Prologue5 現状把握
芳しい珈琲の香りが漂い、長時間集中して疲れていた俺は、一口含むごとに染み入るような美味さを感じた。珈琲の香りと叶の吸う煙草の煙が混じり、この空間がちょっとした酩酊感に包まれているように感じる。
「一通り終わったことだし、検索結果が出る前に、斉藤君には現状把握から先にしてもらおうか。」
「現状把握?」
叶は徐に煙を吐き出し、煙で霞んだ視界の向こうでじっと俺を見つめながら言った。
「簡潔に言うと、斉藤真幸君。君は死んだ。」
「は?」
簡潔どころか突飛すぎて、理解の範疇にすら掠らなかった。珈琲を飲んで一息つき、安心していた俺から間の抜けた声が零れた。
「正確には、ほぼ死んでいると言った方が正しい。」
どちらにしろ叶が俺の死を口にしていることに変わりないが、俺にはその言葉が頭に入らず、耳のあたりで鳴り響くように木霊していた。
無言の俺を見つめたまま、ゆっくりと話を続ける煙の向こうにいる叶。
「今現在、斉藤君は病院のベッドで意識不明の昏睡状態にあるんだよ。」
「何言ってんだ?あんた。俺はここに居るじゃないか」
言っていることの意味が解らない。思わず敬語も丁寧語もない素の自分で答えていた。
「うん。いる。けど、それは君の肉体を伴っていない状態でだよ。」
「肉体って…。身体あるし!」
「君という存在は、魂と肉体で構成されているんだよ?そういう意味。」
肉体がないということは俺は魂だけ?魂だけっつーと思い浮かぶのは幽霊という単語だ。
「俺が幽霊だとでも言うのか?触れるじゃん!身体も物も!足だってあるし!」
何の冗談だと疑い思う反面、不可思議に上がっていく心拍数。納得できないと心が叫ぶように、俺の声も大きくなっていく。
「それは、君の魂が肉体の形状を再現しているに過ぎないからだよ。そして、この場所が形状の実体化を可能にしているんだ。」
「場所!?このハ□ーワークが?」
死んだだの魂だけだの言われて、頭や心が時間を止めたように感じる。どこかの他人が俺の代わりに話を聞いているような感覚に陥っている俺へ、更に叶は新たな話を紡ぎ出した。いったいなんだっていうんだ。
「そう。君は普通の職業安定所へ来たつもりだろうけれど、ここはそうじゃない。」
くゆる煙の向こう側、叶が煙草をもみ消し、少し前に乗り出しながら話す。
「ここは言うなれば…魂の次の行先を模索する人生安定所なんだよ。」
「人生安定所?求人とか言ってたじゃないか。職業適性チェックシートだってやったじゃないか…。何より、叶さん。あんた、仕事とか職場とか言ったじゃないか!」
「うん。言った。」
一見のんびりとした口調は態とだろうか。混乱しはじめた俺を落ち着かせる為か「こんな話を知ってる?」と、心を読み取ろうとするように俺の目を覗き見る。
「君のいた世界でも出て、一時期話題になったから有名な話だけど。死ぬ前と死んだ後では体重が少し軽くなる話。」
魂の重さ分、体重が軽くなっていたとかいうやつか。聞いたことはある。だが、それに何の関係があるっていうんだ?
戸惑い、無言で頷く俺を待ち、再びゆっくりと話を続ける。
「死んでも暫くは細胞が機能しているから魂の重さではないとか、時間経過に因り水分が失われただとか諸説あるけど、どれも正解ではない。魂の重さではないというのは当たっているけどね。厳密には、魂を肉体に留めている契約に重さがあり、契約が外れるから軽くなるんだ。契約は、魂を世界へ縫い留める軛。全ての魂が宿る存在は生まれる為に契約し、生まれてしまえば、いずれ死に至る。一部の特例を除いて万物に当て嵌まる。死によって契約から解放され、次の契約を結ぶべくして、常に流転している。その生と死の間の契約を、ここで取りまとめる作業をしているんだ。魂が人生を重ねていく過程で、各々の役割や責務を担いつつ世界の像を創っていく。些細と思えることでも大切な仕事なんだ。だから、ここが魂の職業安定所なんだよ。」
要は輪廻転生って言いたいのか?輪廻転生を繰り返す魂の人生が仕事だと?
「良い像で世界を出来るだけ長く継続させていく為には、魂・世界双方にとってなるべく適切な契約を結ぶ必要があるんだ。何にでも相性って大切でしょ?だから、適性診断したり、求人があったりするのさ。」
俺たち人がこの世に生まれてくるのは、単なる偶然の連鎖と確率の果てだと思っていた。
もし、叶の言うように全ての生まれ来る人生に意味があり、役目があり、託されたものがあるのならば…。今まで凡庸と過ごしてきた俺の人生が堪らなく愛しく、掛け替えのないものに感じられた。それと同時に、混乱し止まりかけた俺の頭と心は、ぼんやりと回りだした。
「まだ信じられないが、その話が事実だとしたら、俺は本当に死んだのか?」
「うん。ほぼ死んでる。」
さっきも聞いたが、ほぼ死んでるって変な表現だな。
「俺は死んだ記憶はない、いつどこで死んだ?俺は普通に歩いてここまで来たぞ。」
「そこが普通と経緯が違う所なんだよ。だから『今年の夏の第一号』ってね。」
アハハと気楽に笑うところか?
「普通はー、死んだ後に来る場所のここに、まぁ所謂、仮死状態で来てしまったというところだね。」
「仮死状態?じゃぁ、まだ死んでいないし、戻れるということか?」
「んー。戻る、という選択肢もあるのは確かだけれど…。僕としてはあんまりお勧めできないねぇ。」
「どういう事だ?」
叶に誘導されて話が流れていくが、俺にはまだ、俺が死んだということが信じられないでいる。
だが、俺の授かった人生が、世界という何かに託され、求められたものだと聞けば。一度の人生がとてつもなく大切に感じられ、仕事を辞めて半ば捨て鉢になっていた気持ちに今一度活力が漲り、今からでも良い人生を送れるように足掻いてみたいと思う自分がいて。俺がもし叶の言うとおりならば…、戻りたいと自然に考えが向いていた。そう思う俺に『お勧めできない』とは穏やかじゃない。嫌な予感しかしないが、理由を聞かずには納得出来ない。
「死の概念の説明をするより、斉藤君の現状を順を追って説明した方が解りやすいか。」
そう言いながら肩をすくめた叶は、若干くたびれたように見える背広の内ポケットから新しい煙草を取り出し、火を点けた。
「まず、斉藤君が契約世界の中で歩いて職業安定所に向かってた時は、間違いなく生きてた。で、職業安定所に入った瞬間に眩暈を起こしたと記録にある。覚えてるかい?」
確かにそうだった。あの時俺は、眩暈とともに暗転する視界と重力に曳かれるように傾いだ感覚を体験した。その時のことを思い出し、大きく頷く。
「その時に契約世界での斉藤君は、倒れてしまってね。救急車で運ばれたけれど、意識不明の昏睡状態にあるんだよ。そして、魂が契約の軛から外れかかってしまい、そのまま魂だけココに来てるのさ。」
冷めかけた珈琲を一口含み、話を続ける叶。
「…じゃあ!俺が肉体に戻れば!そしたら、また元の生活に戻れるんだよな?」
「だから言っただろう?戻るという選択肢はあるけれど、お勧めしないって。」
「なんで『お勧め』できないんだよ!?」
落ちついた態度で煙を吐き出す叶に、喰いつくように身を乗り出した。
「お勧め出来ない理由はね。斉藤君の場合、倒れた時の打ち所が悪かったせいで、以前の生活に戻れる可能性がない状態だから」
「以前の生活?」
「うん。精神と肉体の神経接続に剥離が出てるね。声も出せないし、目を開くことさえ出来ない状態だ。」
冷や汗がこめかみを伝う。
今、動揺して不規則に脈打っている鼓動は本物じゃないのか?
「…それって…戻る見込みは?」
「残念だけど、ないね。脳波はあるから、死んではいないけれど、回復の見込みはない。限りなく死に近い状態と言えるかな。」
言い切る叶の視線が僅かに歪む。
確かに感じる心臓の痛みは、ここにない俺の肉体で同じように動いているのか?俺の魂が肉体に戻ることは、動かない人形の器に心だけ以前のまま存在するということか?そんなの嘘だ!
「斉藤君、大丈夫かい?」
グルグルと回る思考に、視界が撓み、水中で聞くように叶の声が遠くから籠って届いた。重く感じる腕をどうにか動かし、冷えた珈琲を口に含んだ。
「…全部、嘘だよな?見てもいないし、倒れた記憶だってない。実感がないのに受け入れられる筈がないだろう!」
一向に潤わない喉から絞り出すように言葉を吐き出す。
「斉藤君の反応は尤もだ。契約世界に戻って君自身の目で見ることが理解には一番なんだけどねぇ。それは今の段階では出来ないルールなんだ。」
「何故だ?」
「次の職業が決まってない状態の魂が以前の契約世界に戻ると、ただでさえ不安定な状態なのに加え、精神も不安定になるから、ニート化しやすいんだよ。」
「ニート化?」
「魂のニート化。つまり、以前の契約世界での未練が断ち切れず、契約のない魂のまま、その世界に閉じこもってしまう。所謂、地縛霊・浮遊霊・悪霊としてその場に居ついてしまうことが多いんだよ。」
悪霊とかになっちゃうと怖い係の人に狩られちゃうよ?と茶化したように叶が笑っているが、そんなことは俺の耳を素通りしていた。魂のニート化って単語だけでも何だか不安になりそうな響きなのに、地縛霊や悪霊だなんて…最悪だ。
「ここで次の仕事が見つかれば、一度以前の契約世界に行くことができるから。」
「見つからなかったら?」
「見つからなくても導かれる場所が違うだけだから。そう心配しないで、斉藤君。」
優しげに笑いかける叶の頭がコテンと傾げられるのを見て、ここに来てから何度目だかの同じ感想が薄ぼんやりと俺の頭をよぎっていた。
お久しぶりです!随分お待たせしました。亀更新と以前に告知してはいたのですが、こんなに間を空けてしまうなんて…。お気に入りに入れてくださったり読んでくださった方々にモヤモヤさせてしまってたらごめんなさい。
今後も不定期更新ですが、間を空けすぎないように気をつけたいと思っています。
それでも良いと寛大な気持ちで、気長にお付き合いくだされば幸いです。