4 せかいのかたち
闇の帳のその陰で 二つの月が契る夜
眠れる魔女の奥津城で
旧き盟約が甦る
真理を解く鍵よ 汝はもはや影無きもの
冷たきくちびるで 命を生み出し
全き願いは世界の天秤を傾ける
月影より生まれし闇の 望むままに
カルロス・マルクグラーフ著
『開闢の詩』第二章一節「眠りの森」より
***
――鳥の声が聞こえる。
ぼんやりとした覚醒前の意識で、響子がまず思ったのはそれだった。
日本の朝と言えばちゅんちゅん鳴く雀を想像するが、耳が捕らえたのは何とも馴染みのない鳴き声だ。
ウワウワウワッ ウワウワウワッ
何だかガチョウみたい。
しかも音量が凄い。普段使っている目覚ましの数倍の威力がある。
「うう~もう少し…あと五分お願いします…」
目を開けられないまま、窓の外で「起きろ~起きろ~」と甲高く鳴き続ける鳥に向かってお願いする。
まだ夜明け前なのか、まぶたに感じる明かりは控えめでほの暗い。
会社に行く時間には、大分早いはずだ。
お弁当…無理だ。コンビニで済ませよう…。
何だかやたら身体がダルく眠い。
早々に怠ける事を決め、ごわごわした感触の毛布に潜り込んだ時、トントンと響子の背中を誰かがはたいた。
はれ?
すると、またトントン。いや、ぽふぽふと言った方がいい、柔らかな触感。
当然、響子は一人暮らしだ。朝起こしてくれる同居人などいるはずもない。付け加えるなら彼氏もいない。
沙耶ん家に泊まったんだっけ?
独身最後の夜を一緒に過ごそうと約束した記憶は新しい。
寝ぼけて回らない頭で、もそもそと毛布から顔を出す。すると―――
「っ!」
間一髪。
響子は洩れそうになった悲鳴を飲み込んだ。
ボケていた脳みそが、水に広がるインクのごとく覚醒していく。
鼻先がくっつきそうなほど近くに、まん丸の赤い瞳があった。
その下には響子の拳大程のピンクの鼻。ピンピンと機嫌良さそうに自己主張するひげ。
もぐもぐとした可愛い口からは、某殺人鬼のチェーンソーも真っ青な凶悪な牙。
毎日ブラッシングしているのか純白の毛並みは艶々。天使のキューティクルだ。
どうやってお手入れしてるんだろう…いやいや、そんな事はどうでも良くて。
え~と。
「……(ぴょこ)」
起こしてくれたのかな?
お、おはようと言うべきだよね…。
「……(ぴょこぴょこ)」
ふと見れば、綿飴のような丸く短い尻尾がピコピコ高速で動いている。
面白い事に、響子と目が合うと速度が速くなるようだ。
もしや、なつかれている?
キラキラしたつぶらな瞳に気圧され、響子は愛想半分怖さ半分の変な顔で笑いかけた。
「ありがと。ヒース。ミリアムはシアのお手伝いかな?」
響子がシアニスの家に居候して、数日が経っていた。
安心出来る場所を見つけて気が抜けたのか、響子は数日間高熱を出して寝込み、親切な人々の手で手厚い看護を受けた。
後で知った事だが、この集落は教会が運営する訳ありの女性達の為の保養地で、響子が母屋と思っていたものは修道院と礼拝堂を兼ねた施設だそうだ。
それゆえ、医療の心得のある修道女が診療に何度も来てくれたらしい。
その甲斐あってか響子はすぐに回復し、今は起き上がって通常の生活しかり。細々とした手伝いなどもこなせるようになっていた。
大きく伸びをし、気合を入れてベッドから起き上がる。
透明度の低い歪んだガラスがはめ込まれた窓を開け放つと、涼やかな朝の空気が部屋に吹き込んでくる。
薄青を刷いた空は明るく、お天気は良さそうだ。
差し込む柔らかなを目で追うと、そこにはまばゆい光を放つ大きな天体と、その隣にひっそりとかしずく、霞んだ白い真昼の月が見えた。
響子がここが異世界である、と確信を持った要因の一つがそれだ。
朝靄を払い、今大地を照らす光は日光ではない。丸い大きな月が、太陽に成り代わる天空の女王として君臨しているのだ。
異世界である以上、星の位置や気候、環境なども違う事は理解していたが、昼でも日光並みの光量を誇る月にはさすがに驚いた。
しかもこの月は沈むことはなく、時間の経過によって光質を変え、時に形を変える。
天に留まったままなのだから、当然日の出や日の入りのように地平線に沈む場面などは見られないし、西へ東へ行き来するわけでもない。
まるで紙製の月みたい。
微細な天候や四季の折々に気配を凝らし、日常に取り入れてきた日本人の響子にしてみれば、何とも味気のない情緒に欠ける姿に思えた。
世界を隔てた異邦人。
つまり異世界人である、という認識をシアニスと響子双方が持つまでには、彼女が目覚めて意思疎通が可能となった後もそれなりの時間が必要だった。
当事者である響子すら正気を疑うような状況で、その「異世界」を見たことすらない人間にとっては、にわかに信じろと言う方が無理な注文だ。
「それにしても、あなたの言葉。異国から来たと言う割にはとても流暢ね、それに言葉遣いがひどく古めかしい…まるで私の祖母のようよ」
異国。最初、シアニスはこういう言い方をした。
受け入れやすい捉え方をしようとしているのが想像出来た。
確かにと響子は思う。世界は広い。同じ海と大地の上にあっても、想像することしか出来ないと言う点では、世界の裏側の異国も次元の違う異界もそうは変わらないのかもしれない。
まったくの別の土地から来ながら、なぜ喋れるのか。
言葉遣いに関してのシアニスの控えめな疑問にも、響子は答えを持ち得なかった。
彼女の耳に自分の言葉がそうやって伝わっているのが驚きだったし、息をするのと同じくらい自然に話せている自分も不思議だった。
話そう、と思って話すのではない。
内なる部分からこんこんと湧いてくる水のように、頭で考えたり変換しなくとも喉から流れてくるのだ。また逆もしかり。シアニスの言葉はそのままの形で意味を成し、響子の心にじかに届いた。
これってほぼ母国語に近い状態って事よね。
バイリンガルだろうと、例えすべての言語をマスターしていたとしても母国語は一つだ。
言葉を言葉としての認識がないまま意味を解し、尚且つ暗算などの計算時に、何語を使って答えを出したのかによってわかる。
たまたま私の脳の伝達神経が異常に発達してた…わけはないし。
それなら高校時代の英語の赤点はない。英検もTOEICも満点。今頃通訳や翻訳業界で、バリバリ働いていただろう。
ここに来ることになった経緯についても、響子に言える事は本当に少なかったと言っていい。
『仕事帰りに満月を見、目の前に獣が現れたと思ったら、森にいました』
面白くも何ともない、3節文で済むショートストーリーだ。
自分の身元を証明する必要がある以上、元の世界の知識や事情を詳細に語るべきかとも思ったが、文明レベルや価値観の相違を考えてその部分に関してはしばらく口を噤んで置こうと決めた。
無害な水溶液に未知の物質を流し込んで、有毒物質に化学変化するとも限らないからだ。
幸いにも好奇心満々で聞きたがるタイプではないのかシアニスは余り立ち入っては来ず、だが、その時の状況――異常なまでに月が輝き、見知らぬ獣に攫われたという所まで話を進めると、彼女の顔色は明らかに変わった。
「……異界からの召喚…いえ、それともマナガルムが意図してあなたを…?」
「召喚…?」
やっぱり…というべきか。
自分の想像通りと言っていい展開に、響子は反芻するしか出来なかった。
マナガルムというのは良くわからないが、あの獣の事だろうか。
「それって、その特別な力でこの世界に来てしまったって事?偶然ではなく誰かの意思で?」
「……召喚に属する天球術の中に、異界の者に呼びかけ使役する、魂寄せと言う術は確かにあるらしいけど。でも…それは…」
な、なに??
先を躊躇うように口をつぐんだシアニスの視線が、じっと何かを確認…いや、見極めようとするように響子を捕らえていた。
その厳しさにも似た真剣な瞳に、しばし言葉を失う。
わずかな沈黙の後、シアニスは目を伏せ、諦めたようにかぶりを振った。
「…私もそれほど術式に造詣が深いわけじゃないの。どんな天術士が係わっているのかはわからないけど。……ミリアムは言っていたの。マナガルム――白銀の獣――を見たと。それを追いかけて魔女の箱庭まで迷い込んだら、あなたがいたそうよ。ならばその獣が何かしらの要因を持っていることは考えられるわ」
「マナガルムって一体何なの?」
「少し長くなるけどいいかしら」
響子が頷くと、シアニスは暖炉の傍で船をこぎ始めたミリアムとヒースに毛布を掛け、食器棚から2つカップを取り出した。
火打石を使い釜戸に火を灯すと、お湯を入れた小鍋を直火に掛ける。
「私にエスタラジカが使えれば、こんな面倒ないのだけれど」
肩を竦め、響子に向かってシアニスは自嘲気味に微笑んだ。
「エスタラジカ?」
当然の事ながら、響子にとっては初めて聞く単語だ。
「そうね。まずはそこから説明しましょうか」
シアニスは幼子に含み聞かせるように、ゆっくりとした口調で話し始めた。
エスタラジカ。
神から与えられし神秘の言葉。世界の恩恵を担う、言語の一つ。
この世界の天球術――響子の世界で言う魔術は、大きく分けて三つの分類と言語に分かれるのだという。
四大元素などの精霊術や、元素の分子運動を改変して炎やいかづちを落としたりする、攻撃を主とする星精術。
天空の運行を見定める占術や召喚、魅了や幻惑、転移など、他者の力を用いたり精神に働きかける補助効果が多い月精術。
護法騎士や聖職者などが、癒しや安楽、治療などの為に使う陽精術。
特殊な者を除き、大方の人間は長年の研鑽のうちに、最も己の才に適したどれかの系統に力の質が固定する。2種3種と覚えること自体は可能でも、体内に宿るプラーナと呼ばれる力の源が複数の力に拒絶反応を起こし、効果が半減するばかりか呪を唱える際に削られるプラーナの量も増大するのだと言う。
ただ、別れてはいるがゆえに術士達の研究が進み、高度な術士になると自己流の応用を加えて、他の分野に属する天球術の効果を出せるようになった。
例えば、モントラジカの術士が空間操作を応用して、自然界のマグマや竜巻を呼び出して攻撃したり。
ソルテラジカの術士が活力を与えるのではなく、相手から奪った力で自分の傷を癒して攻守一体の法としたり。
微細な調整さえ出来ればエスタラジカの術士でも、霧を使った目くらましや、体内の水分に働きかけて回復術を行使する事も出来る。
なので、例えば同じ医療系という職業一つとっても、系統が違うという事も多々あった。
神官などのハイクラスになるとソルテラジカが殆どだが、街の治療士の中には他の系統も多数存在する。モントラジカの錬金術師、エスタラジカの精霊医師などがそれに当たる。
もちろん、一系統の特質を操るだけでも基本的に才能がいるし、食べていくまでになるには努力と年月が必要となる。
だがそれはあくまでも大掛かりなものに関しての事。爪先に火を灯したり、干しっぱなしの衣服の湿気を取ったりなど、ごくごく簡単なものであれば大多数のものが道具や呪文に頼らずとも感覚で使えるらしい。
先の言葉どおり、シアニスに関してはそういった他の力に触れ、行使する能力がまったくないということだった。
生きている以上、身のうちにあるプラーナの存在は感じる。けれどそれを操り力とする事がどうしてか出来ないのだと。
ふとした時に出る、彼女の劣等感に似た苦笑を見るに付け、当然、そういった摩訶不思議文化のない響子にはピンと来ない。
来ないが、実生活に根ざした力が使えない不便さを想像することは出来た。
が、例えば全自動洗濯機があるのに洗濯板しか使えなかったり、冷蔵庫ではなくわざわざ氷を取り寄せて氷室を作ったり。
要するにそういう事なのだろう。
「マナガルムは伝説の獣よ」
ことりと湯気の立つカップを互いの前に置くと、シアニスは静かに切り出した。
ふと視線を暖炉上の壁に…正確に言うなら、壁にかかった古ぼけたタペストリーに投げる。
響子も釣られる様にそちらを見た。
おそらくこの世界の宗教的な意味合いを含んだ装飾なのだろう。
天には赤と蒼の二つの月。
中央に花冠を被った人間が金の糸で刺繍されている。
女神サミアド。砂と月を司る少女神。
右手に捧げ持つのは砂時計。左手には天秤だろうか。
つるりとした石造りの椅子に腰掛け、寄りかかるように下ろされた左肘の下には、狼とも犬ともつかない白銀の獣が鎮座している。
そして―――。
あれ?
響子は内心で首をかしげた。
右肘の下にも獣が描かれている。丁度対象になるように作図されていて、こちらは金色だ。
だが、何よりも響子が印象的に思ったのは、その2頭の獣の首や脚に巻き付いている頑強な鎖の意匠だった。
鎖は主である女神をすり抜けて、天上に浮かぶ2つの月に向かって、それぞれ螺旋を描いて伸びていた。
何だろう。何か違和感を感じる。でもどこが?
頭を捻る響子には気付かず、シアニスは続ける。
「女神サミアドの左座に位置する瑞獣だという説もあるけれど、凶兆の前触れだという学説もあるわ。彼の獣が過去に現れた出でた時、それは『月影より生まれし闇』が甦った時でもあるから」
「月影より生まれし闇?」
「女神がこの世界に降り立った時、天には禍々しく荒れ狂う赤き魔神がいたそうよ。女神はこの地に災いをもたらしていた魔神を退ける為に1000夜戦い続け、やがて勝利を収めた。けれど魔神は今際の際に女神から神格の一つ、普遍の力を奪い取り、彼女は常に形を変えては目覚めと眠り。誕生と死の流れを巡る事を余儀なくされてしまった」
響子は頷きで返した。
なるほど。月の変化を比喩した神話だ。
「数百年に一度、二つの月が重なる時。女神が『死』を迎える月蝕の夜に、封じられていた魔神『月影より生まれし闇』は甦る。そしてその先触れとなるのが神獣マナガルム。…勇者を導く標。神殺しの力を持つ者を闇の御許へいざなう…と伝承にはあるわ」
「じゃ、じゃあ、その闇が復活するって事?なの?」
まさか、その“倒せる者”ってのが、私なんてオチじゃあ…。
が、ありがたくも響子の不安を一蹴するように、シアニスは首を振った。
「まさか。ノイシュタットの勇者アンリによって、ファーマの塔に封印されたのが今から50年前。今回また、なんて。歴史書の紙だって黄ばんでさえいない。いくらなんでも伝説が現実になるには早すぎる時間だわ」
「勇者…」
どうやら既に先達がいらっしゃるらしい。
カミサマの次は魔王。魔王様の次は勇者様ですか…。
シアニスは真面目に言ってるのだろうが、元の世界の手垢にまみれた『勇者』像しか知らない響子にはどうも神聖視は出来そうにない。
「ミリアムの言葉を疑うわけではないけれど…見た獣がマナガルムだとは限らないし。魔女の箱庭にいたなら、特徴が似ていた近隣の村人のイビスかもしれないわ」
そう言いながらも、彼女自身、その説には半信半疑と言った態だった。
「あなたがいた魔女の箱庭は、生物がいない禁忌の森なの。いつからかはわかないけれど、生き物の育成を阻む結界が張られていて、普通の人間は本能でそれを恐れて近づかないわ。貴重な薬草や山菜を取りに、薬師のイビスが入るくらい」
「ごめんなさい。ちょっと聞きたいんだけど…イビスって何?」
何となく、ヒースのような人と共に在る動物である事は察しがついていたが、きちんと聞いておきたい。
「あなたのいた所にはイビスはいないの?」
「うん…多分…」
シアニスは少し驚いているようだった。
どう説明したものか迷う。
人間と生活を共にする家畜や、ペットというカテゴリーはあるが、何かが違う気もする。
「イビスは…まだ人が知恵や技術を手にする前、女神が脆弱な人の子に与えたという贈り物よ。従順で賢く、人にはない力を持った獣の半月」
細かい謂れを省き、シアニスは簡潔に説明をしてくれた。
この世界の人間は、生まれて意思表示が明確になったくらいから教会で洗礼を受けるらしい。
何だか元の世界のお宮参りや七五三、カトリックの儀式と被るが、参加が任意なそれらと比較して重要性はかなり違う。
子供たちは各地にある神泉という泉に身を浸し、儀式の中で神祇官から米粒ほどの小さな宝石を貰い享ける。
それに自らの未だ定まらない力、プラーナを込めると、泉の力を呼応して石は急速に成長し、拳大程の卵が出来る。
それがイビスだというのだ。
イビスはその者の心の形や秘められた才能、持つ力の性質によって、それぞれ姿かたちが変化するのだという。
「あ、そういえばシアは?シアにもイビスがいるんじゃないの?」
何気なく聞いた一言に、シアニスは一瞬目を見張り、やがて苦笑と共に首を振った。
「…わたしにはいないの」
「え…?」
「いえ、持てなかったという事かしら。事情があって、洗礼を受けたのはずっとずっと後になってからだった。私が享けた卵は孵化する事なく消滅したわ…」
儀式は自我の境界が曖昧な、ごくごく幼少期に行われるのだという。
年を経すぎると卵の形を形成することすら出来なくなる。よしんば形に出来ても、シアニスのように孵化する事無く化石のようになって消滅する。
原因は究明されていないが、成長しきってプラーナの形質が定まってしまう事がイビスに受け入れられない要因なのではと言うのが一部の学者達の通説らしい。そしてイビスを持てなかった者は、その大半が夭折する運命にあるのだそうだ。
だから子の将来を心配する親達は、早いうちから必ず洗礼を受けさせる。
イビスを得られないというのは、人生のごく初期の時点で不遇の宿命を負う事と同義なのだ。
だが、世の中にはいろいろな事情で普通の事が出来ない境遇の者は少なからず存在する。それの主たる者が貧困層や孤児だ。
儀式には神祇官に渡す布施が必要になる。
決して不当な値ではなく心遣いと言えるほどの額だそうだが、その日のパンにも困る家族にとっては、冥途への船賃にもなりかねない。
シアニスは強いな…。
女同士でも目を奪われる美貌と深い情。聡明で隙がない佇まいのシアニス。
なのに、世の大多数が得られる生涯の友と力を持たない彼女。
それは異世界の人間の常識で計れないほど、大変な事なのではないのだろうか。
夭折と言う曖昧な単位が具体的な年代を謳っているわけではないにせよ、きっと不安で仕方がないだろう。
出家したように片田舎で暮らしているのも、もしかしたら差別などもあるのかもしれない。
でも彼女はそれを表には出さない。
いろいろな事を自分の中で消化して、行き着くべき答えを見出しているようだった。
具体的な過去はわからないし、根掘り葉掘り聞こうとも思わないが、若さに不似合いな相当な苦労をしてきた事は伺えた。
「でも、響子。あなたは異界人だけど、もしかしたら自分のイビスを持てるかもしれない。すこうし年齢は遅いけれど…。イビスは持ち主の隠された才能や運命を体現するの。あなたがこの世界に来たことになんらかの意味があるなら、イビスがそれを教えてくれるかもしれないわ」
「ううーん…」
そう言われてもなぁ。
そもそも、すこうしって…少しで通用するか?!
眼差しや口調に何となく違和感は感じていたのだが、彼女は自分をいったい幾つだと思っているのだろう。
怖くて聞けない…。
二度と立ち直れなくなりそうだ。
仮にイビスを持てたとしても、困る、というのが響子の本音だった。
彼女としては速やかに滞りなく、平穏無事五体満足で元の世界に帰るつもりなのだ。
己の分を知ると言うのは、生きていく上で大事な要素だ。
身分不相応な夢物語に憧れる年代はとうに過ぎた。
美形な王子様との恋愛も、世界を救う冒険活劇も、実は数奇な運命に導かれて…的なドラマチック要素もまったく欲しくはない。むしろ不要。
今、彼女がもっとも切望しているのは八畳一間の自分の城と、新調した羽毛布団で目覚めるいつもの朝だ。
仮にイビスを持ったとして、元の世界にまで連れてこれるのか。いや、それ以前に元の世界でそんな巨大(かもしれない)生物を連れ歩いていたら目立って仕方ない。最悪、未知の生物として特殊部隊だか軍だかに捕らえられ、実験動物として研究所行きだ。
「いや、いい!平凡一番!そもそも元の世界には連れていけないと思うし…主を失ったイビスってどうなるの?」
ふとした事から出た素朴な疑問だったが、途端、シアニスの小さなくちびるがきゅっと引き結ばれ、思案するように瞳が伏せられる。
「生き別れ、というのは基本的にないわね。契りの効力は魂にも肉体にも刻まれる。つまり永劫よ。主が逝去すると、イビスは消滅する。主を探して同じ世界へ旅立つのだと言われているわ。そしてイビスが不慮の事故や寿命で先に逝った場合、後を追う人間も多い」
「それってつまり…」
後味の悪さを感じながら、響子は語尾を濁した。
そうだとも違うとも答えず、シアニスはひっそりと微笑んだ。苦い笑みだった。
「……私ね、イビスを持てなくて良かったって思うの。最後まで一人じゃない。寂しくない、って考えの人もいるでしょう。共に生き、共に散る。それを美しいという人も少なくないと思うわ。でも―」
小さくかぶりを振る。
重い空気とは裏腹に、螺旋を描くたわわな髪が背で軽やかに弾んだ。
私には、無理。
「何よりも大切な相手なら、真の絆で結ばれた相手なら、その命を全うするまで生きて欲しい。そして逆に先立たれたらその子の分まで生きなければと思う。殉死なんて聴こえはいいけど生贄と一緒じゃなくて?死んだ後の審判なんて誰にもわからない。でも、確かなのは生まれる時、人は独りなのよ」
シアニスの言いたい事が、何となくであるが響子は理解できる気がした。
個で生まれてくるのなら、追いかけることにどれ程の意味があるだろう。
全てを投げ捨てた先にあるものが、愛しい人との逢瀬ではなく無明の闇なのだとしたら。
「死は哀しいし、苦しいわ。イビスを喪えば生活だって厳しくなる。けど私たちは生まれながらに別離に対する強さを持ってる」
そう。人は元来寂しく生まれ付いている生き物なのだ。
それは身寄りがないとか、ホームレスだとか、そういう表面的な境遇に限った事ではなく。
家族がいたって、豊かな財産に囲まれていたって、根本的に人は孤独であり、個なのだ。
だからこそ自分と言う国家を守るために強く在ろうと努めるし、他者との繋がりを大切に出来る。
それが生きるという事。
なのに寂しいからと生命を楽な方に曲げる行為は、ナンセンスに過ぎる気がした。
「教会はイビスの殉死を神の恩寵として、尊いものという教えで喧伝しているわ。けれど、私には人が乗り越えるべき試練を放棄しているような気がして仕方がないのよ…」
ふっと、儚く消え入りそうな。
蝋燭の灯火を吹き消すようなシアニスの呟きは、それから長らく響子の耳に残り続けた。