一歩踏み出すその時は3
『ならば、明日の朝までにその勇者とやらを連れてきなさい。その勇者に、どう思っているかを聞けばいい』
日差しが暖かく、穏やかな風が流れる午後の時間、親と子の間に流れる重苦しいまでに張り詰めた空気は、父の発言で終止符を打たれたのであった。
『明日まで、ですか』
娘の問いに、父はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。それが答えだった。
それから、あと少しで陽が沈むという時刻だった。リーレイは自室で拳を握っていた。
(狸………!!)
―――リーレイに与えられた期限は、明日の朝まで。
(絶対、不可能だと思って夕刻までにって指定したわね?!)
ブルーフェンドルス家の領地から、ゼインの村まで……馬ではやくて三日。馬車を乗り継いでも、四日。人の足なら、さらにかかる。
(これは……あたしの腕が試されてるのよね!?)
そして、リーレイが手を伸ばした先は―――
「……もう少し……」
ゼインは、馬で駆けていた。あれからすぐ村を出発し、近くの神殿まで馬を駆った。神殿には神殿間を結ぶ転移陣がある。これを、元勇者という顔を使い、ゼインはリーレイが療養する地まで来たのだ。
会いたい、と思い自覚すれば後ははやかった。普段は怯えから行動に移す勇気のない彼が、一世一代の勇気を振り絞れば―――今まで勇気を使わなかった分、その反動のようにきびきびと別人のように動いた。
「おやおや」
「恋ですなぁ」
「恋は人を変えますなぁ」
「恋はいいですなぁ」
「奥さん見れるかねぇ」
「それは早いですなぁ」
―――そんなゼインを見送った村の面々は、ゼインに訪れた春に浮かれて酒盛りを始めていた。彼らは皆、満ち足りた表情を浮かべていた。
「いってきます!」
村の人々は、孫同然の子の春の無事の到来を祈った。
ブルーフェンドルス家領地、中心街アルフェンドリア。今は夕刻、雇われ人や職人が、手に土産をもって帰路につく時間。夕日に照らされた彼等の影は、石畳の道に長く長くのびる。鳥たちも群れを成し、人々の頭の上を飛んで住処へ帰る時刻。
―――そんな、どこかゆったりとした時間に、一人顔を鬼にして走る女性がいた。しかも、素晴らしい俊足で。
「のぉおおおお!!」
凄まじい顔に、擦れ違う面々はびくっとして、彼女を避ける。彼女はそのまま河岸へと走り、ようやく足を止めた。
「よう、……や、く……着いたぁ……げほっ」
彼女―――リーレイは、乱れたドレスの裾を直し、深呼吸をして、河岸に座り込む。そのまま水面に顔を近づけ、懐から取り出した一片の木の棒の先を、水面につけた。
「“我、賢者の友なりて、賢者のもう一人の友を呼ぶ”」
リーレイがあらかじめ決められた呪文を唱えれば、木の棒は辺りに淡い光を放ち始めた。
その光は水面に波紋のように広がり、収束し、広がり―――これを何度か繰り返し、ひとつの魔方陣を水面に描き出した。それを確認して、リーレイはありったけの声で、呼んだ。
「ゼイン、ここへ来なさぁああああい!!」
「え?」
ゼインはその頃、ブルーフェンドルス家領地の神殿から、借りた馬に足をかけた時で。
「リーレイ……?」
ゼインは最初空耳だと思った。今すぐにも会いたくてたまらない女性の声が聞こえたのだ―――しかも自分の名を叫ばれたような気がした。そんなわけがないというのに、会いたいという想いが強すぎて、ついに幻聴まで聞こえ始めたというのだろうか。
「……気のせいだ」
ゼインは止めていた動作を再開して、馬に飛び乗った。
「……え」
いきなり彼を金色の光が舞い始め―――ゼインは馬ごと姿を消した。
『これを』
『何、これ』
勇者一行のパーティーが解散するとき、賢者はリーレイに何本かの木の棒を渡した。訝るリーレイに、賢者はいう。
『私たちに会いたくなったら、先を川の水につけてください。そして呪文を唱えて、会いたい人の名を呼んでください。一度だけ、名を呼んだ人に会えます』
使えるのは、一度だけ。
一度だけ、会いたい人を呼べる賢者手製の魔法道具。
『勇者より私を呼んで欲しいですけどね』
―――ぼそっと、賢者が最後に呟いた言葉を、リーレイは覚えていないけれど。
「………」
水面が、一段ときらきらと輝き始めた。それは最初は虹色で、次第に淡い金色へと変じていく。優しい暖かみのある、日溜まりのような金色に。勇者の髪の色に。
「……え?」
金色の光が収束し始め、馬の形を取り始めた。
「……馬……?」
しっかりとしなやかな筋肉がついた四本足は―――明らかに栗毛の馬だ。
「……賢者……」
いつもふざけていた賢者を思い出し、リーレイはまさかと焦り始めた。まさか、これまでおふざけの延長だというのか?!
震える拳を握りしめ、リーレイは顔が赤くなるのを感じた。リーレイは羞恥も捨て、いい年をして屋敷からドレスをたくしあげて、ここまで全速力以上で走った。しかも力を入れるために奇声をあげながら。
いまだって、橋の上やら道やらから、すっごく生暖かな視線をびしばし感じるのだ。
ここまでしておいて、会いたい人が来ずに、来たのが馬なんて―――恥だ。父親が笑いすぎて、腹を抱えてヒイヒイ言いながら床を転げまわるのが目に見える。
と、そんな時だった。
「うわあああっ??!」
リーレイの耳に、たいへん聞きなれた叫び声が聞こえたのだ。あの長旅で、逃げるときに勇者が必ず叫ぶ“お約束”の悲鳴が。
いつのまにやら、収束した光が完全に消えており、馬に乗った人影が、暴れた馬から振り落とされ、水中に消えた―――リーレイの目の前で、金槌の勇者が、魔方陣の上で興奮し暴れた馬に落とされたのだ。
「あああ!!」
リーレイは、恥も外聞も投げ捨てて、川に飛び込んだ―――ドレス姿ということも忘れて。
「おまえたちは、馬鹿か、阿呆か?」
ブルーフェンドルス家邸宅、暖炉のある一室。ここには、着替えて毛布にくるまったリーレイとゼインがいた。そして、彼らを見下ろす当主と、彼の後ろに控える夫人がいた。
夕食の時間にも戻らないリーレイを心配した夫妻は、辺りを捜索し始めた。
夫人から馬鹿馬鹿! と殴られながら、当主である父の耳に入れられた報は、リーレイの一部始終だった―――ドレスをたくしあげて、奇声をあげながら市街地を走り抜け、川にて馬と男性を魔法で呼び出し、呼び出された男性が川へ落ち、リーレイは叫びながら――ドレスのまま――男性を助けに飛び込んだと。
色々な意味で顔を赤くした当主は、すぐさま救助を手配、屋敷へと連れてこさせた。
―――そうして、当主がガミガミと雷を落とす現在に至る。
「まぁまぁ、あなた。あなたが言い出したから悪いのよ」
「あだだだっ!!」
まだ雷を落とそうと口を開きかけた当主は、口から言葉を出す前に悲鳴をあげた。その頭には、見事に投げつけられた扇が命中していた。
「リーレイ、お父様はお母様に任せて、あとは若いお二人で、ね?」
呆気にとられる二人を放置したまま、夫人は夫を引き摺り退室した。文字通り、引き摺って。―――ちなみに、引き摺る前に、勇者であったゼインでさえ目で追えないほどの速さで、夫人の扇が当主の頭に再度投げられ、当主は気絶した。
ゼインは、当主を敵に回しても、決して夫人を敵に回すまいと決めた。
「ゼイン」
誰も邪魔物がいなくなった部屋で、リーレイはゼインに向き直った。暖炉の火に照らされたリーレイの顔は、とっても真っ赤だった。おそらく暖炉の火とは別の起因もあるのだろう。照らされただけでは有り得ない赤色であった。
「……リーレイ……」
ゼインはごく、と無意識に唾を飲み込んだ。ゼインの目には、いつも以上にリーレイがとてつもなく魅力的に見えた。
「ゼイン、あたしはあなたが―――」
「ちょっと待って、ちょっと待って!」
リーレイの言葉の先に続く言葉を予想して、ゼインは顔を真っ赤にして止めに入った。勇気をだしてここまで来たのが水の泡だ。
「何で?」
リーレイはへにゃっと泣き崩れかけた。それを見たゼインは、思わず抱き締めた。いつも強気の彼女が、普段なら考えられない可愛い仕草をした。そのギャップに、ゼインの理性の箍が少し外れたのだ。
「……僕から、言わせてください。ありったけの勇気を出して、貴女に会いに来たんです。貴女に、愛を伝えるために―――」
ゼインが耳元で囁く言葉に、リーレイは嬉しくて泣き出した。その涙を、ゼインの指がぬぐう。
「愛しています、リーレアンナ」
「―――あたしも……」
勇者一行が凱旋してから幾月、元勇者は元監視役と婚儀をあげた。その話は瞬く間に国中に広がり、誰もが祝ったという。
特にブルーフェンドルス家領地は、どの地域よりも祝いに興じ、三日三晩祝いの声と祝杯が絶えなかったという。