2 不思議の国の少女と兎
「……ん…」
響子が最初に感じたのは、頬に当たる湿った土の感触だった。
次いで遠くから反響して聴こえるピトンピトンという水音と、鼻腔を突く苔むしたにおい。
じかに土に触れた手の平は冷たく凍えていて、気温が低い中かなりの時間自分がこうしていた事がわかった。
ここは…?私、どうしたんだっけ?
億劫で働かない頭をどうにか再起動させ、曖昧な記憶を呼び起こす。
えっと…確か…。
脳裏に甦る、ましろの月と青い双眸。
この世のものとも思われぬ、美しい光景。
途端、すっと冷水が流しいれられたように意識が明瞭になった。
「そうだ…!あのライオンもどき!」
目を開くと、そこは真性の闇。
文字通り一寸先すら見えず、周囲に目を凝らしても灯りの気配はない。
盲目な上に、自分の居場所や状況すらわからない恐怖が、背筋をざわざわと這い登る。
パニックになりそうな、いやむしろなってしまいたいという願望を紙一重で押さえ込んで、響子は軽く深呼吸した。
とにかく状況を把握しなければ。
じめじめした地面にいつまでも顔を付けているのも具合が悪い。
どのくらい倒れてたんだろ…イタタタ…うわ、背骨バキバキ!
ポキポキと小気味良い音をさせて上半身を少し起こし、身体の下にあった右腕を少しずらす。
途端、何とも形容しがたい痺れが、響子の上腕から指先にかけて走った。
ぬわああああっ!!
「ぉおおぉ~~~!!」
呻きの半分以上は、声にならない声として口の中で消えた。
それでも充分に妙齢の女性らしからぬ情けない悲鳴なのだが、当の本人はそんな事構っていられない。
血の巡りの悪くなった右腕の感覚は地獄に等しい。
「…………心頭滅却、火もまた涼し……」
オットセイポーズのまま、じんじんと響くデリケートゾーン(間違ってはいない!)を微動にもさせず、しばし嵐が過ぎ去るのを待つ。
天井が高いと思われる空間の作用か、間抜けにも遠くで「ぉおおお~」という自分の叫び声が反響しているのが聴こえた。
人気がないからいいが、こんな姿を誰かに見聞きされでもしていたら回れ右して地球のマントルまで穴を掘ってしまいたい。
痺れがなくなって来た頃を見計らい、、響子はゆっくりと膝を起こした。
立ち上がり手足を振ってみるが痛みはない。幸いなことに怪我はしていないようだ。
暗闇に目が慣れてきたせいか、ぼんやりとではあるが辺りの様子が伺えた。
水音や湿度から響子が予想していた通り、ここはどこかの鍾乳洞のようだった。
天上からつらら状に釣り下がった、いくつもの鍾乳石。
某ジョーンズ博士の物語に出てくるような光景は、一歩足を踏み出せば落ちてくるトラップのようで、自然のものだとわかっていても怖い。
「近くに水場でもあるのかな…」
喉がカラカラに渇いていた。
石灰岩が地下水などで侵食されて、地殻変動で出来たのが鍾乳洞だったはずだ。
確か近くに川や湖がある事が多かった気がするのだが。
生憎、それを知ったのもたまたま流れていたNHKの特番だ。記憶はもはやうろ覚え以下と言ってもいい。
ううう…こんなことならちゃんと見とけば良かった…。
完全インドア派の自分がこんなサバイバルな状況に置かれるなんて。
NHKを不要と言い続け、「TVありません」で誤魔化してきた天罰が落ちたのかもしれない。
何にせよ、このままここで来るかもわからない助けを待つ事は出来ないだろう。
遭難者は動かないのが鉄則だが、ここがどこかもわからない上、やたらと気温が低く寒い。
よくよく見ると、本当に微かだが遠くに白い光が漏れているのが見えた。出口かもしれない。
響子は意を決して腰を上げた。
地下水の染み出した足場はあまり良くないが、オフィスのパンプスではなく通勤用のスニーカーを履いていた事が幸いだった。
視界は悪いが、壁伝いにゆっくり行けば転倒は防げるだろう。
あと祈るのはぶよぶよ系の洞窟動物(洞窟の中で独自の進化を遂げた動物・実在する)などに遭遇しないことだ。
「おっとと…」
急に立ち上がったせいか、早速バランスを崩し、よろめきかける。
咄嗟に地面に手を付くと、指先にコツンと石や岩とは違う軽い感触が当たった。
「何だろ…」
膝を突き、手探りで恐る恐る確かめると、細長い形状の棒。杖だろうか。
感触からすると木で出来ているらしく、表面には何か彫られているのかわかった。
不思議なことにこんな所に放置されていた割にはしけっておらず、きちんとやすりで磨かれたらしい滑らかな手触りは、人工的に作られた意図を感じる。
どうするか刹那悩み、結局響子はそれを持っていくことにした。
長さや握った感じが、まだおぼつかない体の支えにするのに丁度良かったのだ。
「窃盗にはならないよね…こんな所に落ちてるわけだし」
『NPO法人寄贈*○○ホーム』とか彫られてたらどうしようと悩みつつ、出口とおぼしき光に向かって彼女は歩き出した。
旗色が悪い。
顔を幾分青ざめさせながら、響子は周囲を見渡した。
洞窟から出ると、そこは鬱蒼と生い茂った森林だった。
どこか、なんて自問したところで、当然答えは出ない。
ただ、頬に当たる澄みきった空気の冷たさは、温暖化の騒がれる最近では覚えのないもので。
周囲に遊歩道らしきものなく、人の踏み入った形跡のない事を考えると、人里が近くにあるとは考えにくい。
何だかひどく嫌な予感がした。
ここまで来ると鈍い響子でもわかる。確信に近い予感だ。
が、はっきり言って、誰かに逃避しようがないくらい現実を突き付けられない事には、リアクションに困るのである。
苦節27年。勤続7年。
満員電車の痴漢、夜道のひったくり、物陰から登場する全裸の変質者。
いろんな人間と遭遇したし、今回ほどではないが珍事もあった。
この場所にたどり着いた経緯こそ普通ではないが、蓋を開ければなんて事はない。
ここは長野かどっかの山中で、寝ている間にごく普通に凶悪犯達に誘拐されてきただけかもしれないのだ。
少なくとも日本の生態系を疑うような巨大な獣に拉致され、見知らぬ国で目覚めるよりかは、いくらか現実味がある。
月から音が聴こえるだの、自分の身体が発光して消えていっただの。
かぐや姫じゃあるまいし…。
いや、この流れからするに異世界トリップファンタジーとでも言った方が妥当か。
摩訶不思議な現象の後、見知らぬ場所で目覚め―――
「なあんてね…はは…」
思考を強制的にストップさせ、口の端を無理やり上げると乾いた笑いを漏らす。
疲れてる。そう、自分は疲れているのだ。
「そもそもそういうのの主人公は女子高生以下と相場が決まってるのよ。剣道部か弓道部で美人で正義感が強くて。戦いがイヤでドラクエの2択で『いいえ』を選び続けるような、小市民なオバサンが巻き込まれるわけないんだから」
偏見に満ちた自虐ネタが空しく響く。
異世界ファンタジーが真実であった場合はどうするのか。響子はあえてその可能性を無視することにした。
周囲の植物は見慣れないものが多かった。
楓や樺に似た樹。潅木に自生するヤドリギとおぼしき樹木も目にしたが、植物に詳しくない響子はそうだと断定出来ない。
見上げた木々の隙間から垣間見えるくもり空には、こうもりのような鳥の影がいくつも飛び交い、ギャーギャーという不吉な鳴き声がこだましている。
例え真実が近い所をかすっていたとしても、見ないフリをしなければ、怖気づいて足が止まってしまいそうだった。
ごくごく基本的な不安がずっと頭から離れない。
たとえばここが元いた場所から遠く離れた土地で、誰かに会ったとする。その誰かは果たして自分と友好関係を結べるような存在なのだろうか。いや、例え相手がそうでも、純日本産の平和ボケした自分には許容出来ない――外見にしろ、性質にしろ――可能性がある。
「小説とかだと、異世界で人に会ったばかりの主人公って、大抵コスプレ会場だとかドッキリだとかって思い込むのがパターンなんだよね~」
震える声音が口調を見事に裏切った、去勢丸出しのセリフを呟いた時だった。
「人の…声?」
響子の耳が、草を踏みしめる音と人の息遣い。こちらに向かってくる気配を捕らえた。
「一人?結構遠い…500mくらい?…でも速度が速い…」
あれ、何でわたしそんな事わかるの?
無意識にとはいえ、自分が口にした人間離れした言葉に愕然となる。
自慢にもならないが、決してを3乗させてもいいくらい自分の五感は鈍い。
父方の遺伝的な要因で耳鼻科は弱く、早口で言われると人に何度か同じ質問をしてしまうくらいだ。
視力は高校までは2.0あったが、IT企業の宿命か1日10時間以上のPC生活で、すっかり悪くなってしまっていた。
それがどうだろう。言われて見れば周囲の色も質感も鮮やかに映る。遠くまで見通せるのは空気が澄んでいるせいだと思っていたが、視力にも変化が出ているのかもしれない。
そりゃ、このまま行けばレーシックかなとは思ってたけどさぁ。
この「キセキ」を思わせるストーリー展開は、響子にとってはちっともあり難くない流れだった。
嫌な予感倍増だ。
バキバキと重たげな音を立てて、傍の茂みから何かが突然転がり出てきた。
先ほど感じた気配の主か、現れたのはウサギ。
真っ白な被毛。ルビーのように真っ赤な目。コロコロした体付きは何とも微笑ましく愛らしい。
そこまでなら動物が嫌いではない響子の事。駆け寄って撫でて抱きしめたかもしれない。
だが、ウサギはただのウサギではなかった。
「で、でかい…」
兎に角でかい。ウサギだけに。
こんな時に出てくるのが、つまらない冗談なのが情けない。
ネズミの王様、カピバラのウサギ版と言ったところか。
恐らく、小学校高学年の児童くらいのスケールだろう。
等身大のぬいぐるみ的外見は、見ようによってはメルヘンともいえなくもない。
だが、メルヘンどころか猟奇小説になりかねないモノが、その丸く愛らしい口から強烈な存在感を持って生えている。
牙だ。
響子がウサギと某お笑い芸能人のデフォルトとして認識しているような、控えめ(?)な出っ歯ではない。
サーベルタイガーを思わせる、三日月の刃。
背筋に震えが走る。
可愛いなどと、どうして一瞬でも思ったのだろう。
獲物を捕らえ殺す為に進化したとしか思えない無機質な冷たさと鋭さが、その姿にはあった。
このような状況が危険なのか、性質が獰猛なのかはわからない。
だが、たとえ野生ではなく人に慣れていたとしても、異邦人であろう自分と意思疎通が可能とは思えなかった。
もうここまで来たら、着ぐるみ説で自分を誤魔化す事は出来ない。
自分が元いた場所には、このような生物が存在しない事くらいわかる。
熊と会ったときは背中を見せちゃいけないんだっけ?
目を合わせながら少しずつ後退するのがいいって聞いたことがある気がする…。
生憎、目の前にいるのは熊じゃなくて、熊に近い大きさのウサギなのだが。
なけなしの知識を総動員して、響子が一歩後ろに足を下げた時、―――ウサギの背後の茂みが揺れた。
『ヒース!!』
緊迫した雰囲気には不似合いな、甲高い声がその場に響く。
木の葉を掻き分けて現れたのは、まだ幼いと言っていい少女だった。
可愛い!
響子の感覚なら、5歳か6歳というところか。おさげに編んだ馴染みの深い黒い髪と大きな瞳。
だが顔立ちは彫りが深く、暑い国の民族を思わせるエキゾチックな美しさがある。
服装は草花の刺繍が入った可憐なワンピース。スイスのチロリアンを彷彿とさせる原色が鮮やかな生地で、日本人より幾らか色づいた蜂蜜の肌に良く似合っていた。
『ヒース!ビスト・ミューデ・ル・コーララ?』
少女は怖れる様子もなく、ウサギに近づき、何事か話しかける。
ぷくっと頬を膨らませていることから察するに、どうやら怒っているらしい。
途端、獰猛(多分)なうさぎは困ったように耳をぴょこぴょこさせ、更に少女が厳しく言い募ると、しゅんと耳を下げ項垂れた。
少女はウサギの主か何かなのだろうか。
こうなると、あれほど恐ろしく感じた存在が途端に可哀想に思えてくるから不思議だ。
「えっと…あなた、あの、もうそこら辺で…ホラ、反省してるみたいだし」
言葉は通じそうにないな、と半ば諦めつつも、響子はなだめる様に声を掛けた。
すると少女は今始めて響子の存在に気付いたように目を見開く。そのままこぼれてしまうんじゃないかという勢いだ。
『トラーム…ラスタ・フェイ・コーララ?マ・ムー“サミアド”??』
案の定、さっぱりわからない。
語感としてはアラビア+中国と言った雰囲気だが、今まで聞いた覚えのない言語体系だ。
何かを尋ねているらしいが、どうしたものやら。
響子の内心の白旗を感じ取ったのか、少女はぱちぱちと長い睫を瞬かせると、やおらその場にしゃがみ込んだ。
手近な木の枝を取り、地面に何事か描いていく。
多分、筆談でもダメなんだけど…。
響子が小さな手元を覗き込むと、その心配は杞憂だった事がわかった。
絵だ。
それからしばらくの時間、響子は少女の絵を解読することに費やした。
幼さゆえの拙さはあるものの、少女の画力はなかなかのもので、おおまかな所はすぐに想像できた。
少女はここから程近くにある家に住んでいて、姉か母親かはわからないが、女性と共に暮らしているらしい。
その女性ならば話が通じるかもしれないので、一緒に来ないか?というような内容だった。
ただ、中には生物なのか食べ物なのか、ゴリラの顔に蝶の羽根が生えたようなどうしても推測出来ないものもあり、正しく理解できている自信はない。
少女の誘いを響子は受けることにした。
見知らぬ土地…下手をすればもっとスケールが大きい事態かもしれない以上迷いはあったが、このままここで一人でいる事のほうが危険だろう。
あのウサギのような動物が当たり前にいるのなら尚更。
とにもかくにも人間がいるのなら、ここが何という国のどこで、今自分に何が起こっているのかわかるかもしれない。
言葉は違っても、コミュニケーションを取る方法はいくらでもあるはずだ。
『ラスタ・フェイ!レム・ララ』
こっちよ、と言うように手招きする少女とその隣をぴょこぴょこ歩くウサギを眺めながら、響子は小さく嘆息した。
南国チロリアン少女に王様着ぐるみウサギ。
コスプレ…じゃないよねえ…。
認めたくないが頭ではわかっている。目の前に映るのは夢でも幻でも妄想でも(恐らく)ない。
けれど、どうにも27年間培った『常識』が邪魔をして。
今まで読んだあまたの小説のセオリーを思い出して、往生際が悪く、響子はそう思ったのだった。