5 ルル・セレドの魔人
朝食はこけらアヒルの卵焼き。
朝採りの生野菜に何かの肉の燻製ベーコン。
ライ麦に似た穀物のパンとバター。
ムームーというヤギに似た動物のミルクに蜜を垂らしたもの。
朝のけたたましい鳴き声は、卵を採られて興奮したアヒルのものだったという事が判明した。
食物連鎖は自然の摂理とはいえ、愛らしい姿を知ってしまうと複雑な気持ちになるのは否めない。
だが、豊富で新鮮な材料を使った朝食はそれはそれは美味しく、響子は残さず完食することで罪悪感を打ち消した。
獣が女神の贈り物とされている以上、菜食主義も覚悟していたのだが、シアニスに言わせればそれとこれとは全然別なのだそうだ。
むしろ、教えでは自分の嗜好で食事を選り好みし、自然界のバランスを崩す事こそが傲慢な行いであり、神のくだされた全ての糧を嫌悪する事無く受け入れる事。それが世界の安寧に繋がっている、というのが主張らしい。
簡単に言うなら「ワガママ言わずに、出されたもん食え!」って事だ。
屁理屈矛盾が結構多い宗教の教義にしては、単純で非常に好感の持てる主張だと響子は思う。
この世界の人間は「獣」に神性を感じてるわけではない。きっと。
イビスを尊崇するのは、南米の守護獣信仰に近いのだと思う。
獣本体ではなく、その性質や霊性に神秘を認めているのだ。
シアニス達と朝食を終えた響子は、一人集落の傍の森をふらふらと散策していた。
ミリアムにニャルーマというデザートになる果実(どうやらあのゴリラの顔に蝶の羽根の絵の正体らしい)を採りに行こうと誘われたのだが、明日に延期してもらった。未知の果実に恐怖が先に立ったのが半分。残り半分は氾濫した頭の中を整理したかった為だ。
梢が穏やかな風に揺れる。
この世界の常識なのか、それとも緯度が北だと言う地域の気候によるものか。
森を照らす日差しは明るさはあってもぬくもりはほとんど感じられず、少し肌寒い。
やっぱり『月』だからなのかな。
地球では月は導く灯火であって、地上の命を愛で育む光ではない。
そもそも月は太陽の光を反射して輝くものだ。ならば空に浮かぶあの煌々とした存在は、一体何の光を映して大地に降り注いでいるのだろうか。
天文なんて専門外だしね。元の世界の定義で考えてもしょうがないか。
天動説や地動説。世界の端っこには何があるのか。考え始めたらキリがない。
森や山、大陸の乗っかった『世界』という名のパイの下を、3頭の象が器用に鼻で支えている図を想像した時点で、響子は早々に思考を停止させた。
この世界ではそういうもの。という結論をくだし、足早に歩を進める。
時折、チチチという鳥らしきさえずりが響く以外、辺りは静かだ。
道すがら修道女達とすれ違ったりもしたが、皆、この土地の風習を心得ているのか誰一人声を掛けて来ず、目を伏せて会釈するに止まった。
一人きりになりたいと思う反面、シアニスに「あまり遠くに行かないように」と釘を刺されていた為、どうするかと悩んでいたのだが杞憂だったようだ。
日頃の運動不足のせいか、息が上がり鼓動が早まる。
不快ではなかった。
日に透ける葉が鈴なりに揺れ、濃密な緑の香気が身体の奥底から満ちていく気がする。
前方に小さな湖が現れたのは、畦道を小半時も進んだ時だった。
あまり大きくはなく、向こう岸が見渡せる程の規模だが水質は澄んでいて、いくつものたゆたう魚影が響子の眼差しを攫った。
ふと不安になり、後ろを振り返る。
見渡せる木立の合間から、ぼんやりと建物の影が垣間見える。少し声を張り上げれば、充分届きそうな距離だ。
敷地の境界を沿うように進んでいた為か、距離の割にはさほど遠くには来ていなかったらしい。
シアニスに心配は掛けられない。
ほっと胸を撫で下ろし、湖の淵に膝を突く。
結構な勢いで歩いていたせいか、喉がからからだ。
両手でそっと水をすくい上げ、響子が口元に運ぼうとした刹那、
「―――!!」
彼女はギクリと身体を硬直させた。
水面に自分のものではない人影が映っている。
ゆらゆらと気まぐれな波紋を追うように顔を上げると、
何、あれ?
それは不可思議な光景だった。
目の前の湖面の上に青年がいた。
比喩ではない。言葉通り、水の上に、だ。
ふわりと空気をはらんでそよぐ、柔らかそうな髪。
雪花石膏のような不思議な色合いで、まろやかな乳白色に銀や灰色の一房がいくつも混じり流れている。
肌の色は南国の夜で染めた褐色。なめらかな黒蜜をのよう。端正な美貌は中性的で繊細な硝子細工を思わせる。
だが、彼を女性と間違えるものは恐らくいないだろう。
目は心の窓。口ほどに物を言うとはよく言った物。
容貌の涼やかさとは裏腹に、瞳に息づく紺碧の色彩は天翔ける光の矢のような、鮮烈な意志の存在を見る者に与えた。
それゆえか。剛健さとは程遠い造りの青年でありながら、軟弱さは微塵も認められない。
ど、どうなってんの…?
ひたりと、水面にさざなみすら起こすことなく、彼は優雅な歩みで水鏡の上につま先を下ろした。
沈む気配はない。一歩、また一歩。こちらに近づいてくる。
透明度の高い、けれど深く底の見えない湖は、周囲の鮮やかな緑をそのまま映し込み、まるでもう一つの世界の入り口かとも錯覚させる。その上を滑る静かでゆるぎない歩調は、響子の心に焦りと畏れを呼び起こすには十分だった。
知らない相手だ。
そもそもこの世界に来てまだ数日。間違いなく断言できる。
だが妙な既視感があった。
うーん…わからん…!
仮に会ったのでないとすれば、とてもよく似た人物を知っているか、だ。
とはいえ、滅多にお目にかかれない美青年だ。似ているとすればTVやDVDなどに出ていた俳優だろうか。
とん、と身軽な音を立てて青年が岸に降り立つ。
淵に座り込んでいた響子の前まで来ると、彼はじっと彼女を凝視し、検分するように軽く目を眇めた。
途端、何やらすっと背筋に出所不明の緊張が走る。
蛇に睨まれた蛙ってヤツですか…?
響子は常々思っている。美形は凶器だと。…いや、この際パンチでもキックでもいい。
表現は稚拙だが、美しいと言うのはそれだけで攻撃力がある、という意味だ。
「ど、どちら様にございましょうか…」
というか、これじゃ私の方がどちら様だよ…。
怯えと言う名のスパイスがたっぷり効いた言葉遣いに、だが青年は気にした風もなかった。
ゆるりと一度瞬きをすると、何かを納得したかのように面から剣呑な光を綺麗に消し去る。
「……君は、ここにいてはいけない」
「へ?」
響子はぽかん…と青年の顔を見上げた。
上背がある為、遠目にはもう少し年嵩のように見えたが、実年齢は18、9くらいだろうか。
ファンタジー小説に出てくる謎のキャラクターフラグを踏襲した、随分と唐突な切り出し方だ。
いけないって…何それ。その前にアナタ誰?水の上を歩いているのは水遁の術ですか?!
こういう場合、まず自己紹介して、起承転結を揃えて言って貰いたい。
が、そんな彼女の内心などまったくお構いなしに、青年は続けた。
「…間もなくここに災いがやって来る。死を告げる白鳥の加護を得た者。星のくびきから逃れた危険な存在だ」
「危険って…」物騒極まりない単語に、知らず腰が引ける。「それって私が狙われてるって事?」
「そう言い換える事も出来るし、そうではないとも言える」
謎掛け問答のような、一向に的を得ない答えだ。
しかも危険だ、災いだという割には、青年の様子には今一緊迫感がなかった。
声も棒読み平坦。表情も無味乾燥。
容姿が端正な分、精巧に作られた人形と喋っているかのように錯覚しそうになる。
「未来視は僕の力の質が得てとする所ではないから、これ以上はわからない。でも君がこの地から去らねば血が流れる。確実に」
「……」
そんな事突然言われても。と正直言って響子は困った。
来たくて来たわけではないし、身一つで放り出されても、今度は逆に自分がいろいろな意味で危うい。
いや、自分のせいでここにいる人々に危険が及ぶと言うなら、速やかに出て行くべきなのだろう。
だが、果たしてこの見知らぬ青年の言うことをどこまで信用していいのだろうか。
「血が流れるって、災いって何なの?存在って事は人間?私を殺そうとしてるとか?」
「殺しはしない。白鳥は恐らく君だけは傷つけない…傷つけさせない。でも、きっと君の心は傷つく。それは僕の本意ではない」
だからここにいてはいけない。
抑揚のない、感情を削ぎ落とした言葉は飲み込みづらく、響子は意味を把握するまでに随分と掛かった。
それってつまり――私は生餌。狩られるのは周りにいる人達って事?
互いの中にある感情を見極めようとするかのように、しばし二人の視線が絡み合う。
気まずさを感じ、先に逸らしたのは響子。
その様子をどう受け取ったのか。青年は長いまつげを伏せると、外套を翻し踵を返した。
誤解された?
まだ、大事な事は何も聞いていない。
「待って!」
むんずと外套の裾を掴むものの、実際のところ響子はそんな自分自身に途方に暮れていた。
思わず口走ってしまったものの、何か考えがまとまっていたわけではない。
やや面食らったように振り返る青年の視線が痛い。
何をどうしたいのか自分でもわからないまま、何とか間を保たせようと思考を総動員させる。
ええと…そうだ!
「…あなた、名前は?」
「…好きなように」
おい。
速攻帰ってきた答えは、これまたすげない。
好きなようにったって困るんですけど…。
響子の言葉に出ない戸惑いを読み取ったのか、彼は重ねて続けた。
「いくつもある。あり過ぎてどれが本当なのかわからない。だから好きなように」
だからといって、まさかポチやタマじゃあるまい。
余程言ってやりたかったが、内心を表には出さず、響子は悩んだ末妥協案を提示した。
「じゃあ、その中であなたが一番気に入ってるのを教えてよ。別に偽名でも何でもいいよ。自分にとって耳なじみの良いのが本名でいいじゃない」
「……」
一瞬、その場に沈黙が満ちる。
彼は困ったように首を傾げ、
「…気に入ってる?」
「そう、あるでしょ。一つくらい」
何?この態度。
青年は幾度か躊躇うようにくちびるを開きかけては、閉じるを繰り返した。
表情こそ変わらなかったが、響子から目をそらす仕草も、何だかせわしない。
これはもしかして…。
いやいや、まさか。
この滅多に動じなさそうなタイプの青年が。
まさか…照れてる?
うろたえる姿を見られているのを自覚したのか。
そんな自分を恥じるように、彼は視線を横に向けながら、ぽつりと名乗った。
「……ファサード」
「ファサード?」
「そう。フェティが付けてくれた。僕があるべき姿でいられるように」
「フェティ?」
響子の問いかけを鉄面皮で綺麗に受け流し、ファサードは逆に尋ねた。
「…君の名は?」
「私?私は響子」
「…そう。逃げるんだ。響子。境界天秤が傾いたせいで今の僕には力がない。全てを語る時間はないけれど…ただ、これだけは忘れないで」
162Cmの響子は日本人の平均から言えば低い方ではなかったが、それでも二人の身長差はかなりある。
背をかがめ、ファサードは視線を合わせるように彼女の顔を覗き込んだ。
うろたえる響子に反して、北の海のような真っ青な眼差しは、どこまでも静かだ。
「僕は君を守るために来た」
「私を守るため?」
「君を守り、元の世界に返すために」
「――!ちょっと待ってあなた何で…!」
それを知ってるの?
喉元まで出かかった疑問は、言葉になる事はなかった。
急ではない。だがしなやかな強さで腕が引かれ、出そうになった悲鳴を何とか噛み殺す。
抵抗する暇すらなく。隠された筋肉が伝わるしなやかな2本の腕が、たっぷりとした外套ごと響子の身体を包み込んでいた。
「…こんな風に」
心地よいバリトンがまじかで響子の耳をくすぐった。
「ルル・セレドの腕に僕はまだ捕らわれている。今はここに来るのが精一杯だけれど、待っていて。必ず君を助けに来る」
「ええっちょっ…」
…落ち着け…落ち着け、自分。
頬を寄せたすぐ下に、脈打つ鼓動があるのを感じる。
カッと自分の首筋が熱を帯びるのを、響子は自覚した。
混乱こそしていたが、抗おうと思えば出来たはずだった。
それをしなかった…出来なかったのは、青年が向けてくる感情があまりにまっすぐで純粋だったからかもしれない。
例えば家族に向ける思慕のような。例えば鳥の雛が殻から出て初めて目にした人に寄せる、無償の信頼のような。
この人、見た目より子供なのかもしれない。
ううん、人と接し慣れてないだけ?
時間だ、と呟きが聴こえた気がした。
見上げると青年の姿が徐々に霞み始めていた。
それと同時にふわふわとした綿毛のような光が彼を包み込み、指先や髪にまとわりついては細かな粒子となって宙に溶けて行く。
どこかで見覚えのある光景だった。
「ま、待って…!」
二度目の願いは叶わなかった。
肩に回されていた腕の感触が、急激に頼りないものとなっていく。
焦る響子を安心させようとしたのか。
目鼻立ちすら判別付け難くなる中、響子は彼が笑ったように見えた。
慣れていないのがわかる、中途半端で何とも不器用な…けれど優しい笑み。
蛍のような淡い残滓を残し、青年はその場から姿を消した。
一人その場に残された響子は、しばし呆然と座り込んだまま動けなかった。
草の上は朝露でしっとりと湿っていたが、それどころではない。
まるで白昼夢。蜃気楼のような一瞬の邂逅。
ううん…違う。
ファサードはここにいた。確かにここに。
行き場を失った両の手の平を見つめ、響子はくちびるの上だけで囁いた。
何かを確認するかのように、ぎゅっとこぶしを握り締める。
「夢じゃない」
――まぼろしに、暖かな温度はないのだから。