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コントラバスの君

作者: 淡野 浅葱

 僕がコントラバスという楽器を知ったのは高校に上がる少し前だった。それまで、ピアノというクラシカルな楽器に携わっていたものの、弦楽器にはとんと無縁だったから、興味を持つ反面何か恐ろしく感じるものすらあった。それでもオーケストラ部に足を運んだのにはわけがある。


「芳さん」


 オーケストラ部――オケ部の練習場所で、彼女は手を振った。肩まで伸ばした、黒くつややかな髪がさらりと揺れる。いいにおいがした。


「来たんだ」


 佐山光という少女は、彼女自身の背丈を優に超える弦楽器を支えて、そこに立っていた。それはとても自然だった。気負いすぎる事もなく、気が抜けているわけでもなく、ただ、少女と楽器という簡潔な、それ故に美しい構図を示していた。


「まさか、本当に来てくれるとは思っていなかった」


 それから、と彼女は僕を一瞥して、照れたように笑う。


「……男子だったなんて、気づかなかったよ」


「……ああ」


 彼女と初めてであった一ヶ月前、僕は私服だったから、彼女が勘違いするのも無理はないだろう。僕の肩まで伸ばした髪の毛は、後ろの方できちんと結んである。母の手によって編み込みも入っているが、僕の知った事ではない。幸い、この学校では髪の毛を伸ばす事に関してはうるさく言われないので、これ幸いと母は毎朝、楽しげに色々とアレンジしている。


「母が、人の髪をいじるのが好きなんだ。あいにく、うちに女の子がいないのでね」


「へえ。それで芳子さんと共演する時の母は、妙に気合いの入った髪型になってるのね」


 優子さんと僕の母は、どうやらかなり仲が良いらしい。それは、娘の光さんにもわかるほどの。コントラバス奏者とピアノ奏者の接点はあまり多くないが、二人は同じ音大で学んだという共通点をもってして長きにわたる交流を続けてきた。それが、先の演奏会に繋がったというわけだ。


「この間のコントラバスソナタ、良かったですとお伝えしてくれるかい」


「ええ。ああ、そうそう。オケ部の仮入部申し込みは音楽室でやってるわ」


「ああ……そうか。ありがとう」


 君は、と尋ねると、既に済ませてきてコントラバスを借りているのだという。


「ピアノは募集していないらしいけど、別の楽器にトライするのも良いと思うわ」


「ありがとう」


 正直、オーケストラに興味があったわけでもないが、勧められたからには一つくらい体験してみよう、と申し込み用紙に記入する。


「今はバイオリンがあいてますけど、やってみますか?」


 先輩が気遣うように僕の顔を見る。特にこだわりもないのでうなずいた。教えてくれたのは女性の先輩だった。触れば折れそうな細い腕で楽器を構え、弓を持ち、美しい立ち姿で演奏しているのにかなり強く惹かれたのを覚えている。


「ハルコ、仮入の子!」


「ああ、了解」


 彼女は早速、楽器の構え方を手をとりながら教えてくれた。ふと、彼女の言葉が途切れる。


「どうしましたか?」


「いや……綺麗な手だなって」


「ありがとうございます」


「ピアノとかやってた?」


「はい、今でもです」


 しかしそれだけだった。その日、五時まで教えてもらって、ドレミくらいは出せるようになったが、続けようという気はあまり起きなかった。ただ、一つだけ妙に気になった事がある。


「先輩」


「わたし?」


「はい」


「あ、自己紹介しないで始めちゃったから分からないよね。セカンドバイオリンの矢沢悠子です。悠久の時の悠でハルって読むの。もし入る時は、よろしくね」


「はい。あの、矢沢先輩は、かなり幼い頃からバイオリンをなさっているのですか? あとセカンドってなんですか?」


 我ながら、珍しく饒舌だったと思う。彼女は――矢沢先輩は二つの質問に快く答えてくれた。


「母がバイオリニストだから、幼い頃からやらせてもらってたわ。セカンドって言うのはね、バイオリンの事なんだけど、ファーストバイオリンや他のパートのメロディを支える……合唱で言う、アルトパートみたいな事してるパートなの。チェロやコンバスみたいに特別低いわけでもないし、特徴あんまりないし、本当に裏方の事が多いけど、裏拍を取るのはハマれば面白いし、やりがいがあるよ」


 そのとき初めて、コントラバスをコンバスと略す事を知った。心の中で何度か呟いてみる。コンバス。


「さ、質問ある?」


「いえ、特には」


「そう。じゃあ、今日はこれで終わりだから、また来たかったら金曜日に、ね」


「はい。ありがとうございました」


「こちらこそ」


 長い黒髪を背中にたらした美少女は、他の先輩に呼ばれて引っ込んでしまった。僕は鞄を肩にかけ、コントラバスの練習場所に向かう。


「あ、芳さん」


「やあ」


 一緒に帰らないか、というのには、なかなか勇気がいると、そこで初めて気づいた。


「一緒に帰らない? 待ってて、鞄とってくるから」


 僕はぱたぱたと走っていく光さんをぼけっと見送るしかなかった。


 それが、四年前の四月の話。


「芳! 起きろ、コンサートだぞ!」


 ぼっすんぼっすんとおなかの上で飛び跳ねる光さんをはねのけて、僕はこめかみを揉む。


「……光さん、常に静かにしろとは言わないし、そんなことになっても寂しいと思うけど、朝の五時に、そのテンションでモーニングコールはやめてくれないかい?」


 九月のど真ん中、十五日。おとなしくて秀麗なひとだなんていう光さんへの印象は出会って五日で壊れ、今ではただの、いや普通以上に騒々しい友人としての付き合いになっている。いや、友人というよりは、相方だろうか。


 なにしろ、高校時代の三年間と大学に入ってから今年に至るまで、、彼女がコントラバスソナタや、コントラバスとピアノの二重奏を弾く時はほぼ必ず僕が伴奏をし、それ以外の楽器が入る時も必ず二人セットであちこちの演奏会に出演してきた。


「何言ってるんだ、芳。今日は母さんたちとの競演だぞ! 佐川・佐山親子、夢の競演だぞ!」


「公式演奏会じゃないし、そもそもそのコンサートの開始時間は何時だと思ってるんだい」


「十六時からだがそれがどうかしたか、このぽんこつメガネ」


「ぽ、ぽんこつメガネって……今日の演奏会でてやらないぞ」


「それは嫌だ」


「じゃあ、今度から他の人と組む」


「もっと嫌だ」


「じゃあ撤回しろ」


「ごめんなさい」


 毎度毎度、似たような事を繰り広げているような気はしないでもないが、僕も光さんも儀式的に楽しんできたせいで、いまさらやめようとも思わない。おかげで目も覚めてきた。


「はーあ」


 布団からのそのそ這い出る。寝ている間にいつの間にかタンクトップが脱げていたらしく、上裸になっていたが、今更気にするような関係でもない。


「やっと起きるのか」


「ああ。僕は一度起きたら眠れないんだよ」


「神経質め」


「他の人と」


「ごめんなさい」


 やれやれ、とため息をついて、僕は洗面所へ向かった。顔を洗って、歯を磨いて、メガネをかけて、楽譜を確認する。高校時代から何度も弾いてきたなじみの楽譜だから、間違える心配はあまりないのだけど、やっぱり少し不安になって確認する。しすぎってことはないし。


「楽譜の前に服を着ろ」


「ああ、うん」


 着せたいなら僕の周りでぴょこぴょこはねるのをやめてほしいところだが、文句は言わない。


「ネクタイはこれな」


「どうも」


 コンサートの日のネクタイやドレスにはこだわりがあるらしい。特に興味もないので、言われた通りのネクタイを付ける。選ぶ手間がなくていいし。


「ご飯出来てるぞ」


「……メニューは」


「ご飯」


「と、何」


「ご飯」


「……のみ、か」


「ああ。おかずは芳がいないと作れない」


 光さんの将来に一抹の不安を覚えつつ、僕は台所に立った。まあ、将来彼女がどこかへ嫁ぐというのも考えられない未来ではあるが。


「なあ、お前料理も出来ないでどこに嫁ぐ気なの?」


「もう芳でいい」


「で、だったら拒否する」


「が、だったら拒否しないのか」


「わからないな」


「ひどい」


 おたまを握る僕の脇に頭をつっこんで、調理見学と称して遊びだす光さん。


「顔にやけどしてコンサートでるのか」


「ううん」


「じゃあ離れろ」


「はーい」


 といっても、大したものは作っていないから、すぐに盛りつけまで終わる。もやしと人参をごま油とほむだしで炒めたもの、みそ汁、終わり。


「残すなよ」


「いただきまーす!」


「いただきます」


 楽譜を閉じて、朝のニュースを見ながら早めの朝食もたまには良い。おいしそうに、ゆっくり食べる光さんを横目に僕はさっさと食べ終わって、食器を水につける。


「洗っておけよ」


「はーい」


「じゃあ、ちゃんとした服に着替えるから」


「うん」


 着替えながらふと考える。いつの間に、僕はこんなに柔らかくなったんだろう。高校に入学したばかりの頃、口調も固めで周りの人にもなかなか馴染めず、光さんを眩しく見ていたのに、気づいたら、常に彼女とともにいた。学部こそ違えど同じ大学、同じアパート、同じ音楽団。僕には彼女がいることが当たり前になっていたのだ。


 もし、彼女が今、いなくなったとしたら、僕はどうなってしまうのだろうか。それは昔、弦楽器に興味を示した時の気持ちによく似ていた。


「芳ー?」


「……ああ」


「リハーサル、早めに行っても良いって!」


「だからといって八時からは迷惑だと思うぞ」


「わかってるって」


 ぽんぽんと言葉を返すうちに、触れては行けない禁忌のように感じていた場所が明るくなってきた。もし、彼女がいなくなったら。考えては意味のない事だけど、何度も考えてきた事だ。だったらいっそ付き合ってしまえ、となるが、それは何かが違うと感じる。


 だから、思った。違和感に苛まれるくらいなら、中途半端に動かすのはやめよう、と。今の方が中途半端かもしれないけど、それでも失うよりはましだから。


「ねえねえ、どっちのドレスが良いと思う?」


「紫のは、クーラーが効いてて、寒いと思う」


「じゃあ、こっちにしようかなあ」


「いいんじゃないか。よく似合うし」


 結局、十二時過ぎに会場に向かう事にした。楽器は昨日トラックで運んであるから、楽譜だけを持ってゆく。


「あー、楽しみ」


「緊張していたんじゃないのか」


「今は楽しみが勝った」


「そうかい」


 鮮やかな赤い、薄手のドレスは人目をよく引いた。


「派手だな」


「会場じゃ目立たないよ」


 その通り、会場に入ったら誰も驚きはしなかった。リハーサルだから関係者しかいないせいもあるだろうが。


「佐山光さんと佐川芳さんですね」


「はい」


「もうリハーサルできるようになっています。どうぞ、中へ」


「ありがとうございます」


 ステージにはあの、大きな弦楽器が寝かせてあった。それにゆったりと近づき、音を確かめる光さん。僕も曲のさわりを弾いてみて、指を馴らす。


「じゃあ、弾いてみよっか」


「ああ」


 軽い、いつもの調子。そう、これはあくまで、いつものミニコンサートと変わらないのだ。気づくと母と優子さんが観客席に来ていた。優子さんの髪の毛がまた一段と派手にもられているところを見ると、僕の髪の毛もあとでいじられるんだろう。気にしないのは昔と変わらない。


「ほら、芳子さんが待ってる」


「はいはい」


「じゃあ、行くよ」


 僕は楽譜越しに光さんを見つめた。


「Song of The Birds 鳥の歌」


 すうっと息を吸い、そっと指を鍵盤の上に滑らせる。前奏とも言うべき箇所が終わり、そして、光さんの重厚な音色が会場に流れ始めた。僕の体に染み付いて離れなくなった、コントラバスの音が。

 どうも、淡野浅葱です。


 今回のテーマは弦楽器です。本誌ではコントラバスという、オーケストラ最大の弦楽器を登場させました。作中に登場する曲は素晴らしい曲です。youtubeなどで検索すればでてきます。ちなみに、世の中の作曲家の皆様があまりにもコントラバスとビオラに冷たいので泣きそうになりました。コントラバスソナタの少なさに絶望した。ビオラもですけどね。淡野も出してないけどね。ビオラさんはお題誌に出します。是非読んでね! チェロソナタは探せばあります。探してもないのが前者二つです。チェロもお題誌に載せます。是非(以下略)


 楽しんでいただけたら幸いです。


 では、またお会いできる日まで。

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