ドッグ・フォ・グニック
エルポエプ・ネソホック・スドッグ・フォ・グニック・エフト。
口から自然に出てきた言葉だが、私には覚えのない単語だ。
だが、目の前のレミヒオにはすぐに意味が解ったらしい。
私に対して膝をついていたレミヒオは、一歩後ろへ下がると、今度はその場に正座して深々と頭を下げた。
……なんで突然土下座!?
額を床に押し付ける勢いで、猛烈に拝まれている。
一見すると穏やかそうな青年だったのだが、少し怖い。
私には意味の解らない言葉だったが、レミヒオにはここまでの奇行をとらせる言葉だったのだろう。
「レミヒオ様? どうかしましたか?」
……できればその土下座を早めにやめてください。
成人男性が自分に向かって土下座をしている眺めなど、いたたまれなさ過ぎて、穴があったら埋めたい。
せめて顔だけでもあげてくれると助かるのだが、レミヒオは土下座で固まったままだ。
「ティナ、古代語なんて、どこで覚えてきた?」
「古代語?」
レミヒオの行動にうろたえていると、レオナルドが場を和ませようとしたのか、横から話しかけてくる。
古代語と言われても、私にはなんのことか判らなかった。
「エルポエプ・ネソホック・スドッグ・フォ・グニック・エフトと言っていただろ?」
「口からするっと出てきました。えっと、エルポエ……ホ……?」
もう一度言ってみようと思ったのだが、舌が上手く回らない。
何度か試すが、結果は変わらなかった。
スラスラと発音できたのは、最初の一回だけだ。
「エルポエプ・ネソホック・スドッグ・フォ・グニック・エフト、です。神王の寵愛を受けし聖女よ」
……うわぁ。なんだかまた面倒そうな呼び方に進化しちゃった。
ニルスという身近に一人、同じ呼ばれ方をする人間がいるので『精霊の寵児』と呼ばれることにはそれほど抵抗がないが、『神王の寵愛を受けし聖女』となると、同じ呼ばれ方をしている知人はいない。
少しどころではなく気恥ずかしい呼び名だ。
レオナルドとのやりとりで、それほど畏まることはない、と判断してくれたのか、正しく発音できない私に黙っていることができなくなったのか、ようやくレミヒオが顔をあげてくれた。
それはいいのだが、この歓迎しづらい呼び方はなんとかならないものだろうか。
胡散臭くて逃げ出したい気がヒシヒシとしているのだが、レミヒオがいるのが退路のある方向になるので走って逃げることは不可能だった。
……うん? 『神王の寵愛を受けし』ってことは?
「あの男の人は、エルポエプ・ネソ……?」
「エルポエプ・ネソホック・スドッグ・フォ・グニック・エフト。難しいようでしたら、ドッグ・フォ・グニックと」
「ドッグ・フォ・グニック……あ、言えました。えっと、ドッグ・フォ・グニックは神王様、なんですか?」
突然『神王の寵愛を受けし聖女』だなどと仰々しい呼び方をされてしまえば、さすがにそうなのだろう、と想像することぐらいはできる。
当たっていないとしても、それほど見当違いな理解ではないはずだ。
「エルポエプ・ネソホック・スドッグ・フォ・グニック・エフトは古い言葉で『神の選んだ人々の王』という意味です。少し簡単に直すとドッグ・フォ・グニック。今の言葉では『神王』になります」
「あの人、神王様だったんですね……」
すごい人に会ってしまった。
相手は追想祭の事件を最後に、歴史から姿を消してしまった古の王だ。
これは確かに、神王に逢った聖女、とありがたがられるのも無理はないかもしれない。
私自身になにかありがたい効果や凄い能力があるわけではないが。
「えっと……まずは神王様からの伝言を果たさせていただいてもいいですか?」
顔はあげたが、いまだ床へと正座しているレミヒオに席を勧める。
私はあの男こと、神王から頼まれごとをしていて、先にご褒美まで貰ってしまっているのだ。
いつまでも役割を果たせずにいるのは、なんだか落ち着かない。
聖女と同じ席に着くなど恐れ多い、と遠慮するレミヒオを、半ば強引に椅子へと座らせる。
いつまでも立っていられては、私の方がいたたまれないのだ。
「では、神王様からの頼まれごとです。黒髪で左右の目の色が違う男に玉子サンドとジュースを渡してくれ、とおっしゃられていたので、受け取ってください」
「……謹んで頂戴いたします」
ジュースはすっかりぬるくなってしまっていたが、これも神王の指定したものだ。
今から新しく用意するわけにもいかない。
「しかし、なぜ玉子サンドなのですか?」
「え? わかりません。気に入った……んですかね?」
「気に入った……?」
レミヒオの関心は目の前に出された玉子サンドではなく、なぜ玉子サンドなのか、という事柄へと向けられているようだ。
なぜ玉子サンドなのかと問われても、私にだって理解はできていなかったので、思いだせる限りで神王の様子を語る。
女性を探しているようだった。
お腹が空いていたようだったので、玉子サンドを出した。
それを食べ終わった神王が、玉子サンドをこれから来る男に渡せと言った。
……なにか加護っぽいのを貰ったことは、黙ってよ。
神王と会った、というだけで聖女だなどと呼ばれるのだ。
祝福まで受けたと知られれば、どう扱われるのかは判らない。
「……なるほど、理解できました」
「え? どこの説明でなにがですか?」
神王が確かに玉子サンドを食べ終わったはずなのに、なぜか玉子サンドが残っていた。
そんな話の終わりに、ようやくレミヒオは理解の色を見せて安堵の溜息を吐く。
「まずは、玉子が痛む前に収めるべき場所へ収めたいと思うのですが」
よろしいでしょうか、と確認されて、乗り出していた体を戻す。
レミヒオに玉子サンドとジュースを渡すまでが、私が神王から頼まれたことだ。
そのお腹へと収まるのを邪魔するのは、本意ではない。
「……美味しいですか?」
神王は少し奇妙な物言いをしていた気がする。
それに、一度は神王の腹に入って消えたはずの玉子サンドだ。
不思議な出来事が起こるこの世界において、元と同じ美味しい玉子サンドと考えるには少しだけ心配があった。
「神王はいまや肉の体を持たぬ存在ですから。物を食べるといっても、我々のそれとは違うものなのでしょう」
「肉の体がない?」
「精霊と同じ世界におられますからね。神王は人間ですが、普通であればとうに肉体など朽ち果てる悠久の時間を彷徨われています」
人間としての肉体など、とうに失われているだろう、とレミヒオは言う。
玉子サンドを収める物理的な胃など、今の神王にはないのだと。
「私に玉子サンドを、とおっしゃったのは、物体としての玉子サンドの処理を考えてのことでしょうね。今の神王がお召し上がりになったものは、形は残っていますが、純粋に食べ物とは言いがたいものになっています」
「食べ物とは言いがたいって……」
食べろと言って出したのは自分だったが、そんなものを食べさせても本当によかったのだろうか。
急に心配になってレミヒオを見上げると、レミヒオは少しだけ困ったように微笑んだ。
その顔には見覚えがある。
……あ、思いだした。神王祭の時にあった男の人に似てるんだ。
髪の色が黒いこともあるが、左右の目の色が違うというところも共通点だ。
あの時の男性は蒼い目の逆は赤だったが、仕草や雰囲気がレミヒオと似ている。
人がよさそうで、きっとニルスが大人になったらこんな感じになるのだろうな、と思える青年だ。
「えっと、……よろしければ、食べてみますか?」
心配になってジッと見上げている私に、レミヒオは戸惑いながらもこう提案してくれた。
少しだけ怖い気がしたが、自分が他人様に出した物なのだし、その味の確認はしたい、と自身を奮い立たせてパンを一欠片ちぎって貰う。
恐るおそる口へと入れたパンの味は、なんとも奇妙なものだった。
「……味がしません」
噛んだ感じは間違いなくパンなのだが、パンの味がしない。
不味くはないのだが、どちらかと言えば味そのものがなかった。
砂を食べているような気分、という言葉をどこかで聞いたことがあるが、きっと砂の方が味はする。
間違いなくパンを食べているという食感はあるのだが、口の中で味のしない何かを弄んでいる気分になってきた。
とにかく味ではなく、違和感で気持ちが悪い。
……私、こんなモノを待ち構えていて初対面の人に食べさせちゃったのか……っ!
いくらなんでも酷すぎる。
嫌がらせと受け取られても仕方がない所業だ。
……そして、神王様が他の人に食べさせたら気の毒、って言った意味もわかった。
神王は自分の食べたものが味のまるでしないものに変質することを、知っていたのだろう。
知っていて、人物を指定して食べさせたのだ。
……神王様、お茶目な人なのか、嫌がらせか、悪戯か、どれ!?
口直しの飲み物をカリーサに準備してもらいつつ、レミヒオが無味の玉子サンドを食べるのを見守る。
レミヒオは最初から覚悟ができていたのか、私のように違和感しかない玉子サンドの味を顔には出さず、黙々とこれを咀嚼した。
「話は変わりますが、聖女よ」
「聖女じゃありませんよ、ティナです」
ごちそうさまでした、と食後に食材へと感謝をする習慣はこの世界にもある。
食材への感謝を捧げたレミヒオが食後にまた『聖女』と呼び始めたので、即座にこれを訂正した。
「では、聖女ティナ。よろしければ、我が神王国クエビアへいらっしゃいませんか?」
……は?
予期せぬ誘いに、思わず瞬く。
脳がゆっくりとレミヒオの言葉を理解すると、無意識に首が傾げられた。
「……それは旅行ですか?」
「いいえ、永住です。できれば聖女ティナには神域にある神王廟へ、数百年ぶりに神王と言葉を交わした巫女として仕えていただきたい」
良い話か悪い話かは別として、これは働き口の斡旋と受け取るべきだろうか。
判断に困って近くに控えているレオナルドへと視線を向けると、鬼のような形相で憮然とレミヒオを見つめていた。
反対なのはひと目で判るのだが、なにも言ってこないというのが少し不気味だ。
……なにも言ってこない、って言うよりは、なにも言えないって感じ?
直感でしかないが、そう思った。
よく考えてみれば導師アンナが巡礼者と言って紹介してきたレミヒオは、アンナに『レミヒオ様』と呼ばれている。
砦の街で、その砦の主であるレオナルドに対してアンナは『レオナルド殿』と呼んでいるのに、だ。
……旅装束が薄汚れてるけど、なんかまた面倒な身分の人?
可能性に気がついてしまえば、私の答えは簡単に出た。
「引越しは嫌です。行きません」
さて、レミヒオはどう出るだろうか。
これがエセルバートやアルフレッドであればあの手この手と言葉を変えてきて、なかなか引き下がりはしないだろう。
どんな説得にも応じないぞ、とお腹に力を入れつつ、傍に立つレオナルドの服を掴む。
たっぷりと胡散臭い者を見る目でレミヒオを見てやると、私に警戒されたと解ったのだろう。
レミヒオは意外な程あっけなく引いてくれた。
「……では、なにか困ったことが起こりましたら、いつでも神王国へご連絡ください。我が国はいついかなる時でも、神王の寵愛を受けし聖女のお力になりましょう」
望外な収穫があった、とレミヒオは何度も礼を言って去っていった。
巡礼の旅の途中、たまたま追想祭の季節であったため、新しく精霊の寵児が見出されたというグルノールの街へ立ち寄ったらしい。
本来は少し挨拶をして、私に精霊との付き合い方を教えてくれるだけの予定だったのだとか。
……精霊との付き合い方どころか、就職口を紹介されたけどね?
レミヒオとアンナが去ったあと、レオナルドは難しい顔をして私の頭頂部を見る。
しばらく悩んで口を開いたかと思ったら、出てきた言葉は獣の仮装をしよう、という季節をまるっと無視したものだった。
「別に、精霊に攫われたわけじゃないですよ?」
レオナルドがこんなことを言い始めたのは、私だけが神王に逢ったからだろう。
この場にはカリーサもニルスもいたというのに、神王に逢っているのは私だけだ。
ここにいたのに、ここにはいない者と知らないうちに交流を持っているのだ。
保護者としては心配になるのかもしれない。
「精霊以外でも、ティナは俺がよく解らないうちにおかしな方向からどんどんコネを作ってくるから、心配だ」
いっそ館に閉じ込めておきたい、と言ったのは半分以上本気だと思う。
ぐらんぐらんっと私の頭を撫でたと思ったら、頭を胸元へと抱きこまれた。
「あのレミヒオ様って、どこのどなただったんですか?」
暑い、とレオナルドの胸に手をついて体を引き離す。
体温の高いレオナルドの胸からは開放されたが、私の腕の長さ分だけしか離れていないので、それほど距離はない。
「ただの巡礼者だったら、お仕事中の精霊の寵児のトコになんて、案内しませんよね?」
「知らない方がいい人だ」
「最近そういう出会いが多いですねー」
エセルバートとラガレットで出会った時にも思ったことだ。
結局あの時は身分を隠すことの意味を考えもしないディートフリートによって、エセルバートが前国王陛下である、と知ってしまったのだが。
「ところでレオナルドさん」
「レオでいいぞ」
さっきはそう呼んだだろう、と指摘されて少し恥かしい。
故意に『レオナルドさん』と呼んでいるのだが、うろたえた時などはまだつい『レオ』と呼んでしまう。
「レオナルドさんは、そろそろ館に帰って休まなくていいんですか?」
今夜は祭祀のお仕事がありますよね、と指摘したのだが、レオナルドは帰る素振りを見せない。
夜の祭祀は着替え用の天幕で衣装に着替えるし、場所は目の前の広場だし、と様々な理由を並べて、精霊の寵児用に作られた席へ居座ることを決めたようだ。
……さすがに、今日はもうこれ以上変なコネは作らないと思いますよ?
むしろ、神話の王以上のコネなど、作りようがないだろう。
神王はこの世界で最上位の存在だ。
それより上となると、あとは神しか存在しない。
終わらなかった、ので明日は短めだと思います。
ちなみに、設定上セークとナパジは古代語です。
誤字脱字はまた後日。
誤字脱字、みつけたものは修正しました。




