騎士として聖人ユウタ・ヒラガの研究資料の警護をしていたジークヴァルトは、二十四時間常に騎士として気を抜かなかった。
私人として、家人として語るジークヴァルトは、厳しい一人の騎士というよりも、良いお父さんという印象が強い。
一度はレオナルドを養子にという話も出ていたそうなので、成立していればレオナルドの良い父親になってくれていただろう。
……ウルリヒがトドメを刺したせいで、レオナルドさんが人間不信になっちゃって、養子の話も断ったみたいなんだけどね。
そう考えてみると、ウルリヒさえいなければジークヴァルトは私の養父だった可能性もある。
否、王都に嫌気が差したレオナルドがグルノールの街へと来なければ、私はメイユ村で死んでいたので、それはない。
これ以上無駄にウルリヒを逆恨みするのはやめよう、と頭の片隅へとウルリヒの存在を追いやると、掃除と機材の搬入が終わった、とカリーサが教えに来てくれた。
秘術に関わることなので、とミカエラの同席はお断りする。
そのかわり、ジークヴァルトは家主であるし、私と研究資料自体の警護もしているし、ということで離れへと持ち込まれた機材やムスタイン薬の材料を一緒に確認した。
「……あれ? この青い砂粒……えっと、瑠璃の星砂? 研究資料にある形状と違うような……?」
材料としての名前は『瑠璃の星砂』だが、別に瑠璃でもなんでもない。
瑠璃色の砂粒なのだが、どう見ても瓶に詰められた『瑠璃の星砂』は砂というより小石を荒く砕いた欠片といった形状をしている。
とてもではなないが『砂』と呼ぶには無理のある大きさをしていた。
「調薬時の手抜き作業は、バルバラさんが王都で直させていましたよね?」
「この瑠璃の星砂は西支部で用意した物のようです。いつの頃から始まった手抜き作業はたしかに叩き直しているところですが……私の在籍している中央支部でも、なかなか徹底はできていません」
一度手抜きを覚えてしまえば、元の水準に戻すことは難しい、とバルバラは肩を竦める。
想像でしかないのだが、これらの細かい作業はオレリアの下から多くの弟子が逃げ出すことになった要因の一部になっているはずだ。
つまり、これらの作業の徹底は、秘術を復活させる上で避けては通れない課題となる。
「……オレリアさんが亡くなって、まだ一年も経っていませんからね。徹底し直すには、もう少し時間がかかるでしょう」
どのぐらいの時間をかけて失われてきた技術なのかはわからないが、手を抜くにしたってそれなりの年月はかかっているはずだ。
それを元に戻そうというのだから、これにだって時間はかかるだろう。
「いっそ、素材を材料に変えるところから復活させて、秘術を調薬する際に徹底させましょうか」
今の緩んでしまった基準を引き上げるのではなく、秘術に使う物はこの水準でなければならない、と今から徹底するのだ。
今から復活させようという秘術に対し、今から材料の精度を徹底させておくのであれば、落ちた水準を引き上げるよりは簡単かもしれない。
「それは良い案かもしれませんね。セドヴァラ教会からは、熟練の薬師と若手の薬師を二名ずつ借りられることになっています」
まずはその四人に材料作りから徹底して繊細な作業を叩き込みましょう、とバルバラは良い顔で笑った。
セドヴァラ教会で指導を行なうことには、少なからず思うことがあったのだろう。
「四人ですか……。その四人に、ちゃんと話は?」
「もちろんしてあります。オレリアの弟子になるのと同様の条件で志願者を募り、王都の各支部から一名ずつ選びました」
オレリアの弟子と同じ条件というのは、途中で逃げ出すことを許さない、ということだ。
これから復活させる予定の秘術は、人の命を救う薬になるが、製法を少し間違えるだけで毒にも変わるものだ。
素材を材料に整える段階で手抜きを覚えた今の薬師たちに、処方箋が判明したからはいどうぞ、と渡すことはできない。
半端に作り方を外へと持ち出されてしまっても困るので、挫折者はワイヤック谷と同じ運命を辿ることになる。
「あまり、人は増やしたくありませんね」
理想を言えば、私一人で作業ができればよかった。
しかし、いくら日記のように詳細に書かれた処方箋があるとはいえ、素人である私に調薬作業などできるはずもない。
手の抜かれた材料で作られた薬と、素人が調薬した薬。
どちらも同じぐらい危険なものだ。
「初めから条件を提示しての志願でしたので、クリスティーナ様が万が一を気にする必要はございません。挫折をして逃げ出しても、それは彼らの責任です」
人手を増やさないことを考えるより、脱走者を出さない方法を考えましょう、とバルバラは言う。
説明や言葉が足りず、かつての自分のように拗ねる者は必ず出る、と。
せっかく秘術を一から復活させるのだ。
言葉も説明も、一つずつ積み重ねていけばいい、と。
「……そうですね。今から心配していても始まりません。脱走しようとする人が出たら、オスカーとコクまろに捕まえさせて、縄で縛って連れ戻せばいいんです」
まずは素材を材料にするところから始めよう、と瑠璃の星砂モドキの入った瓶をテーブルに置く。
この小石の欠片にしか見えない『星砂』を砂にするために必要なのは、乳鉢や薬研だ。
材料作りなら、少しだけオレリアの手伝いをしたことがあるので、私にもできる。
……薬研、懐かしいなぁ。
ワイヤック谷での日々を懐かしく思いだしながら、自分が使うために作った写本へと手を伸ばす。
瑠璃の星砂について書かれたページを開き、砂粒サイズに砕くという記載を確認してから、改めて瑠璃の星砂が詰められた瓶へと手を伸ばした。
時間切れ。今日はここまで。
誤字脱字はまた後日。




