ネガティブ少女
朝のホームルームが始まる前の屋上。
そこに行けば、大抵この娘はいる。
「おはよう、月乃」
1人ボーっと体育座りしていた月乃は、ビクッと驚いたように俺を振り返る。
「すみません!」
そしていつものように謝ってくる。意味もなく。
彼女の名前は、戸崎月乃。
俺と同じ高等部の1年生。
小柄な上にいつも下ばかり見ているせいで、とても15歳には見えない。きっと中等部の1年生だと言っても誰も疑わないだろう。
肩口にかかるくらいのストレートの髪は、艶やかでとても綺麗だと思う。しかし残念なことに、他人からの視線を避けるかのように長く伸ばされた前髪のせいで、顔が全然見えない。
クラスメイトたちに付けられたあだ名……というか、陰で囁かれている蔑称が、幽霊。
月乃の友人である俺も、ピッタリだなと思ってしまったほどに、月乃は幽霊みたいな雰囲気を醸し出していた。
とはいえ、今は朝。
幽霊の恐ろしさや不気味さといった真価は、夜にこそ発揮されるもの。
クラスメイトたちが月乃を気味悪がる理由は十分に理解できるが、俺は彼女を避けたりはしない。
夜に突然出くわしたら、思わず逃げるかもだけど……
「相変わらず、謝ってばっかだな、おまえは」
おはようからさよならまで、全て「すみません」になってしまってるのが、月乃の現状だ。
そのため「すみません」を言われ続けると逆にムカつくということに俺は最近気づいた。
「う~、すみません」
月乃は体育座りのまま膝を抱え、うなだれる。
俺は溜息交じりに言う。
「その言葉は、何か悪いことをした時に使うものだぞ」
「私なんかが貴重な酸素を吸って、余計な二酸化炭素を出してすみません」
「それで謝る必要が出てくるなら、世界中の人が常に謝罪しないといけなくなるぞ」
「私が皆様の分まで謝り続けます!」
……相変わらずのめんどくささだ。
これじゃあ、友達ができないのも納得してしまう。
「月乃。お前を見てると、何かすごくムカつく時があるんだが……おまえも味わってみるか?」
「すみません。嫌な思いさせてすみません」
顔を上げない月乃に、俺も似たような言い回しで謝罪する。
「すみません。こちらこそ、いつも大した用もないのに会いに来てすみません」
役者でもない俺は、本気でそう思っていないので、微妙に棒読みだった。
「……すみません。謝らせてすみません」
「こっちこそ、謝らせてすみません」
俺がそう言うと、月乃の膝を抱えた腕にギュッと力が入るのが分かった。
「私の方こそ、すみません。すみません。すみません。すみません。すみません」
「いや俺の方が、すみません。すみません。すみません。すみません。すみません」
俺も続けて応戦する。
「いいえ、私の方がもっと、すみません。すみません。すみません。すみません」
「いや俺の方がもっともっと、すみません。すみません。すみません。しゅみま……」
噛んだ。
「ふっ……」
「……今、鼻で笑った?」
「い、いえ……わ、笑ってなんて……いません、よ」
超声震えてる!
月乃、完全に笑ってるじゃん! 顔必死に隠してるけど。
「まあ、あれだ。いつもそうやって笑ってろよ」
「え……」
月乃が顔を上げる。
彼女の前髪からわずかに覗く瞳を見やり、俺は続ける。
「せっかく可愛い顔してんだから、下ばかり向いてるな。いっそのこと、前髪もバッサリ切ってだな」
「か、かわ……気を遣わせてすみません」
すぐこれだ。
「別に気を遣ってなんかないぞ」
「いえ、瑞哉様は優しい方ですから、こんな醜い私にさえ話し掛けてくださるのです」
へりくだり過ぎだろ。
あと、様付け慣れないな。普通に呼び捨てでいいんだけど。
「月乃、おまえはバカだな。毎日わざわざ朝早く登校して、屋上に出向くのがどんだけ面倒くさいと思ってるんだ。そんなメンドーなことをしてまでブスに会いに来るかよ」
「え、それじゃあ……」
ったく、ようやく気づいたか。
「この場所には、私には見えない美少女が存在している?」
「はい……?」
何言ってんのこの娘。
「実は私に話し掛けているのではなく、美少女幽霊的な方とお話を……。すみません、2人の逢瀬を邪魔してすみません。今すぐ消えます。マッハで消えます」
なぜか屋上のフェンスに向かって走り出そうとした月乃を、俺は羽交い絞めして止める。
「なんで、そっちに逃げる。死ぬ気か!」
「あ……」
俺の言葉で正気に戻ったのか、足をバタバタさせ暴れていた月乃は大人しくなった。
「そ、そうですよね。こんなところで死んだらダメですよね」
「ああ、そうだ」
「私の醜い亡骸なんて、皆様にお見せするわけにはいきませんよね。トラウマですよね。すみません。短慮ですみません。跡形もなく焼身することにします」
「そういうことじゃない! あんまりバカなこと言ってると怒るぞ」
「う~、怒らせてしまってすみません」
また始まった。
「いい加減にしないと、そのうるさい口、塞ぐぞ」
「……口で、ですか?」
月乃はボソッと呟く。
「え……いや、そんなわけない……って、何引いてんだよ! 俺がそう言ったみたいになるだろ!」
女の子を羽交い絞めしている状況なので、あまり説得力がない。
とりあえず、俺は月乃を下ろす。
「ホント、相変わらずのネガティブ思考だよな、月乃って」
「同じ空気吸ってすみません」
「どうした、急に?」
脈絡なさすぎだろ、今のは。
「ったく、自分が悪くもないのに謝るって。もし俺がおまえに……その、エッチな悪戯とかしても、おまえの方が謝るのかって話だよ」
――すみません。小さくてすみません。
――すみません。はしたなくてすみません。
なんて、俺がちょっとだけ妄想していると……
あれ? 素早く無言で3歩下がったぞ、月乃。
「いや、たとえ話だからな。俺は紳士だぞ」
「瑞哉様。ところで、“しゅみま”って何ですか?」
えー、このタイミングでそれ訊く?
すみませんって言おうとしたら、噛んだんだよ。分かってんだろ。訊くなよ。
「あー、“しゅみま”っていうのは……アラビア語なんだよ。うん」
「……?」
よし、アラビア語知らない様子だな。俺もだけど。
「どういう意味なんですか?」
「え……あー、I love you的な?」
もちろん、嘘なんだが……あれ、月乃黙っちゃたぞ。
……ん、なんか変な空気に。
「えっと……まあ、とにかく、これだけは言っとくぞ、月乃」
「……はい」
「俺はおまえが死んだら泣く。そりゃあもう周囲の人間がさっきのおまえ以上にドン引くくらい泣く。だから、正直おまえに死なれると迷惑だ。俺に迷惑かけたくないなら、生きてろ。いいな」
「……」
「じゃあ、俺はもう行くから」
と俺が立ち去ろうとすると、珍しいことが起きた。
「待って……ください」
「月乃……?」
呼び止められた俺は振り返る。
ちょうど心地よい5月の風が屋上を駆け抜け……長い前髪に覆われた月乃の美しい瞳が、一瞬だけ露わになる。
その瞳には、何かを決意したような強い意志のようなものが見て取れた。
「いつも、話し掛けてくださって、あ……あ、あ……すみません!」
「……はは、どういたしまして」
まあ、本当にわずかだけど、成長してるのかな?
俺がそう思っていると、月乃がすぐそばまでやって来て、ジェスチャーで姿勢を低くしろと伝えてくる。
促されるまま中腰になった俺の耳元に、月乃は顔を近づけ、小声で呟く。
「“しゅみま”」
「え……それって……」
「はい。すみませんを噛んじゃいました」
はは、バレてるし。
「それじゃあ……またね、です。瑞哉様……瑞哉、さん」
長い前髪のせいで月乃の美しい瞳は見えなかった。
でも、口元を綻ばせた彼女は、きっと良い顔をしていたに違いない。
「ああ、またな」
そして、翌日の朝も当然のように俺は屋上を訪れた。
「おはよう、月乃」
体育座りの少女に、俺は元気良く挨拶する。すると――
「すみません!」
…………戻った?
どうやら戸崎月乃のネガティブ精神は、そう簡単には治らないようだ。




