蜂蜜色の空と彼と
視界の隅で、黒い塊がもぞもぞと動いた。隣の席の、橋谷の髪。ぼさぼさ長くてだらしないそれは、落ち着くことを知らないよう。授業中にもかかわらず。
長い髪で誤魔化した耳には、小さなイヤフォン。机に忍ばせたMP3プレイヤーで、何かを夢中で聴いている。リズムを刻む足の動き。音に合わせて揺れる頭。うっとりと閉じられた瞼は、完全な現実逃避を意味していて。
橋谷ヒロトは、変人だ。
あたしは窓際に座るこの隣人を無視して、正面の黒板に目を向けた。書かれた文字をノートに写す。意味を成すアルファベットの羅列、英単語。橋谷には、不要なのかもしれないけれど。
窓から差し込む春の日差し。かつかつと響くチョークの音。逃避を望む気持ちは判る。それでもあたしたちは、授業にしがみ付いているんだ。橋谷を除く、あたしたちは。
こつこつ、たたたん。机を叩く、隣席の変人。自由で羨ましい気もするし、馬鹿だなと思う気持ちもある。中学三年生のあたしたちにとって、内申は、絶対的な価値があるのに。
気にしないようにと思っていても、橋谷の動きが視界に入る。無造作な黒い髪の塊。蜂蜜色に日焼けした肌。顔立ちは悪くないはずなのに、野暮ったさが際立っていて。
無頓着は、無関心の現れかもしれない。あたしたちがどう思うのか、なんて、橋谷には関係ないらしい。
ふわり。強い風が、教室内に吹き込んできた。春の匂い。波打つように揺れるカーテンが、退屈な授業をほんのり彩る。降り注ぐ陽光。あたしの上にも、橋谷の上にも。
まどろみそうな心地好さ。逆らい、アルファベットを書き写す。意味があるのかは判らないけれど、そうしなければいけないから。
必要かどうか、なんて。あたしたちには不要な疑問。勉強をして、成績を上げて。あたしたちに大切なのは、そういう判り易いこと。違っているのは、橋谷だけ。
「……なあ?」
たたたん。心地好いリズム。合わせるように、声が響く。
「野崎、今、何限?」
隣人の囁き。ぼそぼそと喋るその声は、橋谷ヒロトのものでしかなく。
「四限。てか橋谷、起きてたよね?」
あたしの名を呼ぶその声は、低くかすかに澄んでいて。
「……さあ、ね。秘密」
耳の奥、静かに残る。
揺らめく陽光。橋谷のだらしのない髪が、ふんわり、光に溶けた。柔らかな隣人の笑顔。眩しく思う。日差しのせい。
外したイヤフォンを机にしまい、橋谷が黒板に目を向けた。珍しい光景。けれど、机で刻むリズムはそのままに。こつこつ。風の抜ける音のように、当り前に奏でている。
当り前。あたしたちの当り前は、橋谷にとってはそうじゃない。真面目な振りをする必然性が、橋谷にだけは存在していない。
「勿体ねえなあ。せっかく良い天気なのに」
ああ、そうなのかもしれない。変人なんだと蔑んでみても、結局あたしも感じているんだ。どうしようもなく、馬鹿みたいに。
「なあ、野崎もそう思うよな?」
「え、と……」
ざああ。あたしの声をかき消すよう、風がカーテンを揺らした。唐突にやって来た春があたしの言葉を摘み取り、教室内を駆け抜ける。
捲れる教科書、舞い乱れる髪。ちょっとした混乱を巻き起こし、当たり前に過ぎ去っていく。それはまるで、橋谷のよう。
退屈な授業を彩る、イレギュラーな春の突風。イレギュラーな、あたしの隣人。
ふと見ると、隣の変人は笑っていた。慌てることなく、楽しそうに。
*
放課後の教室はとても静かで、残っているのはあたしだけだった。本当はすぐに帰れば良かったんだと思う。意味のない時間を過ごせるほど、あたしは賢いわけじゃない。けれど。
部活に行っているクラスメイトの鞄に混じり、橋谷のMP3プレイヤーが置かれていた。忘れるはずのないものだから、きっと橋谷はまだ校内。
だから、じゃない。違うけれど。机の上に置かれたそれを、あたしはそっと手に取った。
戻ってきたらどうしよう。恐怖心に似たどきどきが、あたしの身体を支配して。誤魔化すよう、イヤフォンを耳に当ててみる。
ばたばた。廊下を掛ける誰かの足音。びくりとして、教室内を見回した。誰もいない、中途半端なこの時間。皆は部活か塾に忙しく、無意味に過ごすのはあたしだけ。帰らなければと、思っているのに。
緊張しながら、プレイヤーの電源ボタンに指を伸ばした。何をしているんだろう、あたしは。そんな、冷静さを残しつつ。
言い訳だけれど、あたしは残ろうと思っていたわけじゃなく。先生にちょっとした雑用を頼まれたから、仕方なく残っているだけなんだ。たまたまひとりで教室に戻って来たら、たまたま橋谷のMP3プレイヤーが目に入った。それだけなんだ、絶対に。
かちり。再生ボタンを押した。橋谷の奏でる、心地好いリズムを思い出す。
流れたのは、ノイジーな音楽。けれど、何故か耳に優しい。英語の歌詞で意味が判らないにもかかわらず、橋谷らしいなと思う。乱暴で、心地好い響き。少しだけ、橋谷に似ている。
とんとん。混沌の中枢を拾い上げ、あたしは足で刻んでみた。
例えばさっきの用事の時に、この音楽があったなら。あたしは軽やかに、プリントを並べ替えることが出来ていたのかもしれない。内申のために断れないんじゃなく、自ら進んで頑張れていたのかもしれない。
とんとん、ととん。橋谷みたいに上手くはないけれど。目を瞑り、足を動かす。教室ではないどこかに飛んでいくような、錯覚。あたしも、変人の仲間入りしたみたい。
よく判らない歌詞に、乱暴な音楽。初めて聞くのに耳馴染んで感じるのは、橋谷がいつも奏でていたから。
ととん、とととん。少しだけ、足がもつれたけれど。そのまま、足を動かす。隣に橋谷がいるような、錯覚。舞い上がる気持ち。何かに似ていて。
きっと、これは。
「……あれ? 野崎?」
はっとした。声の主に目を向けて、あたしは冷静さを取り戻す。
「あ、ご、ごめん橋谷。置いてあったから、つい」
激しくなり始める心臓。全速力で走った後のよう。何もしていないのに、あたしの息は上がってしまう。
「俺は、別にそういうの気にしないし良いけど」
落ち付かない。あたしは冷静なのに、あたしは冷静じゃない。思考は冷静。けれど。
「……どうだった? あんまこういうの、聴く奴いないし」
目の前で、橋谷が笑ったから。さっきと同じ、浮遊感。落ち着かなくて、心地好い。
プレイヤーの停止ボタンを押し、イヤフォンを外した。変人の音楽が、私を変人に染め上げる。きっとそう。そうじゃなければ。
「良かったよ、すごく。橋谷、こういう曲好きなんだ?」
こんな風に普通の会話が、出来るはずなんてないんだから。
「ああ、うん。好き。ずっと聴いてたい」
まるで自分の身体じゃないみたいに、心臓が激しく動いているけれど。
「ずっと? 聴いてるじゃん、橋谷。授業中とかも」
目の前の橋谷が笑顔だから、あたしもつられて笑顔になる。
「……え、マジで? あれってバレてんの?」
思わず、声を上げて笑ってしまった。橋谷と普通の会話をするのは、初めて、かもしれない。
「バレバレだよ。足でリズム刻んでるし」
知らなかった橋谷を知る。聴いている音楽、気付かれていないと信じていたこと。
「リズム? うっわ、マジかよ。てか俺、完璧無意識だそれ」
自然と溢れる心地好いリズム。変人の本当。無関心とは少し違う、他に熱中していたということ。あたしが見ていた橋谷は、あたしが勝手に作り上げた橋谷だったということ。
だから、それが。
「え? 橋谷、あれ、無意識だったの?」
おかしくて、仕方がない。
「だってほら、授業中に騒いだら駄目じゃん」
「橋谷でも、そういうの考えるんだ」
放課後の教室に、あたしの笑い声が響く。不思議な感覚。いつもと違う、居心地の良い場所のよう。
ああ、そうか。そういうことだったんだ。
「まあ、俺は別にどうでも良いんだけど。ほら、他の奴らに迷惑かけたらマズいじゃん?」
すごく単純な話。あたしは、橋谷のこと。
「ふーん? 橋谷って、意外と常識人?」
変人なのは間違いないけれど、嫌いじゃないのも間違いなくて。無意味だった今の時間が、少しだけ、意味を持ち始めたから。
「てか、野崎って思ってたより嫌な奴だな」
「橋谷の隣に座ってたら、誰だってそう感じるって」
重なる笑い声。あたしと橋谷。放課後の教室を照らす陽光が、少しずつ、傾き始めていた。
「……てかさ、野崎この曲気に入った?」
「うん」
何となく、良い予感。退屈な時間を、彩る予感。
「じゃあさ、明日CD持って来てやるよ」
それとなく、確信。やっぱりあたし、橋谷が好きだ。橋谷を取り巻く、全てが好きだ。
「本当に? じゃ、あたしはノート見せたげる。とってないっしょ、橋谷」
「何でそんなこと知ってんだよ?」
カーテンの隙間から射し込む夕日が、橋谷の髪を溶かしていく。薄いオレンジ。教室が、橋谷の色と同化する。
「秘密。てか、隣の席なら判るし」
蜂蜜みたいな色だと思う。淡くて、甘い色。橋谷のイメージにぴったりな。
「野崎が鋭いだけなんじゃん?」
「かもね」
とろけて、息の詰まる。
「……野崎って、変わってるなあ」
笑いながら、橋谷はMP3プレイヤーを制服のポケットにしまった。変人な橋谷。笑顔を見せ、本心は見せない。けれど。
奏でる音楽の心地好さは、間違いなく、本物だから。
「橋谷みたいな変人に言われたくないって」
「変人? 俺が?」
あたしが抱く感情が、鮮やかな色に染まった。蜂蜜の色、橋谷の色に。




