日常にある一つの小話
よろしくお願いします。
「イチロー、後ろ後ろ!」
え、後ろ? と思っている暇もなく高く飛んだ軟球を見上げながら後ろに下がっているイチロウ。
投手の男は大きな声でイチロウに伝えているが、残念ながら耳に届いていない様子だった。
左手に填めているグラブを少し上に翳して捕球の構えをしているが、後ろを全く気にしていない。
「ちょ、ちょっとキミ! 危ないってば!」
イチロウの後ろから投手と同じように注意をしている一眼レフを持った女性がいる。
ようやく気付いたのか、イチロウは捕球したのと同時に後ろを振り返った。
顔面から野球場のフェンスに激突。
右手で鼻を押さえながら、イチロウは尻餅をつく。
「イチロー!」
真っ先に走り出したのは投手。
イチロウの名前を叫びながら他の外野手を差し置いて駆け寄っていく。
「キミ、大丈夫!?」
フェンス越しに女性が声をかけると、イチロウは苦笑いを浮かべていた。
「うん、ありがとう」
「大丈夫か!?」
爽やかなイケメン投手はイチロウの顔をジッと見る。
「鼻血は出てないな、ボールも大事だけど後ろにも注意しないと危ないだろ」
「ごめんごめん、ほら、ボールはちゃんとあるから。ね、ケンシン」
しっかりとグラブの中に入っている軟球をケンシンに見せる。
呆れながらも微笑んだケンシンはフェンス越しにいる女性に、
「すいません、怪我はなかったですか……ってアナタは」
「あ、龍田さん、いつもお世話になっております」
面識があったのか二人は深々と会釈をして間にいるイチロウは目が点になってしまう。
色々あったが無事練習試合は終了、結果は散々だった。
「まぁ楽しくやるのがモットーだから勝敗なんて気にしなくていいよ」
ケンシンは落ち込んでいるイチロウの肩に手を置いて励ましている。
「ごめん、全打席三振だなんて」
謝罪に対してケンシンは爽やかに首を横に振り、イチロウの肩を二回軽く叩く。
「まだ昼だし、今日は帰ってゆっくり休もう、な」
「うん、そういえばさっきの人と知り合い?」
気になったのかイチロウはケンシンに女性のことを訊ねた。
「ああ、会社の関係でね。まさか惚れたとか?」
イチロウは首を傾げる。
その反応にケンシンは口角を上げて首を横に振った。
「なにも、冗談だよ」
ユニフォームのまま用具一式を大きめのカバンに入れて肩に下げ、イチロウは堤防を歩いて帰る。
「キミ!」
背中をポンと叩かれて目を丸くしたイチロウ。
次に横から顔を出した先ほどの女性が優しい笑顔でイチロウの隣に並んだ。
「さっきの人」
「私、アキラっていうの。キミはイチロー君でいいのかな?」
「はい」
あまりしゃべり慣れていないのかイチロウは俯いて返事をする。
「さっきのは凄かったねぇ、今見ると顔とか大丈夫そうだけど、痛くない?」
「はい、大丈夫です」
イチロウは一度もアキラと目を合わせようとしない。
その様子を横から眺めるアキラはにんまり笑顔を浮かべていた。
デジタル一眼レフカメラを鞄から取り出し、
「私、写真を撮るのが趣味なんです。もし迷惑じゃなかったら今度の試合でも撮ってもいいですか? キミのこと」
敬語でイチロウに訊ねる。
イチロウは時々アキラの表情を覗いて、俯いたまま頷く。
「ありがとう! 私も帰るから一緒に歩いてもいいかな?」
「は、はい」
積極的なアキラに戸惑うイチロウは途中まで一緒に帰るという難易度の高い状況に脳がフル回転。
女性と会話なんてしたことない、内容も思い浮かばない、イチロウの頭は真っ白になっている。
堤防を曲がっても、大きな道に出てもアキラと帰り道が別々になることはない。
「イチロー君ってもしかしてこの先のマンションに住んでますか?」
アキラは十階建てのマンションを指した。
「はい……あの、もしかしてアキラさんも」
「このマンションの一階に住んでますよ、私」
イチロウは口を半開きにマンションとアキラを交互に映す。
そんなイチロウをよそにアキラは笑顔でマンションの前にある小さな公園へ。
木製のベンチに座るとイチロウに向かって手招きをしている。
アキラの手招きに従ったイチロウは少し間を空けてベンチに腰かけた。
「ところでイチロー君」
キリッとした表情のアキラに改めて名前を呼ばれ、イチロウは目を丸くさせる。
「はい、な、なんですか」
「今売り出し中の新人アイドルのハルちゃんを知っていますか?」
頭に思い浮かぶのはアイドル衣装を着た黒髪を肩まで伸ばした十代の少女。
「はい、テレビで」
「とっても可愛くて良いと思わない? 絶対これから売れると私は思っているんだけど、キミはどう思う?」
「ボクも、そう思います」
顔の近くまで迫られ、イチロウは目を合わせず同意する。
「でしょ、彼女はこれからどんどん活躍していかなきゃいけないし、可愛いイメージを出す為にはスキャンダルとかそういうのは絶対駄目。それだけはなんとしてでも」
新人アイドルについて熱弁をしているアキラに呆然とするイチロウ。
それに気づいたアキラは苦笑いを浮かべて一度離れる。
「っとごめんなさい、ついつい熱くなっちゃった。私、彼女の追っかけだから」
「そうなんですか、実は、ボクも」
照れくさそうに呟くと、アキラは目を細めている。
「へぇ、イチロー君も」
「でも、グッズとか集めてないし、テレビで観る程度だから、その少しは何かをしようかなって感じで。いつも何をしても中途半端だからあれだけど」
髪を掻いたイチロウは体を縮めていく。
「それでもにファンなってくれたんだから、きっと喜ぶと思うよ」
一眼レフを両手に抱きしめたアキラは優しい口調でイチロウに言う。
嬉しそうに微笑むアキラの表情がイチロウの視界に映り、自然と笑みが零れてくる。
「それでイチロー君!」
「は、はい」
アキラが距離を詰めて密着するほど近くに顔を寄せてきて、イチロウはまた驚いてしまう。
「これから暇かな?」
衣服からふわりと香り、女性の良い匂いというものがイチロウの鼻孔を膨らませる。
「えっと、まぁそうですね」
「それじゃあちょっとハルちゃんへの愛を語り合いましょう、キミの部屋で」
時が止まったような気がした。
イチロウは口から泡でも出すのではないかというほど唖然としていて、アキラの発言が頭を巡る。
「ということでお邪魔します!」
気付けばマンションの五階、イチロウの部屋の前に到着し、アキラが特に意味のない敬礼をして扉を開けようとしていた。
断り方も知らないイチロウは落ち着かないまま女性が部屋に入るという状況に困惑。
「イチロー君はどういうお仕事をしていますか?」
リビングで立ち止まったアキラの質問にハッとしたイチロウ。
「あえっと、お酒関係の仕事を」
「お酒……ってことはお酒について詳しいということね」
目を輝かせているアキラに小さく頷いたイチロウは冷蔵庫から瓶ビールを取り出した。
「黄金色の蓋とラベル、外国のビール?」
高級感が漂う中瓶は、中も黄金に輝いている。
「外国のビールを中心に販売しています。これは、ビール大国で有名なやつです」
「へぇ飲みたいかも」
冷蔵庫には同じ瓶ビールが大量に入っている。
まだあることを確認したイチロウは栓抜きで蓋を取るとグラスに最初は泡を立てるようにビールを注ぎ、次にゆっくりと注いでいく。
麦とホップが黄金に輝き、真っ白な泡が溢れる。
アキラは嬉しそうに注がれたビールを眺めていた。
「お酒とか、好きなんですか?」
「大好き! ハルちゃんの次に!」
間髪入れずに強く答えられたことでイチロウは一歩後ろに下がってしまう。
「は、はぁ」
座ってもらったほうがいいのだろうか、いや、飲むのだから座る必要がある、とイチロウは言ったことのない言葉が出せずに喉を詰まらす。
「とりあえずイチロー君、座ってもいいかな」
「はい、どうぞ」
先に言われてしまったイチロウは戸惑いつつカーペットが敷かれた床に座る。
座る前にとアキラはビールが入ったグラスを二つ、両手に持ってローテーブルに置く。
「あ、すいません」
にやりと笑顔を浮かべるアキラはイチロウの謝罪など聞いていない様子。
飲むことしか考えていない、それだけはイチロウにも分かる。
「それじゃあイチロー君、かんぱーい!」
主導権はアキラにある、イチロウはそう思いながらも乾杯と呟き、ぎこちない笑顔をしながらグラスを鳴らす。
最初のうちはハルについて語っていたアキラだったが、何本目か中瓶を空にした頃、アキラの顔は真っ赤に染まっていた。
「どうしよう……凄い飲んでいる」
イチロウはまだ一本しか飲んでいない。
高笑いをしているわけでも泣いているわけでもなく、アキラはニコニコとグラスを握りしめている。
「あのぉ」
「なぁにぃ?」
「だい、だ、大丈夫ですか?」
慣れていない言葉を詰まらせながら声を出す。
ローテーブルを挟んで対面していたイチロウは側へと寄ってアキラに声をかけるが、まともな返答はない。
「もぉイチロー君、そういう時はぁ背中を撫でなさい!」
決して怒っていない口調で、アキラはイチロウが着ているユニフォームの袖を引っ張る。
「はいぃ」
恐る恐る母以外の女性の体に初めて触れたイチロウは服越しに柔らかさを感じ、呆気にとられる。
「う、うわ、女性の背中」
お酒のせいではなく初めての触り心地に顔を赤らめていた。
「触り方がぁやらしいよぉ……もぉ」
甘えるようなトロトロした口調が耳を熱くさせるくらい刺激的で、イチロウは口が閉じれない。
次第に下半身が痛く、熱くなるがイチロウはそれどころではなかった。
ずっと背中をさすり続ける。
「んうぁ、うぅん、やぁ」
笑い声と混ざるアキラの性的な声が聞きたくて、イチロウはずっとさすり続けた。
「ちょ、ちょっとだけ脇とか」
変な好奇心が沸き上がったイチロウは背中から這い、アキラの脇へ指先を入れる。
「あんぅ! こらぁ」
アキラは反撃とばかりにイチロウの手を掴んでそのまま床へと押し倒してしまう。
仰向けに倒れたイチロウの胴体に抱き着いたアキラは笑顔で脇を擽ってきた。
「ひゃあ、くすぐっ」
涙目で笑うイチロウだったが、すぐにアキラの手が止まる。
アキラの視線はズボンからでも分かる盛られた山にいき、真っ赤な顔でイチロウは山を隠す為に手を伸ばした。
「その反応はぁ、キミはもしかしてどう」
「わー! わー!」
聞きたくない単語をもみ消すように声を張ったイチロウ。
ゆっくりと上体を起こしたアキラはイチロウの額にキスをして微笑んだ。
「じゃあダメだねぇ……大切にね」
そして、アキラはそのままイチロウの胸に顔を埋めて眠ってしまった。
イチロウはただ黙って身動きができないこの状況に脳を緊急停止させている。
自由な両手を温もりが残る額に乗せて、彼女が起きるまでずっと天井を見上げるイチロウだった。