3 御使い来たりて
「や、やっと着いた…」
残念ながら時計を持ち歩く習慣がない上、落としたのか携帯を入れたカバンもない。
正確な所は不明だが、体感時間にして歩くこと2時間弱。
少女に先導されて、いい加減、息も切れ切れになった頃に辿り着いたのは、傾斜のある屋根が特徴的な白い建物の集落だった。
う~…こんなに遠かったの?
気温は低いはずなのに、首や脇、背中などコートの中はほんのりと汗ばんでいる。
やはり絵だけでの会話には、距離感などの曖昧な基準をうまく伝える術がない。
いや、案外少女にとっては「遠い」のレベルに入らないという可能性もあった。
倒木や枝をかきわけ進む様は手馴れたもので、ここに来ても疲れた素振りすらない。
比べるのも間違っているが、当然Lサイズうさぎもピンピンしている。きっと日頃から、こういった自然の中を駆け回っているのかもしれない。
優美な造りの門をくぐり、少女とウサギは勝手知ったる様子でどんどん中に入っていく。
美しい生垣に囲まれた母屋を中心に、庭園を挟んで敷地内にはいくつかの離れが建っているのが見えた。
少女の目的地はその中の一つらしく、母屋にはまったく目を向けず、時折、響子の方をちらちら見ながら進む。
どうやら迷子にならないか心配されてるらしい。
情けない…。
5、6歳の少女を気遣わせてると思うと、複雑気持ちだった。
でも、確かに今の響子は幼児以下だろう。ここはどこ?から始めなければいけないのだから。
『シア!!』
急に喜色をあげて、少女がぱたぱたと走り出した。
ウサギも釣られるように後を追う。
その先には離れの一つがあり、玄関の扉の前には女性とおぼしき人影が見えた。
「ミリアム!!」
人影が切羽詰った様子で、少女のものであろう名前を呼んだ。
お母さん…かな?
余程心配だったのだろう。
華奢な両腕を一杯に広げ、包み込むように少女を抱きとめると、力が抜けたようにその場に膝を突いた。
「ミリアム!ああ、良かった!私の小さな風!…いけない子。心配したのよ」
はしゃいでいたのが一転、花がしおれるようにしゅんと俯き、反省顔になる少女。
女性はその小さな額にコツンと自分のそれを寄せ合うと、怒っているわけではないのよ。と言うように柔らかく微笑んだ。
「ヒースが一緒だから心配ないとは思ってたけど…。あの森は禁域の一つだから……あら?]
そこで初めて女性の淡い瞳が、響子に向けられた。
「お客様?」
白鳥のように優美な細首が、怪訝そうにこころもち傾けられる。
ドキンと不自然なまでに響子の心臓が跳ね上がった。こころなしか頬も熱い。
ちょっと待って、私そっちの気はないですから!!
でも、この不自然な鼓動が、性別の問題でない事も自覚していた。
ミリアムが共に暮らしていると言っていたのはこの女性だろう。
螺旋を描きながら背を覆う、豊かなクリームブロンド。
大理石の細面に小さな鼻。ふっくらとした薔薇のくちびる。
砂糖菓子を思わせるすみれ色の瞳は生き生きと表情豊かで、けぶる銀の睫が名工の細工物のように眦に飾られている。
服装こそ質素なものだったが、それすらも彼女の美しさを返って際立たせ、損なうことはない。
おおよそ、響子が今まで人生で見てきた中で、かなりの上位に位置する美人と断言できた。
ハリウッド女優なども同じ人間とは思えなかったものだが、この女性からはそういった華やかな人種特有の俗っぽさはない。
険しい渓谷で誰の目にも触れることなく咲く、一輪の可憐な花。
控えめだが誇り高い、孤高の美を連想させた。
でも、似てないな…。
少女の母親にしては顔立ちや人種の特徴がまったく違うし、歳が若すぎるように思う。
目の前の女性は大人びてはいたが、まだ20歳は行っていないように見えた。
「あなた…この辺りの人間ではないようね。旅の方?」
「シア!」
自分を抱きしめる家族の不審を敏感に感じ取ったのか、ミリアムが早口で何事か囁く。
すると、女性の形よい眉が困ったように顰められた。
「マナガルム?…まさか…」
あれ?
独り言のような女性の呟きを聞いたとき、響子は先刻からうっすらと感じ始めていた違和感の正体を知ることとなった。
まさか…まさかって言ったよね?この人?
さっきはお客様?って…もしかして…。
「あの、私は瀬名響子と言います。瀬名が姓で響子が名前です。怪しいものじゃありません!いえ、服装とかかなり怪しいですが、それはいわゆる流行の違いと言うか今年はミリタリー系が来てましてですね…」
おぃ、何言ってるんだ。わたし。
勢い込む舌とは裏腹に、もう一人の自分が冷静に突っ込む。
かえって逆効果では?と言う事実は置いといて、響子はどうにか「不審者」から「無害な迷子」に格上げしようと必死だった。
幼い少女、ミリアムの言葉は相変わらず理解不能だったが、女性の話す言葉はすんなりと意味が形を成して響子の心に入ってきたのだ。
名乗られて多少は警戒を解いたのか、女性の表情のこわばりが幾分か緩んだ。
「セナ・キョーコ?ミリ…た?」
言ってることわかるし、通じてる!!
嬉しさのあまり、響子の目がじわりと潤んだ。
大仰というなかれ。言葉の壁は、こういった状況では第一に来る関門だ。
たいていの小説では自動翻訳的流れで、主人公があまり言葉に苦労することはない。
「随分ご都合主義な設定だな」なんて、斜めな視線で構えていたものだが、いざ自分が同じ境遇に置かれると、これほど在り難いことはなかった。
我ながらゲンキンだが、お約束展開ブラボー!ご都合主義バンザイだ。
「響子です。瀬名響子。日本という国から来ました。教えてください。ここはどこなんでしょうか?森の中の洞窟で倒れていたんです」
矢継ぎ早の質問は厳禁だと理解していたが、気持ちが追いつかなかった。
聞きたいことがたくさんあり過ぎて、本当は口が一つでは足りないくらいだ。
それでも響子は努めて冷静であろうとした。心の堤防が崩れかねない、「帰りたい」という言葉を飲み込んだのもそのせいだ。
「ニホン…」
まぶたを閉じ、ゆっくりと舌の上で響きを確認するように、女性は呟く。だが、すぐに申し訳なさそうにかぶりを振った。
「ごめんなさい。わからないわ」
「そうですか…」
そうだよね…。
予想はついていたが、落胆する気持ちは止められない。
その様子を見兼ねたのか、それとも響子の言うことに興味を引かれたのか。
女性は傍らの少女の手を取ると、響子を招くように入り口の扉を腕で指し示した。
「何か事情がありそうね。ええと、キョー…響子。私はシアニス。シアニス・バカラ。シアでいいわ。この子は娘のミリアム。三日月ウサギはヒース」
「ヒース?ピーターではなく?」
「?ピーター??」
「いえ、何でもありません。こっちの話です」
ううむ。やっぱり通じなかったか。
等身大のウサギと言えば、イギリス原産の某キャラだろう!と思ったのだが。
「ちょっと大きくて怖いかもしれないけど、ミリアムのイビスだし心配はいらないわ。優しい子よ。仲良くしてくれると嬉しいわ」
「え、あ、はい…ええと」
イビス?何だろう?
シアニスの言葉を脳裏で反芻しながら、今言われた事を必死に整理する。「それはつまり…」
「正直、森から来たなんてただ事じゃないし、女の子とはいえ、あなたを信用していいかわからないけど。ミリアムは人を見る目はあるの。困っているようだし、話を聞かせてくれるかしら。何か力になれるかもしれないわ」
彼女の声音には幾ばくかの不安や躊躇いもあったが、補ってあまりある真摯な優しさ。他人の心や生き方に寄り添おうとする意志があった。
社交辞令ではない。本当に心配してくれているのだ。
何か力に。
異邦人にこれほど心強い言葉があるだろうか。
響子は思いっきり断言した。
いや、ない。
この人、顔だけでなく性格も優しいんだな。
それとも、ここが『そういう場所』なのかな。
殺伐とした現代では考えられない。
駅で倒れた人間がいても、知らん振りするような人がいるくらいだ。
「すみません。ありがとうございます。本当にすみません」
「そんなに謝らないで。今日はもう遅いし、とにかく夕飯にしましょう。狭い所で申し訳ないけど…」
「とんでもないです!」
この寒空の中、野宿することに比べたらどこだろうと天国だった。
聞けば、今の時期ミリアムはヒースの寝床で一緒に寝ているため、丁度良くベッドが一つ開いているのだそうだ。
招き入れらるまま扉をくぐり、響子は単純に自分の幸運を天に感謝していた。
なぜ、こんなにあっさり受け入れられたのか、疑問に思うこともなく。
日が落ちて雪がちらつき始め、大降りになる前にとシアニスは家の傍に小さく整えられた菜園で、香草を摘んでいた。
あの突然の訪問者はと言うと。
滅多にないお客に浮かれたミリアムに手を引かれ、家の中をいろいろ案内されているらしい。
言葉の壁はあるものの、ミリアムはまだやわらかな心を持つ子供。
すぐに手振りで会話する事に慣れ、時折、子供部屋から楽しげな笑い声が響いてきていた。
それを心地よく思いながら、ぷちぷちと丁寧に葉を摘んでいく。
今日は人数が多いので、香草を使って臭みを消した、羊のミートパイだ。
さくっとした折り重なる生地に、ほろほろにほぐした肉と酒、レッパルという野菜を水分がなくなるまで煮込んだソースをぎっしり詰める。
仕上げにとろりとした黄金の卵ソースをかけて完成。
噛めばこんがり香ばしいパイ皮の間から肉汁が溢れ、煮込んだ野菜のうまみとこってりとした肉の味が両方楽しめる。
シアニスの得意料理の一つであり、ささやかな家族のお祝い事には必ず出す一品だった。
客人の口にも合うと良いのだけれど。
嫌いだと言う人はあまりいない定番料理だが、今回ばかりは自信がない。
珍しい光沢のある生地で作られた上着に、普通の女性ではありえないくらい短い膝丈のスカート。
あちこちに付けられた何かの動物の被毛は豪勢で、最初は手垂れの狩人か、噂に聞く北方を守護する女性騎士かとも思った。
細い体つきからすぐに違うとわかったが、これが普段着だと言うなら文化の乖離は一目瞭然だった。
気になることもある。
「何かの先触れ…?」
初めて自分が客人と顔を合わせた時、彼女の小さな娘は確かにこう言ったのだ。
『シア、月の獣を見たの!シアがお話してくれた通り真っ白で綺麗だったわ。ヒースが追いかけたら、この人がいたのよ。きっと女神様の御使いだわ』
こうまで無防備に他人を迎え入れる事に決めたのは、一概に響子が無害で信用に値すると判断できたからではない。
このミリアムの一言があればこそだった。
黒い髪と瞳。月色の肌はまるで夜の世界を体現したようだとはしゃいでいたミリアム。
この大陸とはまったく系統の異なる面立ちは、造作どうこうより物珍しさが先に立つが、幼い娘にとっては返って神秘的に映るのだろう。
いや、あの喜びようは、それに加えて同じ異民族と言う同胞意識もあるのかもしれない。
なまじ聡いゆえ、義母の前でははっきりと言葉にせずとも。
「…子どもの成長は止められないわね」
響子――不思議な韻律を刻む名前。遠い国から来た、見慣れぬ娘。
どうしてこの国に来ることになったのか。
なぜ『魔女の箱庭』にいたのか経緯は不明だが、ひどく疲れているように見えた。
ただでさえ女性の体は環境の変化に敏感だ。まずは食事を取らせ、ゆっくり休ませなくては。
話はそれからだ。
香草を摘み終え、今夜の夕食用と保存用に分けると、シアニスは竈に火を入れるために厨房に向かった。